【教会の尖塔と屋根】エドワード・ホッパー
ところで、パレアナの<喜びの遊び>に巻き込まれた人というのは、何もスノー夫人やジョン・ペンデルトンばかりではありませんでした。
パレアナはペンデルトンに対してしていたように、町の色々な人に挨拶したり、自分から話しかけたりしていましたから――その中にはどうやらパレー叔母さんが聞いたとしたら、「あんな人とは話すべきじゃない」、「口を聞いてはいけません」といった人々もどうやら含まれていたようです。
それはさておき、パレアナがジョン・ペンデルトンにジミーのことを話した日のこと、ペンデルトンの丘にはポール・フォード牧師の姿がありました。
この牧師さんは可哀想に、ベルディングスヴィルの教会を束ねていくのに、どうやらほとほと疲れきっていたようなのです。
そこで、次の日曜日には、礼拝のお説教の時間に少し厳しいメッセージをすべきかどうかと思い悩んでいたのですが――それは次のようなことが原因だったのでした。
>>教会の役員の中の二人が愚にもつかないことがもとでしのぎをけずっていますし、一番熱心な三人の婦人会員は、ほんのちょっとした噂が心ない舌にあおられて恐ろしい悪口の火の手を燃えあがらせたというので、婦人会を脱退してしまいました。聖歌隊は独唱がいつも同じ人にばかり割り当てられるという不平で、分裂してしまいました。共励会でさえも役員の中の二人にとかくの非難が向けられて大騒ぎです。日曜学校はと言えば――校長以下二人の教師が辞表をだす始末、これでフォード牧師はもうたまらなくなってこの森へやってきて祈りと瞑想のうちに、なんとか活路を見いだそうとしたわけです。
(第二十二章『お説教と薪の箱』より)
フォード牧師は、「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは、天国を閉ざして人々をはいらせない。自分もはいらないし、はいろうとする人をはいらせもしない」といった箇所を次の日曜礼拝のメッセージ箇所にしようと思ったらしいのですが、牧師さんがこうした香辛料というか、ピリッと胡椒の利いた<ほのめしかし>を行った場合、人の行動というものはふたつに分かれるということを、おそらくフォード牧師自身よく知っていたのではないでしょうか。
こうしたキリスト教に関係した部分というのは、日本人にはわかりにくいと思うのですが、以前何かの本で、牧師だったゴッホのお父さんは、メッセージの時には新約聖書から引用することが多く、それも明るい箇所を引用することが多かった……といった文章を読んだ覚えがあります。
つまり、新約聖書に比べると、旧約聖書って裁きについてのメッセージとか、割と暗い部分が多かったりもするんですよね。それに比べるとイエスさまの福音っていうのは、旧約の重い律法の縛りから解放するものですから、そうした箇所から多く引用したほうが教会員の方には喜ばれる……といった部分があったのではないかと思います。
おそらく、このポール・フォード牧師も出来ることならそうしたかったのではないでしょうか。けれど、日曜礼拝の説教の場で教会員の方々に苦言を呈さなければいけないほど、この時フォード牧師は追い詰められていたのです。
何より、一番の問題点は、フォード牧師の<ほのめかし>のお説教を聞いた教会員の方々がどう思うかということです。「普段温厚な牧師さんにここまでのことを言わせるなんて」という感じで、多くの方が自分の行いを悔い改めてくれればいいですが――大抵の場合はそうはならないということを、彼自身知っていたのではないでしょうか。何故といって、己の罪に対してそれとないほのめかしやあてこすりをされた時、それが当たっているものであればこそ、むしろ人は反発心を覚える……そんなことがよくあったりするものですから。
そしてこのように思い悩むフォード牧師の前を、偶然パレアナが通りかかります。パレアナのお父さんも牧師さんでしたから、パレアナはフォード牧師に会ってすぐ、こんな言葉を口にするのでした。
>>「わかります――なにかに悩まされていらっしゃるんですわ。お父さんもよくそうなりました。たびたびですわ。たいていの牧師さんがそうなるらしいわ――責任が重いんですもの」
パレアナはこのあと、自分の死んだお父さんがそういう時にどうしたのか、どうしていたのかをフォード牧師に話します。
>>「牧師さんになってらっしゃるの、お好きですか?」
ポール・フォード牧師は頭をあげて、
「好きかって――奇妙なことを聞くねえ。なぜそんなことを聞くの?」
「なぜでもないんですけど――先生のお顔見てたんですの。お父さんのことを思いだしました。お父さんもそういう顔をしました――ときどき」
「そうでしたかね?」
声は丁寧でしたが、目はまた地上に落ちた枯葉に戻りました。
「ええ、そうでした。そんな時、あたしはいま先生にお聞きしましたように、牧師でうれしいのかどうか聞きました」
木の根元の男は、やや悲しげな笑いをもらしました。
「お父さんは、うれしいといつでも言ってましたけど、たいていそのあとで、聖書に喜びの句がなかったら、一分だって牧師なんかしていられないって言いました」
「な――なんですって?」
ポール・フォード牧師の目は葉からはなれてパレアナの元気な顔に移りました。
