神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

聖霊さまを通した祈り。

2024年10月16日 | キリスト教

【聖霊降臨】エル・グレコ

 

 クリスチャンでない方がタイトルだけ見た場合、「あ~、たぶん軽くヤヴァい人なのかな」とか、あるいは「スピリチュアル系とかそっち?」といったイメージを持たれるかもしれません(^^;)

 

 聖霊さまというのは、キリスト教の「父と子と聖霊の御名によって」の聖霊さまということであり、教会でイエスさまのことを信じる信仰告白をし、聖霊のバプテスマを求める祈りをすると、必ず与えていただけるものです

 

 信者の方によって、信じたその瞬間から、まだ聖書についてちゃんと読んだわけでもなんでもないのに、キリスト教の教義についてもよくわかってないのに、涙が止まらなくなる経験をし、あとになってみればあれが聖霊さまの満たし、聖霊さまが内住してくださったというしるしだった……といった劇的な経験をされる方がいる一方、「牧師さんに半ば脅迫(?)されたので、何かその場は同意してみたものの、特にその後、なんの変化もないような」といった方など、もしかしたら様々かもしれません(^^;)

 

 わたし自身も信じたその瞬間に何かこう感動的なことがあったわけでもなく、とりあえず「信じる」ことに同意してのち、毎日曜教会へ通って礼拝をし、徐々に学びが進んでいった――といった形だったような気がします。聖書なども結構高かったような記憶があるものの、特に疑問に感じもせず、「新約聖書から読むといいよ」と言われたので、旧約聖書からではなく、まずは新約聖書から読みはじめることにしました

 

 今にして思えば、わたし的にはこれが結構「当たり🎯」だったような気がするんですよね。何故かというと、以前から「理屈によってのみ」、あるいは「文学的理解によってのみ」、聖書やキリスト教の世界観について詳しくなりたいと思っていたのですが、旧約聖書の最初のほうを読んだだけで、とにかく挫折していたわけです

 

 ところが、新約聖書から読むことにしたら――もう、サクサク読める!!また、聖霊さまからの霊的助けによっても、理解の進むのがとても速かったわけです。もちろん、あれだけ分厚い本ですし、単に一通り読むというだけでも相当時間がかかると思います。でも、それが全然苦でもなく、毎日少しずつ読んでいき、最終的に新約聖書のマタイの福音書から読みはじめ、新約聖書の最後の書であるヨハネの黙示録まで読み終わり、次に旧約聖書の創世記からはじめて、旧約聖書の最後の書であるマラキ書まで読み終わったというか

 

 教会へ通いはじめた最初の頃に、まだ聖書は全部読み終わってなかったと思いますが、牧師さん御夫妻にキリスト教に関する本を数冊貸していただいた記憶があります。それがまた薄い本で、簡易な言葉によってキリスト教についてピンポイントでわかりやすく書かれたものだったんですよね「そうそう!キリスト教についてわたし、こういうことを特に知りたかった」ということがすごくわかりやすく書いてあって、こうしたこともキリスト教について理解が進む上でとても助けになることだったと思います。

 

 聖霊さまは素晴らしい方であり、イエスさまから与えられたわたしたち信者に対する助け主であって、こんなふうに必要なことはなんらかの不思議な形によって与えてくださる方でもあったりするんですよね

 

 それで、「聖霊さまを通した祈り」ということなのですが、わたしは小さな頃から祈ることが好きな子供だったので、誰かにそう教えられたということもなく、夜眠る前など、布団の中でわたしなりの方法によって祈っていたものでしたこのことは前にもどこかに書いたような気がするものの、わたしは万物すべてに霊が宿っているといったように考えていましたので、「山の神さま、川の神さま、海の神さま……といったように自然の神さまの名前を挙げていき、最後には冷蔵庫や電子レンジや炊飯器にもそれでいくと神が宿っているに違いないと思い、「冷蔵庫の神さま、電子レンジの神さま、電子炊飯器の神さま、洗濯機の神さま、タンスの神さま……」などと、思いつく限りの神さまの名前を挙げていき、そして最後にようやく叶えてもらいたい祈りを口にするわけです。「一週間後にクラス替えがあります!仲のいい▽□ちゃんと同じクラスになれますように!!」とか、クラス替えが終わったら今度は、「一緒のクラスになった□△ちゃんと仲良くしたいです!どうかよろしくお願いします!!」といったように。

 

 その願いは、今にして思うと叶わないことのほうが多かった気がするものの、どちらにしても大切なのは「自分が願ったとおりでなかったにしても、結局仲のいい友達が出来た」ということだったかもしれません。

 

