神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

心理的視野狭窄。

2020年07月22日 | キリスト教

 俳優の三浦春馬さんがお亡くなりになりました

 自分的に「ファン」と言えるほど、三浦春馬さんの活動について色々追っていた……というわけではないのですが、最初にラジオでそのことを聞いた時、「えっ!?」と思い、ものすごくショックを受けました。。。

 というより、たとえば綾瀬はるかさんが国民的女優だとしたら、三浦春馬さんって国民的俳優みたいな感じで、嫌いな人ってまずいないと思うんですよね。

 そうした、「誰からも好かれる」、「あんなにも才能のある」方が何故自殺、という選択肢を選ばれたしまったのかと思うと、本当に悲しくて堪りません

 結局のところ、「どうして……」という部分については、三浦春馬さん以外わかるということはないと思うのですが、ここからはあくまで、三浦春馬さんのこととは切り離した「一般的な話」としてお読みいただければと思いますm(_ _)m

 わたしもそうでしたが、人が死ぬことを考える時……多くの方がその時点でうつ病になっているということでした。もし仮に病院などに通ってなくて、うつ病と診断されていなかったとしても――うつ病である場合がほとんどだそうです。

 そして、わたし個人の話でいえば、まず最初に「死ぬ」とか「自殺」ということを考えはじめた時は、エネルギーとしてまだもう少しくらいは「耐える力」みたいのは残っていました。でも、自分でもなんとなく感じてはいるわけです。この限界を越えたらやばいなとか、死ぬ以外に選択肢はなくなるぞ、みたいに……それで、実際にそれを実行に移すかどうかは別として、「もし死ぬとしたら、どういう方法が一番楽だろうか」と考えはじめるんですよね。

 また、「まだ耐えられるところまで自分は耐えていない」とか、「もう少しがんばれるのではないか」と自分で思えるうちは……どうにかこうにか努力しようとする、あがこうとするのですが、「いよいよその時」というのは、わたしの場合、結構急に突然きました。

 やっぱり、「もう少しがんばれるはずだ」、「耐えられるはずだ」と考える人の場合、「もう少し……」とか、「自分の努力が足りないだけだ」的に考える傾向が強いだけに――急に心のエネルギーが切れると、「ああ、これはもう駄目だ」となり、もう明日には学校や職場などへ行く気力がゼロになっています。

 また、普通に考えた場合、明日学校や職場へ行けなかったとしても、「そんなの、休めばいいだけじゃないか」という話だと思うのですが、心理的視野狭窄というのは、ここにかかってくるんですよね。たとえば十代の方の場合だと、まあ具合が悪いということで休めるのは、せいぜいが3~4日くらいなもので、それ以降学校へ行かないとなると、何故そう思ってるのかを親に説明しないといけない。ここで不思議なのは、親にいじめられているとか、そうした事実を話すくらいなら、死んだほうがいいと考えるということです。

 また、職場に行きたくなかったとしても、やっぱりそこは社会人として責任というものがあって、明日づけで急に仕事をやめるとかいうのは無理なわけですよね。ちゃんと引き継ぎなどもするとなると、最低でも2~3か月はかかるとした場合……その方にはもうその2~3か月も耐える力が残ってなく、「ああ、もう明日出社しようという力も残ってない。(前々からそう考えていたように)死のう」ということになってしまう。

 もちろん、ここでも普通に考えた場合、「死ぬほどの力があるのなら」、そのエネルギーを他のことに、生きることに振り向けることは出来なかったのか、というのは、よく言われることですが、経験したことのある人間にとってはとてもよくわかります。もう、その時には「死んだらこの長く悩んできた色々から解放されて楽になることが出来る」という、そこにしか脱出の道を見出すことが出来なくなっているという、これが<心理的視野狭窄>という状態なのですから。

 三浦春馬さんもそうだったのではないか……と言うつもりはないのですが、うつ病で長く自殺することを考えていた方の場合、実際に実行に移してその後助かったといった場合――この<心理的視野狭窄>のことを精神科医の方などに言われると、「自分もそうでした」的に言われる場合が多いとお聞きしました。

 特に、三浦春馬さんの場合、芸能人というか、俳優さんという職業柄、「仕事をセーブして休みたい」と思っても、それはなかなか難しいことだったと思いますし、実際には相当無理をしていても、「無理をしている自分」に気づくことが出来なかった、「みんな、誰しも似た思いや経験の中がんばっているのだから」とか、色々と「がんばるための理由づけ」をしつつ日々お仕事されていたのかなとか、勝手ながら想像します(あくまでも、わたし個人の、個人的な想像ということでよろしくお願いしますm(_ _)m)。

