神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

神さまの愛の泉に沈められる。

2020年08月11日 | キリスト教
(この場合はただの温泉というのとは違います・笑)

「愛と聖霊の泉」 

「聖霊さまの蜂蜜シロップ漬け」

 前にも大体同じようなことをテーマにして記事を書いてる気がするのですが、この世の中には今現在人類が困り果てている新型コロナウイルスのことを抜きにしても――人類の誕生した遥かなる昔より、「神さまがおられるのなら、何故こんなことが起きるのだろう」ということで地上は満ちてきました。

 病気のことに関していえば、遺伝子を解析すれば、その人がどんな病気にかかりやすいかなど、因果応報的な理由によってその方がある特定の病気にかかるわけではないなど、だんだんにわかりつつあるわけですが……たとえば、北朝鮮から脱北した方が「生まれてくる国を間違えた」とおっしゃっていたように、明らかに「その方の性格やそれまで生きてきた素行が悪かったわけでもないのに」経験せざるをえなかった不幸といったものが、この世界には数限りなく存在するものだと思います。

 また、不幸の質として、それがある程度耐えられる範囲のものであり、自分で苦しんだ過去を振り返ってみて、「あの不幸はあって良かった。何故といって、そのお陰で自分は精神的にも強くなり、人の気持ちがよくわかる人間に成長することが出来たから」といったものならいいのですが、地震や津波といった災害など、誰のせいでもなかったにせよ、「あの不幸はあって良かった」などとは、口が裂けても言うことは絶対出来ない……そういった人類の誰しもがただ口をつぐみ、下を向いて涙を流すしかないといった不幸が、この地上には今より遥か彼方の昔より存在してきたといっていいと思います。

 わたしも、自分がまだノンクリスチャンであった頃、こうしたことを色々と考え、さらにはアフリカの戦争や飢餓に苦しむ方々のことを思ってみても――最終的にわたしが結論として出したのが「こりゃ、この世には神も仏もありゃしねえ」ということだったと思います。

 そして、こうした事柄についてはクリスチャンになった今も答えは出ていないのですが、ひとつ下の記事などにも書きましたとおり、わたしは脳を通した理屈によってイエス・キリストを信じているわけではなく、霊によって直接信じているので……「神がいる」ことは理屈抜きの霊(心・魂・精神)によって信じられるにしても、脳の理屈によっては今も「ああ、神さま。何故新型コロナウイルスなどというものによって多くの方が苦しまねばならないのでしょう」といったように、答えの出ないことを禅問答のように考えることにはなるわけです。

 それで、ですね。ここから先は、わたしがなんとなく人間的に考えたことなので、キリスト教信仰とは少し別のことになるわけですが、もしこの世界に神がいなかったとすれば――この世界はビッグバンが起きて以降、ずっと偶然に次ぐ偶然の連なりによって今現在に至るまで続いてきた、ということになると思います(これも前に同じことを書いた気がしますが、物理学でいう「標準理論」とか「標準モデル」と言われるあれです^^;)。

 でも、多くの方はおそらく、このあまりにも科学的な考え方にも馴染むことが出来ず、かといって真実本当の、本物の神さまが存在するとも信じきることが出来ない……という、大体偶然と運命の「間」くらいのところに真実味を感じて生きている、という方がもっとも多いのではないでしょうか。

 確かにわたしも、この世界、地球といったものに人類が誕生し、今という現在に至るまで――おそらく神さまは、「人間にとって生きるのに十分な、必要最低限の環境」といったものを整えてくださった、という部分について、ある程度科学的な考え方をそこに入れても矛盾はないのではないか……と思っていたりはします。

 キリスト教においてははっきり、この地球の全天全地、また宇宙に至るまでもすべて神さまがお造りになったと教えています。でも、わたしたちが思うのはおそらく……もしそうなら、人類のはじめの頃より自然災害というものはあったわけですから、そのすべてから御自身のお造りになったはずの人間をひとり残らず守ってくださらなかったのは何故か、ということになりますよね。あるいは、病魔などよりも守ってくださらないのは何故か、せっかく育てた作物が収穫直前でいなごに食べ尽くされてしまったのは何故か、何故あなたはこうした苦難や絶望を人間にお与えになるのですか、あなたはこの哀れな人間たちを造るだけ造っておいて放置しておられるのでか、それともかつてはあった愛が今はもうなくなってしまったのですか――となるわけですが、大体こうしたことの答え、あるいはそれに近いものについては、聖書の中に書いてある、あるいは行間を読みとるならば理解できるといった形で書き記されているといっていいと思います(もっとも、そのためには信仰を持って読む必要があるのですけれども^^;)。

 まず、神さまは旧約聖書においてイスラエル民族を選びとり、その祖先である人々に「自分こそが神である(わたしは「ある」という者である)」ということをお知らせになりました。つまり、最初から人類すべてに対して「ある」という神が本当に実在しているよ……といったことをすべての人間がまったく同じ時期に同時に知るといったことは望まれず、ある特定の民族をひとつ選びとり、このイスラエル民族から出たイエス・キリストこそこの世を救う神の子である――という神さま御自身しかお知りにならない御計画を立て、「いずれそのような救世主(メシア)が生まれる」ということを、実際にイエスさまが誕生される遥かな昔よりイスラエル民族に預言を通し知らせ続けてきたわけです。