 でも、自分的にこうして自己流に祈っていてその後思ったのは、「神さまに祈っていても、本当に聞いてくださってるのかどうか、よくわかんない」ということだったでしょうか。その確信まではなくても、神さまという存在自体はいると信じているので、自分が困った時、あるいは母など身近な人が病気になった時など、あるいは何もなくても「自分が困った時だけ頼るなんて、都合がいいのでは?」と感じ、普段から祈るようにしてみようと思うものの三日坊主で終わったり……こうした形で自己流に神さまを信じてきたものの、結局わたし自身はその後、神さまというのは土星よりももっと遠い宇宙のどこかにいるような、自分とはあまり関わりのない存在として感じるようになっていったような気がします。

 

 その間も、仏舎利塔を見ては「きっとあそこに神さまがいらっしゃるに違いない!!」と神聖な気持ちになってみたり、お坊さんがお経を唱えるのを聞いて有難がってみたり、とにかく仏教や神社における宗教行事を守るのが大好きでしたし、「子供なのに法事が好きって変わってんね~」と言われたこともありました。

 

 でもその後、「自殺しよう」と考えるほど人生が暗いものになっていくと、最終的に「神がいるかいないか」はどうでもいいことになっていったと思います。そして、そうしたことを自分なりに乗り越えたところでイエスさまと出会って救われたわけですが、↑のような自己流の祈りと、聖霊さまを通した祈りというのは本っっ当に全然違うのです

 

 まず、とにかく神さまに祈るということが、習慣として当たり前のことになってゆきます。しかも、聖霊さまによる助けがあるので、三日坊主にもなることなく、継続して必ず祈り続けることが出来る。もちろん、感情・思索としては「今日はもう祈るの面倒くせえな」とか、色々あることにはあるのです。でも、聖霊さまを通した祈りにどんなに力があるかを一度経験すると、「もうイエスさまに祈っていないだなんてとんでもない!!」としか思えないようになっていきます。

 

 もちろん、言葉だけでこう説明されても、普通に考えた場合「仏教やその他の神に祈るのとキリスト教の神に祈るのとどう違うのかよくわからん」としか思えないかもしれません。これはある程度、救われたのちの経験が必要になってくることかもしれないので、わたしもその違いについてはっきり説明するのは難しかったりはします。

 

 >>人はどんな罪も冒瀆も赦していただけます。しかし、聖霊に逆らう冒瀆は赦されません。

 また、人の子に逆らうことばを口にする者でも、赦されます。しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、だれであっても、この世であろうと次に来る世であろうと、赦されません。

 

(マタイの福音書、第12章31~32節)

 

 たとえて言うなら、イエスさまが自分のことは罵っても悔い改めれば赦されるが、聖霊さまを汚す罪だけは赦されない……それが何故なのかの意味が霊的に深いところで、魂が痛むほどに理解できる、ということなんですよね

 

 聖霊さまは、本当に助け主としてなんでもしてくださいます。そして、聖霊さまが与えられるためには、教会でまずイエスさまを信じる信仰告白をしなくてはなりません。わたしと同じように、信じることに同意したその時にはなんの感じもなく、風がそよとも動いた気配すら感じなかった……それでいいのです。そしてその日から、「聖霊のバプテスマを求める祈り」だけでもしてみることが大切です。わたしも、「聖霊のバプテスマって具体的になんのこと?」という感じで祈っていましたが、教会に通い続けるなら、そのことは時間がかかっても実感とともにわかってくる時が必ずやってきます。

 

 バプテスマとは、ネットで検索するとまず「洗礼」と出てくるのではないでしょうか。これは、肉体における「洗礼」ということの他に、心/魂/霊においてバプタイズされる、ということで、バプタイズの意味は「水浸しにされる」ということです。何によって水浸しにされるのでしょうか?そうなのです……神さま、イエスさまの愛によって、わたしたち信者は水浸しにされるということなのです!!

 

 そして、そのしるしとして与えられるのが聖霊さまであり、聖霊のバプテスマを受けるということの意味です。また、そのことが霊肉ともにおいてわかるということこそ、真にその方がクリスチャンとなり、以降は決して「イエスの愛から離れることはない」ことになるというその意味と思います。

 

 もちろん、イエスさまのことを信じて聖霊さまをいただき、霊において生まれ変わったそのあとも、人生には何かと問題が起きてきます。これは、他のクリスチャンの方のお証しなどを聞いていても本当にそうと思います。でも、このように聖霊さまを受け、死後にイエスさまにある天国、永遠の生命のことが魂に深く理解されると――今までつぶやいてきた人生の不平不満が感謝と賛美に変わったりと、とにかく肉体的には変わったところはなかったにせよ、霊においては最高位の場所、つまりはイエスさまのそば近くに聖霊さまを通してずっと共にいられることになると思います。

 

 それではまた~!!

 

 

 

 

 


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