神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

東西南北、不安・恐怖・苦痛・困難に取り囲まれる。

2024年09月20日 | キリスト教

(※実をいうと、横山光輝先生の「項羽と劉邦」、読んだの昔すぎて「大体こんな感じの終わりだったはず……」くらいの記憶しか今はないため、内容についてもしかしたら間違いがあるやもしれませぬm(_ _)m)

 

「四面楚歌」と入れてググると、わたしのブラウザでは>>助けがなく、まわりが敵・反対者ばかりであること。と出てきます。

 

 確か、学校の国語の教科書に、漢文として出てきたような気もするのですが、何分わたしの記憶も曖昧なので、それより自分的には横山光輝先生の『項羽と劉邦』の最後のほうで、項羽がとうとう孤立無援になる場面が思い浮かびます。

 

 まあ、漫画を読んでる側としては項羽=敵の悪い奴、劉邦=正義を行おうとする良い側――といったイメージで読み進んでいったように思うので、なんというか項羽の軍が劉邦の軍に滅ぼされるのは当然というか、物語のほうもとうとうこの有名な場面に達したか……といったように読んでいた気がするのですが、ようするに孤立無援となった項羽の耳に楚の国の歌が聴こえてくるわけですよね。項羽は楚の国の王さまですから、こう書くと味方が歌っているように思われる……けれど、そうではなく、それは元は楚の国の兵士たちがすでに漢(劉邦の軍)に寝返っていたからこそ起きたこと。そのことに気づいた項羽は、自分が完全に敵に包囲されていると、むしろそのことをよくよく理解した――という、そのような胸に迫る場面だったと思います。

 

 項羽の行う政治が悪かったからこそ、漢の劉邦のことを望む民が多くなっていったのだと思いますし、漫画の読者的にも劉邦が悪い項羽を倒す場面を見るためにこそ、ページを繰っていった気もするのですが、いかに粗暴な王だったからとて、ここまで追い詰められた項羽のことを目にすると……何かこう、今度は気の毒になってきたりもするわけです。ある意味項羽は、それまで自分の思うまま権勢を楽しんできた人物であり、まるで最後の最後でそうした悪い行いのすべての刈り取りをしたようで――唯一の救いは、歴史に美女としてその名を残す、「虞美人草」という植物の名でも知られる奥さんだけは、最後まで彼の味方だったということでしょうか。。。

 

 さて、今回のタイトルは「東西南北、不安・恐怖・苦痛・困難に取り囲まれる。」というものなのですが、そのような状態に至ったのはすべて自分せいで、自分の過去の悪い行いが原因で最終的にそのようなことになった……ということは、実際はあまりないような気がするんですよね。おそらく多くの場合は、自分の力で避けようのないこととして、自分を取り巻く環境がそのようなものを何かの呪われた運命のように押しつけてきた――ということと、「確かにこういうところは自分も悪かった」ということの組み合わせというのでしょうか。

 

 つまり、百パーセント環境や相手が悪かった……ということもありえるにしても、多くの方にとって心当たりのあるのは、「こういうところは自分も悪かった」と認めつつも、「それでも流石にこりゃねえだろォッ!!」という、自分の力ではどうにも出来ない運命や環境の力の作用によって、なんらかの不安や恐怖や苦痛や困難に見舞われている。この時、北には不安があるので南に逃げようとして今度は恐怖に突き当たり、それが耐え難かったので西へ向かったところもっとひどい苦痛に見舞われ、そこからも必死に逃げ、「今度こそは……」と期待を込めて東へ走ったところ、そこには別の形での困難が待ち受けていた――わたしは今はクリスチャンになったのでそうした考え方はしなくなったのですが、それでもその前までのわたしの思考法というのは間違いなく「神さまって、なんて意地悪なんだろう」、「いや、そもそも最初からこの世界に神さまなんて存在しやしないんだ」……というものだったと思います。

 

 そして、その時点でもし「もう脱出の道などどこにもない」と絶望し、自殺しようと考えたとすれば――思うと思うんですよね。「最終的にこうなるのであれば、最初に不安と恐怖と苦痛と困難が先に予測された極初期の頃にこうしていれば良かったのじゃないだろうか」って。

 

 >>手首を剃刀で切るのには勇気がいる
 天井から縄をぶら下げて首を吊るのにも勇気がいる
 レールの上に寝転がり、電車が来るのを待つのにも勇気がいる
 アクセルを思い切り踏み込んで、海の中へ沈むのにも勇気がいる
 10階建てのビルの天辺から足を踏み外すのにも勇気がいる

 (死ぬのは嫌だ)
 (痛いのは嫌だ)
 (苦しいのも嫌だ)
 (恐いのも嫌だ)
 (でも生きているのも嫌なんだ)

 死ぬ覚悟を反転させるのには勇気がいる
 生き残ることを選択し続けることにはもっと勇気がいる

 

 そうなのです。首吊り縄というのはどうも、そう簡単にきゅっと首を絞めて我々を楽に殺してくれるものでもないらしい。それでも、「苦しいのはほんの五分とかそんなものではないか」、「それに比べて今後最低五年以上も今と同じ苦しみや悩みが続くとしたら、私には到底耐え難い」という、そうしたことを秤にかけて、首吊りでなかったとしても、人はなんらかの自殺の手段に訴えようと考えるものだと思う。

 