 そして、死を実行に移す前までの自分のことを振り返ってみると、とにかくもう「家に帰ってきて自分の部屋に入った途端」、もう指一本動かす気力もないとか、何かそんな感じでした。もちろん、今にして思えばわかります。「そのくらい無理してたら、そりゃその後、実際死のうともするだろうな」というのは。でも、その時に自分が思っていたことというのはとにかく、「もう少しはがんばれるはずだ」という、その「もう少し」というのを、どうにか誤魔化し誤魔化し伸ばしていって、最終的に何かがどうにかなってくれる……ということだったかもしれません。

 また、「この苦しい状態がこの先もずっと続くのなら」、「今すぐ終わらせてしまいたい」というか、この先も続くこの苦しい状態と、死ぬことの苦しみを秤にかけた場合――<死>ということのほうが、終わらせるのに時間がかからない、すごく勇気もいるし怖いしつらいけど、それでもこの先も生きていくことの苦しみに比べると、死を選んだほうが遥かに楽ではないかとしか思えない……これもまた<心理的視野狭窄>のなせる業ではないかと思います。

 何故かというと、その<視野狭窄>のちょっと外に目を向けたとしたら、解決方法というのは、確かに他にもあるはずだからです。「学校へ行けないような人間は死ぬしかない」という強迫観念を持っていたとしたら、「そんなことないよ。他にも脱出の道はあるよ」と、誰もが思うでしょうし、とにかく「死ぬよりは」、「実際に死んでしまうよりは」……それよりもいい解決方法というのは、必ず存在しているはず――と、思うんですよね。。。

 ただ、わたしがもし死ぬことを深刻に考えていた時、この<心理的視野狭窄>ということを心理学の本などで読んでいたとして……「おお!自分も今現在この心理的視野狭窄という状態なのだな」と気づけていた自信というのは、わたしの場合はなかったような気がします(^^;)

 以前、いじめのことで悩んでいた男の子が、自殺する前日にお母さんに輝くような笑顔を向けていて、そのお母さんはそのことが今も忘れられない……みたいに、テレビでお話されていたのを見た記憶があります。つまり、その時にはもう「明日死ぬ」ということを決意していたから、それである意味気持ちも楽になって、自分に対して「お母さん、ありがとう」と言ってきたんだなということが、あとになってからよくわかった、と……。

 わたしの知り合いの方の息子さんが自殺されたという時――そのお母さんは親戚の方などからものすごく責められたと言います。「親なのに、どうして気づかなかったんだ」みたいに、色々言われたそうです。でも、そのお母さんは全然気づくことが出来なかったっていうことなんですね。そして、このことは、わたしも物凄くよくわかります。何故といって、自分もそうだったから。職場でも、どうということもなくいつも通りニコニコ接客し、家に帰ってきてからも「何も問題はない」みたいな感じで家族とも接していたので……でも、悩みに悩んで、最終的に「死ぬ」ことをはっきり決意すると、肩からどっと力が抜けたみたいに、本当にほっとする。それで、あとはこのまま周囲にはニコニコしたままなるべく人に迷惑かけない形で死ねればいいな、みたいに思うという、そけだけですから。

 なので、周囲の方が気づかなくても、実は不思議はないんですよね。ただ、何かほんのちょっとしたことをきっかけに、「誰かに相談できる」ことがあったとしたら――やっぱり、ここは物凄く大きな鍵になることだとは思います。わたしの場合、まず精神科のほうに相談にいきましたし、他にひとりだけ、そうしたことを相談している友達がいました。にも関わらず、最終的には自殺することを実行しようと考えるに至ったわけですが……本当に、このあたりのことはとても難しいと思います。

 自殺することを実行しようと思う、ほんの少し前に何かちょっとしたことがあって、その日死ぬことを一日伸ばすことにした……それで、翌日になってやはりやめることにしたということもあれば、自殺することを実行するにしても、それはもう少しあとのことにしようと考えていたのに、何かちょっとしたことをきっかけに<死>そのものがぐっと近づいてきて、何かに取り憑かれたように「もう死ぬ以外に自分が救われる道はない」と思い詰めるといったこともあると思います。
 
 テレビの報道によると、三浦春馬さんが残された手帳には、仕事上の悩みについてや死生観などについても書き記されていた……ということですので、本当のところについては当然わたしにはわかりませんが、でも、そのことを聞いただけでもあらためて「すごい人だなあ」みたいに思いました。

 わたしの場合、まず、自分の悩みについて書きだしたりですとか、その上でもっとこうすればいいのではないかとか、「考える力」自体なかったですし、今こうして書いているみたいに神さまとか死後の天国ですとか、そうしたことを色々ある程度書いたりすることも、自殺しようとか死のうって考えている間は、「そんな力もない」みたいな感じのことだったので……。

 それだけ強くて優しい人だったんだなとあらためて思うのですが、テレビでファンの方がおっしゃっていたみたいに、「安らかな世界にいてほしい」と、わたしもそんなふうに願い、神さまにお祈りしたいと思います

 それではまた~!!





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