神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

灰は灰に、塵は塵に。

2016年06月02日 | キリスト教
【人間の堕落】コルネリス・ファン・ハールレム


 確か、わたしが六つくらいの時のことだったと思うのですが、幼稚園かどこかで親同伴のピクニックがあったと思います。

 そもそも、「幼稚園かどこか」とか言ってること自体からして、記憶が曖昧なのですが(何分小さい頃のことなので)、行き先が確か「~~運河」と呼ばれる場所だった気がします。

 それで、そこはピクニックをするのにちょうどいい緑などがある、ちょっとした公園みたいな場所だった気がするのですが、その運河の付近には「危ないから近づかないように」と、幼稚園の先生から注意されていました。

 そしてその運河の近くまで行ってみると……何かこう灰色というか、泥色の何かが淀んでいるような場所だった気がします。

 まあ、「だからそれがどうしたの?」という話ではあるのですが、その後、この時に子供ながらに漠然と感じたことがおそらく無意識の夢のような場所で膨らんだのだと思います。なんというか、そのどろどろした淀みが滝のように――といっても、どろどろしてるので、ゆったりのんびりした感じで下のこれまたどろどろした淀みの中に流れていく……というイメージが、わたしの記憶の中に残ってるんですよね。

 今もし、名前も忘れてしまったその「~~運河」という場所に行けたとしたら、おそらく全然こんな場所でないことは間違いありません(^^;)

 でもその、現実と夢とが結びついたような不思議なイメージとしての場所が今もわたしの心の中に残っているのだから不思議です。

 なんというか、そのどろどろしたものって、ようするに固まる前のセメントみたいな色なんですよ。あるいは、大雨が降ったあとの淀んだ川の流れのような色というか……で、わたしが子供ながらにその運河を見て感じたのが、漠然とした<死>のイメージでした。

 つまり、上流の<生>の川のほうから、死んだ人の死体が流れてくるんですよね。で、みんなこのどろどろの淀みに辿り着くと、セメントでカチンコチンに固まって、泥色一色になり――やがて岩などによって砕かれ、砂となって大地に還元してゆくっていうんでしょうか。

 人がもし仮にどんなに一生懸命に生き、宇宙へ行くという偉業を成し遂げようと、どんな大金持ちになろうと……最終的にはセメントで固められて最後は砂になる……人生ってなんて虚しいのだろう……みたいな??(^^;)

 もちろん、小さい頃からこんな厭世観を見につけているような暗い子供ではなかったのですが(笑)、小さい頃に見た運河のイメージが成長してからもずっと残っていて、だんだんにこんなことを考えるようになっていったものと思われます(結局暗い子やんか!笑)

 で、なんでこのことを思いだしたかというと――前にラジオを聞いていたところ、DJの方がこうおっしゃってたことがあるんですね。欧米のお葬式のほうに結構参加したことがあるんだけれども、その中で必ず牧師さん(神父さんだったかな☆)が「塵は塵に、灰は灰に」という言葉をおっしゃると……。


 >>あなたは顔に汗してパンを食べ、ついには地面に帰る。あなたはそこから取られたからである。あなたは塵だから塵に帰る。

(創世記、第3章19節)


 >>神は地面の塵で人を形造り、その鼻孔に息を吹き入れられた。すると、人は生きた魂になった。

(創世記、第2章7節)


 >>塵はもとあった地に帰り、霊はこれを下さった神に帰る。

(伝道者の書、第12章7節)


 おそらく由来はこのあたりと思いますが、聖書には他に、


 私は心の中で人の子らについて言った。
「神は彼らを試み、彼らが獣にすぎないことを、彼らが気づくようにされたのだ」
 人の子の結末と獣の結末とは同じ結末だ。これも死ねば、あれも死ぬ。両方とも同じ息を持っている。人は何も獣にまさっていない。すべてはむなしいからだ。
 みな同じ所に行く。すべてのものは塵から出て、すべてのものは塵に帰る。

(伝道者の書、第3章18~20節)


 神は、彼らが肉にすぎず、
 吹き去れば、返って来ない風であることを
 心に留めてくださった。

(詩篇、第78編39節)

 あなたが御顔を隠されると、彼らはおじ惑い、
 彼らの息を取り去られると、
 彼らは死に、おのれの塵に帰ります。

 あなたが御霊を送られると、彼らは造られます。
 また、あなたは地の面(おもて)を新しくされます。

(詩篇、第104編29~30節)


 主は、私たちの成り立ちを知り、
 私たちがちりにすぎないことを
 心に留めておられる。

 人の日は、草のよう。
 野の花のように咲く。
 風がそこを過ぎると、それは、もはやない。
 その場所すら、それを、知らない。
 しかし、主の恵みは、とこしえから、とこしえまで、
 主を恐れる者の上にある。

(詩篇103編14~17節)


 との記述などがあります。

 つまり、神さまは人間が塵にすぎず、風がその上を吹きゆけば過ぎ去る、儚い存在に過ぎないということを心に留めておられるということですよね。

 そして、わたし自身、クリスチャンになってからこうした死生観がまったく変えられてしまいました。それまでは死んだあとが永遠の闇でもなんでも、それはそれでいいじゃないか……という考えだったのですが、神さまはそんな虚しい暗闇を御自身の造られた人間のために用意しているわけではなかったのです。

 何故といって、クリスチャンには主イエスにあって、ただ彼を信じているだけで<永遠のいのち>が与えられているのですし、それだけでなく天国へ行って主とともに憩うことが出来るという特権まで与えられているのですから……。


 ††永遠のいのちとは=キリストを信じる者に恵みとして与えられる霊的いのち。これは神から与えられるものであるから、永遠に続き、決して滅びることがない。永遠のいのちは救いの原因となるというより、救いの結果与えられるものである。(新改訳聖書より)


 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

(ヨハネの福音書、第3章16節)

 しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。

(ヨハネの福音書、第4章14節)

 まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。

(ヨハネの福音書、第5章24節)

 イエスは言われた。
「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。 また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません」

(ヨハネの福音書、第11章25~26節)

 罪の奴隷であった時は、あなたがたは義については、自由にふるまっていました。その当時、今ではあなたがたが恥じているそのようなものから、何か良い実を得たでしょうか。それらのものの行き着く所は死です。しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです。その行き着く所は永遠のいのちです。罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。

(ローマ人への手紙、第6章20~23節)


 また、わたし海ドラを見るのが大好きなのですが、アメリカのドラマのお葬式のシーンで時々、詩篇の23篇が読まれていることがあったように記憶しています。


 主はわたしの羊飼い。
 私は、乏しいことがありません。
 主は私を緑の牧場に伏させ、
 いこいの水のほとりに伴われます。
 主は私のたましいを生き返らせ、
 御名のために、私を義の道に導かれます。
 たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、
 私はわざわいを恐れません。
 あなたが私とともにおられますから。
 あなたのむちとあなたの杖、
 それが私の慰めです。
 私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、
 私の頭に油をそそいでくださいます。
 私の杯は、あふれています。
 まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと
 恵みとが、私を追ってくるでしょう。
 私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。

(詩篇、第23編)


 まさしく、神さまの恵みは無限大∞ですね♪(^^)

 それではまた~!!





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