神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

天は自ら助くる者を助く。

2024年10月11日 | キリスト教

【キリストの変容】ラファエロ・サンティ

 

 >>「天は自ら助くるものを助く」は、他人の助けを借りずに自分自身で努力する者に天が力を貸してくれるという意味のことわざです。英語では「God helps those who help themselves.」と表現されます。

 
 この言葉は、サミュエル・スマイルズが著書「Self-Help」の中で使用したものを、思想家の中村正直が「西国立志編」(1871)で訳して広まりました。
 
「天は自ら助くるものを助く」の類義のことわざには、次のようなものがあります。
  • Fortune hates the slothful.(幸運の女神は怠け者を嫌う)
  • If you don't help yourself, nobody will.(自分で何とかしなければ、だれも何もしてくれない。)

 

 これはAIによる概要なんですけど、どことなく自己責任論的な感じがして、冷たく感じられたりしませんか?(^^;)

 

 これは以前、似たようなことをどこかに書いたような気がするものの……ようするにキリスト教によるイエスさまの救いというのは、地獄に垂らされた糸のようなものにたとえることが出来ると思います。

 

 つまり、その糸――というか、糸という表現がもし心許なかったとすればロープでもいいと思うのですが、そのロープにイエスさまのことを信じてしかと掴まる。すると、あとは「イエスさま、ありがとうございます。あなたが十字架にかかってくださったことで、罪のすべてが許され、それのみならず天国へ行けることの出来る我が身を感謝します」と祈ってさえいれば……あとは、エレベーターかエスカレーターに乗ってるみたいにするするっと上までなんの努力もなしに上がっていくことが出来る、というのがキリスト教の基本的な教えと思います。

 

 ところがですね、「天は自ら助くる者を助く」という言葉のとおり、「そうだ。イエスさまや天使さまにこの汚れた我が身を引き上げていただくだなんてとんでもない!せめてもそのくらいの努力はしなくっちゃ!」という考え方をすることが、人には時としてあるのではないでしょうか(^^;)

 

 もちろん、信仰生活を続けるにおいて、「だから一切なんの努力もしなくっていいんだもんねー」ということではないですし、聖霊さまを通して語られたことを実行するのに、自分の強固な意志の力や努力や忍耐が必要になるなど、葛藤や迷いを経験したことのまったくないクリスチャンの方はいらっしゃらないと思います。

 

 でも基本的には、命からがらの困っていたところを、「他にはなんの望みも救いもない」というくらいのところを彷徨っていて、イエスさまと出会い、ロープの端のところにがしっ!!としがみつき、あとはただその「がっしりとしがみつく」、ただイエスさまの十字架を信じたというそれだけで、残りはするするっと上まで楽に持ち上げていただいた……というのが本当にキリスト教の基本の「き」と思います。

 

「自分で登る努力をしなくてもいいのか」論については、基本的にはまったく何もしなくていい、でも信仰を持ち続けるにおいては、努力や忍耐といったものは自然に生じるものだと思うわけです(^^;)

 

 >>もしあなたがたが、キリストとともに死んで、この世の幼稚な教えから離れたのなら、どうして、まだこの世の生き方をしているかのように、

「すがるな。味わうな。さわるな」というような定めに縛られるのですか。

 そのようなものはすべて、用いれば滅びるものについてであって、人間の戒めと教えによるものです。

 そのようなものは、人間の好き勝手な礼拝とか、謙遜とか、または、肉体の苦行などのゆえに賢いもののように見えますが、肉のほしいままな欲望に対しては、何のききめもないのです。

 

(コロサイ人への手紙、第2章20~23節)

 

 その~、わたし自身は仏教の滝行など、「まったく意味がない」とか「無意味な行為」といったようには思いませんが、キリスト教においては「魂の救いそのもの」と肉体の苦行は関係がないわけです。

 

 わたしはこんなにも肉体を打ち叩いて修行した、この苦行を神さまにお捧げしますとか、そうしたことではなく――自分がイエスさまの十字架を信じ、天国へ行ける身になったのと同じく、まだ信じることの出来ていない人にその良いニュース、『福音』をひとりでも多くに伝えよう、そのことが神さま、イエスさまのもっとも喜ばれることだから、というのが一番大切なことなわけです