 もう少し運の良い人であれば、「そこまでいくどこかしらに」、「人生の希望の種や芽のようなものを見出して」、「どうにかこうにか生きていく」、すると再び、耐えた分のフィードバックのようなものがあって、「やっぱりあの時死なずに生きていて良かった」となるのではないかと思うんですよね(^^;)

 

 また、自殺することが脳裏をよぎるほどひどくなかったとしても、東西南北を不安や恐怖や苦痛や困難に取り囲まれるような経験を通されることは誰しもあったりするわけで……それでも、「北は不安で空が曇っているが、南は快晴で太陽が希望で輝いているぞ!!」というなんらかの拠り所というのがひとつくらいあるのが普通であり、苦痛に見舞われても、それは耐えられるほんの短期間であったり、困難であっても、それは自分の努力と忍耐力でどうにかなるものだったり――いえ、それが「どうにかこうにか自分にも耐えられる範囲内」のもので、のちには「あの苦難は自分の人間性が練り上げられるために必要なものだったのだ」と思えるものだったらいいとも思うわけです。

 

 でも本当に、「オレが前世で何かそんなに悪いことでもしたってのか、ええっ!?」というくらい、自分が悪いわけでもないのに「運の悪い方」というのはいらっしゃると思うわけです。また、そこまでひどくなくても、「自分は運が悪いなあ」と感じたり、「べつに、宝くじで百万でもいいから当たれなんて言わない。そんな棚ぼた的ラッキーなんて期待しやしないさ。なんだったら毎回はずれて、「そうだよなあ。そんなもんだよなあ」とつぶやく人生でもいい。でももうちょっとなんか……神さま、運のいい奴とオレとで何が違うというのか、そこんところの運命のカラクリってもんを教えてくれねえかと、まあこう思うわけだよ」と、そんなふうに感じながら生きていらっしゃる方というのは多いのではないでしょうか。

 

 キリスト教における運が上がる秘訣(?)は、まず「自分の運が悪いことを神に感謝する」ということであり、なおかつ、「そのことを踊り上がって賛美し喜べ」というものです。

 

 >>主をおのれの喜びとせよ。

 主はあなたの心の願いをかなえてくださる。

(詩篇、第37編4節)

 

 >>いつも喜んでいなさい。

 絶えず祈りなさい。

 すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。

(テサロニケ人への手紙、第5章16~18節)

 

 >>愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、

 むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現われるときにも、喜びおどる者となるためです。

(ペテロの手紙第一、第4章12~13節)

 

 >>信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自身の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。

(へブル人への手紙、第12章2節)

 

 >>人の子のために、人々があなたを憎むとき、また、あなたがたを除名し、はずかしめ、あなたがたの名をあしざまにけなすとき、あなたがたは幸いです。

 その日には、喜びなさい。おどり上がって喜びなさい。天ではあなたがの報いは大きいからです。

(ルカの福音書、第6章22~23節)

 

「そんなのつきあいきれねえや。このただの宗教気違いのオタンコナスめ!!」とおっしゃる方はそれでいいのです。けれど、本当に絶望し、こここそどん底と思っていたら、さらにまた下にもっと深い底があると知った……というくらいになると、むしろ「そこまでひどいことは言われたことねえや」と、実践できる方というのが出てくると思います。

(AMZNの紹介文のところには、「自分を苦しめている状況を変えてくださいと神に願うのではなく、私たちの身に起きるあらゆることについて神を讃美し始めると、はじめて神の力が働き始める。」とあります

 

 そして、こちらのマーリン・キャロザース先生の「讃美の力」は、「この状況の何を神に感謝しろってんだよォ!?」というくらいの方が感謝と賛美の実践をしたところ、その後人生が変わってきた、問題などが解決された――といった証しについて書かれています。

 

 たったのマイナス70程度の不幸を経験した方が、その後人間的努力その他の改善によってプラス70の人生を歩んだといった場合……その場合でもイエスさまのことを信じていたら、毎日そのことを神さまに感謝し賛美すると思います。けれど、マイナスが700であったら、その後プラス700どころか、7000ものイエスさまの恵みに満たされたとしたらどうでしょう。また、70000もの癒しがたい不幸の群れが蹴散らされ、イエスさまの救いによってそれが、70万にも七億万にも、いや、七十億、七百万億にもなったとしたら?

 

 数は1、10、100、千、万、億、兆、京、垓……極、恒河沙、阿僧祇、那由他、不可思議、無量大数となっていきますが、イエスさまの愛と恵みには限度がありません。それは数え切れないものなので、信じるすべての人々に有り余るほど配ってなおさらにあまり、この広大な宇宙全体にさえも収まり切れないほどのものです。

 

 むしろ、人生マイナスで運の悪い人はラッキーなのかもしれません。>>「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。心の清い者は幸いです。その人は神を見るからです」(マタイの福音書、第5章3~8節)……とも聖書にはあります。そこそこ運がよく、そこそこの人生を送れるのが結局のところ一番幸福なのではないか――と、わたしもそんなふうに思ったことが過去にあります。けれど、究極とは何か、最高とは何かと芸術家が追い求めすぎるあまり、最後には不幸と破滅に身を落とすというのではなく、究極の神の愛、最高の神の恵みとは何か、キリスト教信仰においては、「まあまあの神の愛、そこそこのイエスさまの恵みを求めよう!!」といった想念や態度自体が、ある意味不信仰となることなのではないでしょうか。

 

 それではまた~!!

 

 

 


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