神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

神に背くことで、この上もなく呻く人々。

2015年09月21日 | キリスト教
【悦楽の園】(右扉部分)ヒエロニムス・ボス



 第四の御使いが鉢を太陽に向けてぶちまけた。すると、太陽は火で人々を焼くことが許された。
 こうして、人々は激しい炎熱によって焼かれた。しかも、彼らは、これらの災害を支配する権威を持つ神の御名に対してけがしごとを言い、悔い改めて神をあがめることをしなかった。
 第五の御使いが鉢を獣の座にぶちまけた。すると、獣の国は暗くなり、人々は苦しみのあまり舌をかんだ。
 そして、その苦しみと、はれものとのゆえに、天の神に対してけがしごとを言い、自分の行いを悔い改めようとしなかった。


(黙示録、第16章8~11節)


 黙示録は聖書中でも解釈が難解な章なので、その解き明かしについて軽はずみなことは言えないと思うのですが、この箇所を読んだ時、神を呪った人々の気持ちが「なんとなくわかるなあ」と思ってしまいました(^^;)

 そもそも、イエスさまが十字架にかかった時代にわたしは生きてなくて本当に良かったと思います。もしそうなら、イエスさまの奇蹟を見ても信じず、己の教理でコチコチに凝り固まったパリサイ人と同じく、イエスさまのことを「十字架につけろ!」と叫んだ群衆のひとりだったと思いますから。

 人というのは、神さまに従いたい、従い通したいと願う気持ちと、自分の欲望のままに歩みたい、神のことなぞ知ったことかという神さまに背く気持ちとが共存している生き物なのかもしれません。

 時に、そのうちのどちらを選ぶかで、その人の最終的な姿が決してしまうことがあると思うのですが、黙示録に出てくるこの人々も、もしかしたら最初はとても善良な人たちだったのかもしれません。

 聖書を通読していると、意外にこの<選び>ということが重要であることに気づかされますが、聖書の語るメッセージを別としても、最初に人が神さまから離れる時というのはまずその第一歩があると思うんですよね。

 一歩離れたというくらいでは、「自分が考え直し、戻ろうと決めた時」にいつでも戻れると人はそう考えます。それに、神さまのほうでも一歩離れたくらいではこちらを罰する様子もない……そう思って人は、今度は二歩三歩とどんどん神さまから離れてゆきます。

 そして十歩か二十歩、あるいは五十歩でも百歩でもいいのですが、そのくらい離れた頃に、神さまからの罰かどうかは別として、とにかく何か不幸なことや、自分の間違った選択による罪の刈り取りといった事件が起きたりすると――ますます人々は心を頑なにして神さまから離れていくのではないでしょうか。

 しかもその頃には、「もう一度神さまの元へ戻りたい」と思っても、周囲は鬱蒼とした森のような場所となっていて、どうやって戻っていいかすらわかりません。

 ここまでのお話はあくまでも比喩ですが、聖書に書かれたことに話を戻しますと、こうした時に人々が神さまに助けを求めると、神さまは人々を助け、救いに導いてくださったと聖書にはあります。


 彼らは荒野や荒地をさまよい、住むべき町へ行く道を見つけなかった。
 飢えと渇きに彼らの魂は衰え果てた。
 この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から救い出された。


(詩篇、107章4~6節)

 やみと死の陰に座す者、悩みと鉄のかせとに縛られている者、
 彼らは、神のことばに逆らい、いと高き方のさとしを侮ったのである。
 それゆえ主は苦役をもって彼らの心を低くされた。
 彼らはよろけたが、誰も助けなかった。
 この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から救われた。


(詩篇、107章10~13節)

 愚か者は、自分のそむきの罪のため、
 また、その罪のために悩んだ。
 彼らのたましいは、あらゆる食物を忌みきらい、
 彼らは死の門にまで着いていた。
 この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から救われた。


(詩篇、107章17~19節)


 けれど、それでもまだ自分の人間的努力の肉的な道、あるいは欲望の道が諦めきれなかった人々は、神さまに背いたまま、自分の思ったままの道を進んでゆきました。


 彼のむさぼりの罪のために、
 わたしは怒って彼を打ち、顔を隠して怒った。
 しかし、彼はなおそむいて、
 自分の思う道を行った。
 わたしは彼の道を見たが、彼を癒そう。
 わたしは彼を導き、彼と、その悲しむ者たちとに、慰めを報いよう。



 と、神さまはイザヤ書の第57章でおっしゃっています。

 けれど、それにも関わらず人間が深い神さまの憐れみのことを思いもせず、己の道にしがみつき、先へ先へと自分の道へと進んでいこうとした場合――最終的には、「神さまに背く気持ちで呻く」ことになるような気がします。

 これはどういうことかというと、ここまでのひどいことが起きてしまった以上は、流石に神さまの存在、その御力を認めたいと思うものの、それまでにあまりにたくさんの人間的努力を払い、長い道を強い推進力で歩んできたがゆえに……そこからも離れがたく、その両方の力の間で引き裂かれるようにして呻く、ということです。

 わたしは思うのですが、神さまの道を間違いなく絶対に選ぶ、あるいは、何がどうあろうと私は己の道をゆくのだ……という、そのどちらかを選ぶ二者択一ならば、もしかしたらその時々によって人はそう悩まないかもしれません。

 けれどこの、どちらを選んでいいかわからない、右も左も選べず身動き出来ない人間の状況というのは、本当に<悲惨>の一言という気がするんですよね。

 この黙示録に出てくる人々も、もしかしたらわたしが人間的な読み方をしているのかもしれませんが、それでも「同情の余地」のようなものはあるような気がしています。

 時代がどんどん悪くなっていって、獣の印を受けた人でなければ物の売り買いが出来ないであるとか、そうした権力を持った人々が「拝め」といった像を拝んだところで、我々はそのような存在に脅されて屈したにすぎないのだ、だから我々は無実だ、にも関わらず神の奴は炎熱やら悪性の腫れ物なんかで打ちやがってこんちくしょう!!といった、そんな依怙地な気持ちだったのかもしれません。

 けれど、やっぱりこの場合でも、大切なのはやはり<選び>ということだと思います。そして正しいほうをどうしたら選べるのかといえば、やはり普段から神さまに祈るとか、神さまのことに思いを潜めて黙想するであるとか、そうした時間を意識的に取っている人のほうが惑わされる可能性も低く、<正しいもの>と<極めて正しいものに似せてあるけれども、実は間違っているもの>との見分けがつくのだと思います。

 わたしは時々、信仰というものは羅針盤に似ているような気がしています。ジャングルの奥地にいようと、極寒の地にいようと、とにかく信仰という羅針盤がありさえすれば、それは<北>、つまりは神さまのいらっしゃる方角を指し示してくれます。

 そして、周囲の状況がどうで、人々がなんと言おうと、とにかく<北>以外には進まないと心に定めるなら、また羅針盤の針がぐるぐると回転し、判断がつかないような時には神さまに祈ってどちらへ進めば良いか人が尋ね求めるなら――神さまは必ずそのような人のことを心に留めて助けてくださるのだと思います。

 神さまはこうして人々を最終的にふるいにかけ、救うべき人たちをお救いになるのだと思うのですが、そのためにはイエスさまのおっしゃったとおり、聖書にあるとおり、油断せず祈り、ともしびと聖霊の油とを絶やさない信仰者である必要があるのだと思います。

 それではまた~!!





コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« あのころはフリードリヒがい... | トップ | 少女パレアナ-【1】- »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

キリスト教」カテゴリの最新記事