 

 >>あなたがたはどう思いますか。もし、だれかが百匹の羊を持っていて、そのうちの一匹が迷い出たとしたら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を捜しに出かけないでしょうか。

 そして、もし、いたとなれば、まことに、あなたがたに告げます。その人は迷わなかった九十九匹の羊以上にこの一匹を喜ぶのです。

 このように、この小さい者たちのひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではありません。

(マタイの福音書、第18章12~14節)

 

 神さま、イエスさまのなさることは本当に不思議と思います。父なる神さまの遣わされたイエスさまのことを「神の御子である」と告白しさえすれば、天国へ行くことが出来る――普通の人間の頭で考えた場合、「ハァ!?」という話です。また、わたしもそうですが、実際に「信じる」に至るまで、人間的理屈による壁というものがあって、「ここが変だよ、キリスト教」的なことは、何かこう普通に考えて色々ある。

 

 でも、実際に「信じる」に至ってみると、わたしも理屈であれこれ考えて信じたわけではなく、簡単にいえば「霊によって信じた」わけです。教会に満ちる聖霊さまの霊の働きかけによって、最初から「おお、ここには間違いなく神の霊が満ち満ちている」なんて思ったわけでもなく、ある種の嫌な感じではない、「ここへは必ずやって来なくてはならない」という霊の強制力がありました。

 

 まあ、普通は「霊」と聞いただけで相当うさんくさい感じがするわけですけど(笑)、文字通り聖なる霊、特別な神さまの祝福があるということが、キリスト教について本当の意味でよくわかっているわけでも、まだ聖書をきちんと読んだことがあるわけでもないのに、霊に感じてわかったということだと思うんですよね。

 

 わたし自身の性格的なことでいえば、「十分理解してから信じる」とか、「意味がわかったら教義に同意する」であるとか、他のみなさんもそうでしょうが、極めてそうした傾向が強いわけです。また、人生でもっとも困っている時に、藁にも縋る思いで信じた……といった素晴らしいお証しを聞いたり読んだりすることが、その後何度もあったわけですけど……わたしの場合は、「自殺しようと考えるほど一番困っていた」といったような時期は通りすぎ、次の段階くらいにいた頃に信じることが出来たわけです。

 

 なんというか、あくまでもわたしの場合、死のうと考えるほどひどい精神状態の時であれば、「神がいるならば、何故AはBであってZじゃなかったんだ」といったような神さまに対する文句であるとか、神を信じることの虚しさなどが先行し、福音を語られる機会があったとしても、まず信じることは難しかったろうと思います。

 

 ネットを使用していて、何かの会員に登録する際などに、「会員規約に同意する」とか、その前にある□のところにチェックを入れてから次へ進む――的なことがよくありますが、あれ、すべての文章を読む方はまずもっていらっしゃらないと思うんですよね(笑)。

 

 イエスさまの十字架、その福音を信じるって、何かそんなことに似てるんじゃないかな……と、この間ふと気づきました。まず先に□にチェック入れて会員情報なるものを登録し、その後、会員規約的な文章を読んで理解するわけです。普通、どう考えてもあんなものを読むのは面倒くさい――でも、イエスさまのことを教会で信じて救われ、聖霊さまの内住を経験すると、そこに書かれたことを読むのが楽しくて楽しくてしょうがない……といったように変えていただくことが出来たりするわけです

 

 また、そうした変化といったことは本当に「奇跡」と思います。イエスさまのことを愛するという信仰生活は、好きな人のことはなんでも知りたいと感じるのにも似て、(あのどう考えても読む気になれそうもない分厚い)聖書を読むのが楽しくなったり、以前は人間の肉体的努力によってでは到底理解できなかったことに対する理解力や、霊的洞察力まで与えていただくことが出来るのですから……。

 

 つまり、ロープの端にがしっ!!としがみつくことをすれば、後は聖霊さまが導いてくださって、するするっと天国へ至るまで引き上げていただけるというのは、そうした物凄い神さま、イエスさまの恵みに満たされることだったりするわけですよね

 

 それではまた~!!

 

 

 

 

 


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