 ところが、このイスラエル民族の子孫たちは、実際にイエスさまという救世主がこの世にやって来てみると、「あんな奴は我々の思っていたような旧約聖書に書かれたメシアじゃない」と言って、十字架にかけて殺してしまった……けれど、そうなることもまた、旧約聖書には前もって書いてあるというのがまた、キリスト教の恐ろしいところだと個人的に思うのですが、「このイエスさまを信じた者は天の門の内側に入ることが出来る」――という約束を信じている人々が、新約聖書以降のキリスト教徒、クリスチャンと呼ばれる人々なわけです。

 わたし自身、自殺するとか死ぬといったことをかなり長い間考えていた人間だったので、「もし神さまがいるのなら、何故こんなことがあるのだろう、起きるのだろう」ということについても、ある一時期ほぼ同時に考え続けてきました。でも、実際のところ、アフリカの人々の飢餓の苦しみですとか、戦争の悲惨さといったものは、ある程度想像することは出来ても、自分が直接経験した悲劇ではないわけですよね。それなのに、「神よ、あなたはおかしい」と言い続けてきたことのうちにも自分の側に非があり罪があったということを、クリスチャンになることが出来た今は、素直に認め、神さまに対して膝を屈めてあやまることが出来ます。

 もちろん、ノンクリスチャンの方にとっては、そうなる「間」に何があるのかと、ここは少し不思議になられることかもしれません。でも、かなりのところ傲慢な言い方をしたとすれば、「わたしが神でも同じようにするだろう」と言いますか、神さまに不可能はないという意味合いにおいて、日本にもアメリカにもヨーロッパにもロシアにもインドにもアフリカにも、同じ神がほぼ同時に現れて、「わたしを信じなさい。何故ならわたしこそがこの全天全地を造った神だから」と自分を崇めさせることは簡単なことだったと思います。けれども、神さまはそうすることをお望みにならなかったということに対しても、聖書を読むとただ「アーメン(神よ、そのとおりです)」としか言えなくなってしまうのです(^^;)

 こうしてわたしたち人類は、自分がどのような神を信ずるべきかについての自由さえも得、また、すべての人類が同じひとつの神を信じるように導かれていたならば、決して得られなかったであろう多様性や自由意志といったものすらも得ることが出来ました。ただし、このことのうちには代償があるということです。

 わたしには今この瞬間も、神さまに祈るべきか、それともゲームをしたり漫画を読んだりすべきかの自由が与えられています。また、こうした書き方をすると「自由意志があるはずなのに、もうしなきゃならないことは神にあって決まってるようなものじゃないか」と思われる方も多いと思います。つまり、自分が本当には自由ではなく、神に隷属した状態にあってしか自由でない、神にあって自由を制限されているようなものじゃないか、と。

 もしかしたら、たとえがあまりよくなかったかもしれませんが、もしわたしが100%自由であって、あれをする自由もこれをする自由もあったにせよ、その結果というのはかなりのところ自己責任を伴う危険なものでもあるわけです。わたし自身はノンクリスチャンであった頃、こうした過程を通して、結局のところ「死にたい、自殺したい」と思っていたわけですし、また鬱病の癒し、その他人生上の苦難を通してイエスさまを信じた方の中には、信じて以降、「これこそ本当の神さまにある自由だ」と感じて生きておられる方がたくさんいらっしゃいます。

 クリスチャンというのは、そもそもが神さまの奴隷という意味だそうですが、神さまに隷属している状態こそが真の自由というのは――少し、不思議な感じのすることかもしれません。けれどもこうしてイエスさまを信じる道に入るというのは、神さまのカバーリングの下に入るということですから、世俗的な道を捨て、神さまを選ぶ、神さまの道を第一とするということのうちには、その道を選んだ人しかわからない、はかりしれない祝福が同時に伴うというのも事実なのです。


 >>兄弟たち。私を見ならう者になってください。また、あなたがたと同じように私たちを手本として歩んでいる人たちに、目を留めてください。

 というのは、私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。

 彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。

 けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。

 キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを御自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。
 
(ピリピ人への手紙、第3章17~21節)


 今回のタイトル、「神さまの愛の泉に沈められる」というのは、つまりはそういうことだったりします。一度、聖霊さまによって神さまの愛の泉に沈められてしまうと――その至高の状態に肉体にあるうちはいつまでも留まっていられないにせよ、死んで霊だけの存在になったとすれば、その魂の至高の状態にあるというのが、当たり前ということになるわけですよね(^^;)

 イエス・キリストを聖霊によって信じたその瞬間から、その人の名は天の書物に書き記されている(我らの国籍は天あり)……などと言われても、「それを一体どうやって確かめるのだ」という疑問が人間には残るでしょう。けれども、聖霊さまが必ずそのことの保証をくださるので、神さまの愛が自分に刻まれていると感じるのと同時に、その方は自分のこともまた神さまに覚えられていると確信することが出来るのです。

 今回はちょっと難しい話になってしまった気もするのですが(汗)、「まあ、なんとなく言いたいことはわかる」みたいな感じで受けとめていただけたとすれば幸いですm(_ _)m

 それではまた~!!





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