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神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

リバイバル。-【2】-

2016年05月18日 | キリスト教
【墜天使を駆逐する聖ミカエル】ラファエロ・サンティ


 今回もまた、前回に続いてリバイバルのことについて少し。。。

 主の十字架クリスチャンセンターでは、昨年「リバイバルがはじまりました」という宣言がされているのですが、他教会の方にとっては「え?リバイバル?一体どこに?」という感じかもしれません。

 ここからは、わたし個人、一信徒の立場からの意見なので、吟味の必要があるということをお断りした上で、何故わたしが「リバイバルがはじまった」ということを信じるのかということをお書きしたいと思います。

 また、主の十字架クリスチャンセンターの教会全体が「リバイバルがはじまった」ことをよく吟味した上信じていることの経緯については、『雲の間にある虹』の2015年8月号などに書かれています。

 それでは、ここからはあくまで、わたし個人の一信徒としての意見として、お読みくださいませm(_ _)m

 今からもう十年かそれよりもっと前になるでしょうか。

 祈りの中であるビジョンが与えられたことがありました。

 ある狭い土地の三方を悪魔(サタン)が守っているのですが、その土地にはひとつの種が植わっていて、周囲はとても暗いのです。

 いくら種が土地に植わっていても、その上の土地は固くて、しかもその悪魔さん(笑)たちが芽が出ないようにと絶えず見張っているため、その暗い土地には一向なんの変化も見られないようでした。

 ところが、天の上方から天使がじょうろを手にして舞い降りてくるのが、本の端のほうに絵として描かれているのです。

 ええと、たぶん意味わからないと思うんですけど(笑)、このビジョンは一冊の本の表紙だったんです。あるいは、一枚の絵といってもいいかもしれません。

 もし絵としてたとえるなら、左のほうにシャベルを手にした悪魔さんたちが三人いて、その蒼黒い陽の差さない土地に、右の上方から天使がじょうろを持って舞い降りてくる……という、そんな絵です。

 正直わたしも、その時は「これなんだろうな~☆」というだけでした。でも一応、「心に留めておく」ということにしたというか。

 これがもし、わたしの人間的な考えや思いから出たことなら、おそらくそのうち忘れてしまうだろうし、もしそうでなければ、いつかまた何か意味のあることとして思いだすこともあるだろう――そんなふうに思っていました。

 でも、そのビジョンがリバイバルに関わりのあることだというのははっきりわかっていて、日本は宣教師の墓場と言われるとおり、キリスト教の働きの進まない霊的暗黒の地と言われているのですが、これだけしっかりサタンさんに見張られているのであれば、それも無理のないことだと思いました。しかも、リバイバルの種の植わっている土地というのがもう、芽が出ないようにシャベルで固められているんですよね。あれでは普通の種では芽を出すなどというのは到底無理そうでしたが、いずれ天使がやって来て悪魔さんたちを蹴散らし、じょうろの水が注がれさえすれば――いずれリバイバルの種が芽を出すことになるのだろう……というのが、そのビジョンに関してわたしが即座に感じたことでした。

 そして、このビジョンについてはその後暫く忘れてまして、本当につい最近祈っている中で思い出したというか。

「ああ、じゃあやっぱりあれは何か意味があったのかな……」と思うのと同時に、すぐわかりました。「そっか。リバイバルがはじまった」ということは――ついに、リバイバルの種の上に水が注がれて芽が出たということなんだなあ、と

 この種のDNAの中には当然、フランシスコ・ザビエルが日本にキリスト教を伝えてからのちの、二十六聖人をはじめとする殉教者の方々の血や、あるいは過酷な歴史の中でも信仰を守り続けた日本のクリスチャンの敬虔な信仰など、色々なものが凝縮される形で<ひとつの種>の形をしているといっていいと思います。

 そして、とうとうリバイバルの種が芽を出した――「リバイバルがはじまった」というのはそういうことなんだなって、個人的にはそう感じたのです。ただ、主の十字架クリスチャンセンター以外の他教会の方にとってはやはり、「リバイバル?一体どこに?」という感じではあるかもしれません(^^;)

 わたしが思うには、今はまだずっと地中にいた種が、ぴょこんと芽を出したに過ぎないので……誰もこの芽がどんな樹木になるのか、あるいはどんな花を咲かせるのか、わからない状態で見過ごされているのだろうと思います。けれど、ある程度成長してそれが誰の目にもはっきりわかる頃には、多くの人々が「リバイバル」ということをもっと真剣に受け止めるようになってくるのではないでしょうか。


 >>神の国は、どのようなものと言えばよいでしょう。何にたとえたらよいでしょう。それはからし種のようなものです。地に蒔かれるときには、地に蒔かれる種の中で、一番小さいのですが、それが蒔かれると、生長してどんな野菜よりも大きくなり、大きな枝を張り、その陰に空の鳥が巣を作れるほどになります。

(マルコの福音4章30~32節)


 言ってみれば、これがリバイバルの種です。

 ただし、わたしの見た感じでは、今すぐぐんぐん成長して一気に太い幹となり、多くの人々もまたリバイバルということに目を開かれてくる……というようになるまでには、まだ芽の段階なので、時間がかかるのではないかという気がしています(^^;)

 ようするに、今はリバイバルの種がようやく芽を出した段階なので、これが大きく成長してからは働きが物凄いことになるので、そうなる前に十分備えなさいということですよね。

 実をいうと、このビジョンのことを思いだしたのは、去年の十一月くらいから祈りの中で「オリーブ、オリーブ」ということが聖霊さまより語られていて、「オリーブかあ。どういうことかなあ」と考えていたのがそのきっかけでした。

 オリーブといえば、抗酸化力の高い、美容と健康の面で最近日本でも人気の植物……ということではなく、クリスチャンにとってオリーブ山といえば、イエス・キリストが再臨される場所ですから、もっと祈りなさいとか、終末のこと、黙示録についてもっと勉強しなさいとか、そういうことかな……とか色々考えていたのですが(もちろん、どちらも大切です^^;)、わたしがこのビジョンのことを思いだしたのは間違いなくリバイバルの本格的な働きに対して備えなさいという意味合いにおいてだったのだと思います。

 そして、今は「備える……でも、どうやって備えたらいいのでしょう?」という感じで、わたしも寝ぼけ眼をこすっているという状態なのですが(汗)、イエスさまがゲッセマネの園で祈られていた時、眠ってしまった弟子たちのようにではなく、これから目を覚ましてリバイバルに向けて備えることが出来るようになれたらと思っています。


 >>目をさまして、感謝をもって、たゆみなく祈りなさい。

(コロサイ人への手紙、第4章2節)

 >>だから、目をさましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです。

(マタイの福音書、第24章42節)


 これも、あくまでわたしが思うにということですが、おそらく今の段階では主の十字架クリスチャンセンターの信徒だけが、「リバイバルの芽が出たぞーっ!!」と言って、そのまわりで「感謝しよう、賛美しよう!!」と言いながら、踊り狂っているという状態かもしれません。そして、この芽が間違いなくリバイバルの種から出たものであり、それが成長したものだとはっきりわかるまでは――他教会の方というのは、一部を除いて「またあいつら、変なこと言ってるぞ」という感じかもしれません。

 けれど、「あ、ほんとにリバイバルの種だったんだ!!」とわかった時には、最初は白い目で遠巻きに見ていた人々も、そこに喜んで加わってくるのではないでしょうか。

 では、今回の記事はあくまでわたし個人の、一信徒としての意見ですので、この記事に関してはよく吟味をしてお読みくださいますようよろしくお願いしますm(_ _)m

 それではまた~!!





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