神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

神は霊です。

2020年08月02日 | キリスト教

 ここのブログではないのですが、以前他のブログのほうでマーリン・キャロザース先生の感謝と賛美のことについて書いたことがありました。そのブログには「足あと機能」というのがあって、ブログを見た方が同じようにブログをやっていた場合、そちらに跳べるようになっていたんですよね

 そして、その方のブログトップにあった記事を読ませていただくと――お母さんの足かどこかを車で轢いてしまうという事故を起こしたことがあり、そのことがその方にとって心の傷になっている……といったことがほんの数行なのですが、そういった意味のことが書いてあったように記憶しています。

 その時、わたしの書いた記事の、マーリンさんの「良いことも悪いことも感謝する」というメッセージを読んで、その方はどう思われたのだろう……と思うと、なんだか胸が痛みました。。。

 マーリンさんの御著書やお証しの中には、「そんなことを神さまに感謝したところで一体なんになるだろう」、「でも、他の何をしたところで今の絶望的な状況が変わるわけでもないのだから、この人(マーリンさん)の言うとおり、やれるだけやってみよう」……そう思い、そのことを実行した時に、それ以後人生が変わっていったという方のお話で満ち満ちています。

 つまり、「神さまに娘の精神病を感謝したところでなんになる」とか、そういったところからはじめて夫婦で神さまに祈ったところ、娘さんの精神病が癒されたですとか、精神病でなくても素行等に問題があって悩んでいた息子さん・娘さんの態度が変えられて、同じようにイエスさまを信じるようになったですとか、そうしたことですよね

 このことの内には「信仰を働かせた」という奥義があるといっていいと思います。どういうことかというと、イエスさまのことを信じていて、毎日聖書を読んだり、日曜礼拝を守っていたとしても――唯一、聖霊さまを通して神さまが語られたことを実行に移すことだけはない、ということは、すべての信者の方にありうることだと思います。

 そして、信仰の行き止まりとか人生の袋小路のようなところに追いつめられると、悩むわけです。「わたしはイエスさまのことを信じているのにどうして……」とか、「わたしの信仰に何か落ち度があるのでしょうか」、「毎日祈っているのに、何故問題が解決しないのでしょう」といったように。

 わたしもしょっちゅうイエスさまの聖霊さまを通した語りかけを落としてばかりいるのでわかるのですが(汗)、そうした場合、どこかに必ず「唯一このことについてだけは神さまに聞き従っていない」とか、「他のことはすべて守っているのに、このことだけは神さまに感謝していない」、「実は自分で問題をがっちり握っていて、『自分の望む形で解決がなされない限り、他の解決方法では絶対納得しない・できない』」ですとか、必ず何かひとつはそうしたことがあるのではないでしょうか(少なくとも、わたし自身は絶対的にそうでした^^;)。

 そして、もしわたしが自分の母の足かどこかをあやまって車で轢いてしまったとすれば――自分がそうなるよりもつらい、一生の十字架を背負うくらいの、苦しい罪悪感を抱き続けることになると思うんですよね。また、こうした事柄について、いくら「いいことも悪いことも神さまに感謝する」なんて言われても、「えっ!?何言ってるのよ!!」っていうこと以外の何ものでもないと思うのです。

 ただ、こういった事柄について、人にはどうにも出来なくても、神さまはその方の心をどう癒したらいいのか、知っておられるということだけは確かかもしれません。

 たとえば、わたしは脅迫神経症ですが、いくら祈っても癒されなかったにしても、「だから神などいない」とか、「祈っても無駄だった」ということにだけは決してなりませんし、他の方の「末期がんが奇跡的に癒された」といったお証しを聞きながら、「ああ、それなのに何故わたしは……」といったように思うでもなく、とにかくその方の末期がんの癒されたことを聖霊さまにあって心から喜んでいます

 また、教会でお互いに祈りあうという時間があると、互いに聖霊さまの一致があって祈るので、本当に心から癒されるのを感じることが出来ます。これが、今回のタイトルの「神は霊です」(ヨハネの福音書、第4章24節)にかかってくるのですが、わたしの頭脳や心の中の思いというのは、時にブツブツ☆文句を言うことがあるにしても――こうした瞬間にはっきりわかるのです。「あ、今神さまの霊が働いておられる」と実感したり、そのことのうちには言語を越えた深い癒しがあるので、実際のところ、自分の祈ったことがその後叶えられてもそうでなくても……「もう、わたしの内に問題はない」というくらい、その時に神さまの深い臨在を感じとることが出来るのです。

 この感覚を言葉で説明するのは難しいのですが、たとえば、ある映画やドラマを見て、物凄く深く感動して涙を流した――という経験が、誰にでもあるのではないでしょうか。その時、その感動があまりに深いものだと、心が感動したというのだけでは足りなくて、魂の底から感動したと、その方はおっしゃられるかもしれません。

 この時の、魂の感動にも似て、心の隅々までもが聖霊さまによって深く満たされ癒されると――「ああ、もういい」となるというのでしょうか。「あの問題もこの問題も、すべては神さまのものだ。この重荷をすべてイエスさまに委ねたら、本当に楽になった。このあと、もし自分の望んだ形で問題が解決しなくても、わたしはすべて感謝して、神さまを賛美できる」……そして、そうした精神状態に達することが出来たことで、さらに神さまを賛美し感謝するという、祝福のサイクルの中に入っていくことが出来る、と言いますか。

 わたしが昔通っていたことのある教会で、息子さんが自殺か事故かわからないような形で亡くなられたという方がいらっしゃったのですが、本当にとても優しいにこやかな方で、傍から見た分には「悩みなんて何もなさそうで羨ましい」ようにも見える方でした。でも、その後このことを聞いて、とても驚いたんですよね。このお話を告白される時には、いつもニコニコしている感じの方が、突然号泣されていて……先日、三浦春馬さんが亡くなられましたけれども、三浦春馬さんの仲間の俳優さんなどが、仮に今後テレビなどで「何事もない、いつも通り」の様子をしていたとしても――それは全然不思議のないことだと思います。

 心の中の悲しみはそのままでも、いつまでもずっと悲しい様子をしていたら周りの人も気を使うだろうなというので、とりあえずは元気な振りをしておいたり、「仕事」をこなす間は、その関係者の方に笑顔を見せたりといったことは、本当に全然普通のことですから……。

 そして、わたしが昔働いていたことのある病院には、植物状態になって十何年にもなるとか、首から下が動かせない方ですとか、そうした方がたくさん病棟にいらっしゃいました。こうした事柄についても、「神さま、何故なのでしょう」と祈りの中で聞いても明確な答えといったものはありません。

 ただ、わたしの側としては「何故」と、人間の頭によっては答えの出ないことを問うよりも……その日、その時、その瞬間、自分なりに出来ることをなるべく最善の形でなせるように努力するという、何かそんな感じのことしか出来ないんですよね。これは、「神はいるのかいないのか」と頭の中で考え続けるよりも、そのことはとりあえず横においておいて、自分に出来る「神さまがおられるのであれば、このようなことを望まれるのではないか」と思える、愛の行為を自分なりに実行に移すことにも似ています。

「神は霊です」(ヨハネの福音書、第4章24節)という、この霊の部分については、言葉で説明するのは難しいというよりも不可能であり、父と子と聖霊の御名においての、聖霊さまの臨在を感じるためには、まずは教会でイエスさまのことを信じる必要があり……ただ、一度この聖霊さまの満たしということの意味が、実感とともに神さまの愛として理解できると、この言葉を越えた「感じ」や「感覚」といったものを、イエスさまの十字架の血の贖いとともに、ひとりでも多くの方に知っていただきたいと願うようになるという、何かそうしたことなのです。

 マーリンさんも、息子さんのひとりを交通事故で亡くしておられるので、「すべての良いことも悪いことも神さまに感謝し賛美する」と多くの方に伝える上で――そのことはマーリンさんにも奥さまのメアリーさんにも、背負いきれない重荷として魂にのしかかってくる出来事だったに違いないと思います。

 わたしも、「このことだけは感謝できない」とか「しにくい」といったことは、マーリンさんの教えを実行しはじめた頃にはあった気がします。でも、他の方の苦しみや悩みなどを聞いたり知ったりするにつけ、「だから神はいない」といったようにではなく……心の感覚としては「だからこそ、ともに苦しみ、そしてともに祈ろう」といった心持ちにしかなれないようになっていったように思います。

 人の心の苦しみ・悩みというのは深いものなので、「その人にとって何が救いとなりえ、解決となりうるか」については、神さま以外に知ってはおられないと思うんですよね。なので、わたし自身がカニのように(?)横からしゃしゃりでて「その場合はこうしたらいいよ、ああしたらいいよ」とか言うのではなく……お互いに涙を流しながら神さまに向かって祈りあう時に、唯一何かが変わっていくということだけ、最後に結びの言葉として書いておきたいように思います。

 それではまた~!!





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