「お父さんは、いつでもそう言ってました。喜びの句なんて聖書にそういう名がついてるんじゃありませんよ。ですけど『主にありて喜べ』とか『大いに喜べ』とか『喜びて歌え』とかそんなのがたくさんあります――ほんとにたくさんありますわね。お父さんが特別いやな気持ちの時に数えましたらね、八百ありましたって」
「八百も!」
「はい――楽しめとか喜べとかいうのが。それでお父さんはその八百に『喜びの句』という名をつけましたの」
「なるほど!」
牧師は奇妙な顔をしました。手に持った紙に書いてある言葉の上に目を落としました。――『汝、偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたはわざわいである』
「きみのお父さんは『喜びの句』がお好きだったんだね」
とささやきました。
「そうです」
強くうなずいて、
「喜びの句を勘定してみようと思いついた時から、気持ちが少しよくなったって言いました。神さまが八百回も楽しめとか喜べとかおっしゃってるのは、あたしたちが喜ぶことを望んでいらっしゃるからにちがいないって、お父さんは言いました。もっと喜ぶはずだとお父さんは言って恥ずかしがっていました。だから、うまくいかない時でも、こういう考えかたでずいぶん助かったんですの。婦人会が戦争になった時でも――ひとつのことについてみんなの考えがちがった時のことなのよ」
と急いで言い直しました。
「そんな時に、お父さんはゲームを思いついたんですって――あたしといっしょに始めましたの、松葉杖のことで――ですけど、一番のもとは喜びの句からだって、お父さんは言ってました」
「で、そのゲームというのはどんなことなんですかね?」
と牧師は問いました。
「どんなことの中からでも喜ぶことをさがしだすという遊びなんです。それはね、いまも言ったでしょう、あたしと松葉杖から始まりましたの」
こうしてパレアナはまたその物語をしました――今度の相手は、美しい目と悟りの早い耳とで聞き入った男の人でした。
(第二十二章『お説教と薪の箱』より)
――こうして、フォード牧師は、最初の厳しい説教の書かれた下書きは捨てて、あらたに別の草稿に取りかかったのです。
それは簡潔にいうとしたら、次のようなことでした。たとえば、息子のトムが薪箱に薪をいっぱいにするようにと母に頼まれて、その用事をしなかったとしたら、父親はどう諌めるべきでしょう?『まったくおまえはけしからん。いますぐ薪箱をいっぱいにしなさい』と叱るのか、それとも『おまえは喜んでそのことをするだろうね、お母さんのために』と言うのか――実際、これは大きな違いです。
そのことを気づいたフォード牧師は、なかなか思うようにならない教会員たちに対し、遠まわしにそのことを叱責するような説教をするのではなく、>>「知っているかぎりのトムたちに、薪の箱をいっぱいにするのはうれしいことだと言おう。なにか仕事を与え、それに打ち込む喜びが心に満ちあふれて、となりの人たちの薪の箱を見てよけいな世話を焼くひまがないように指導しよう」……そのようなお説教の内容に変えることにしようと思うのでした。
実際、パレアナの<喜びのゲーム>の肝要なところは、そういうことなのかもしれません。こうした「ほんのちょっとの違い」がどれほど人の考え方、生き方を変える元になるか……毎日小さな不平に囲まれていると、いつかその不平不満の小言によってゴロゴロゴロと雪だるま式に真っ逆さまに落ちていく――人生には何かそうした地点があるような気がします。
けれどもパレアナの喜びのすすめというのは、毎日その不平不満の中にも何かしら喜べる要素を探して、その一歩を踏みだしたら、最後にはどんなきつい坂道も歌いながら人は歩んでいくことができる……そんな感じのことですよね。
そしてその坂道の途中で、挫折している人々にもパレアナは声をかけていくのです。「あんたはこんなきつい坂道をのぼらなきゃならんというのに、なんでそう明るくしてられるのかね?」、「あら、そんなの簡単ですわ。空が青くて空気も美味しいし、草さんやお花さんたちも、幸せに歌ってるんですもの。そのかわりに坂道が少しくらいきつくっても、全然平気ですわ」……けれどやはり、そうも言っていられない魂の暗黒の時間というものは、誰の元にも訪れるものです。
次回は、この愛らしい少女、パレアナをもってしても「喜べない」事態が訪れたことについて、そこからお話をはじめたいと思いますm(_ _)m
それではまた~!!
ところで、パレアナの<喜びの遊び>に巻き込まれた人というのは、何もスノー夫人やジョン・ペンデルトンばかりではありませんでした。
パレアナはペンデルトンに対してしていたように、町の色々な人に挨拶したり、自分から話しかけたりしていましたから――その中にはどうやらパレー叔母さんが聞いたとしたら、「あんな人とは話すべきじゃない」、「口を聞いてはいけません」といった人々もどうやら含まれていたようです。
それはさておき、パレアナがジョン・ペンデルトンにジミーのことを話した日のこと、ペンデルトンの丘にはポール・フォード牧師の姿がありました。
この牧師さんは可哀想に、ベルディングスヴィルの教会を束ねていくのに、どうやらほとほと疲れきっていたようなのです。
そこで、次の日曜日には、礼拝のお説教の時間に少し厳しいメッセージをすべきかどうかと思い悩んでいたのですが――それは次のようなことが原因だったのでした。
>>教会の役員の中の二人が愚にもつかないことがもとでしのぎをけずっていますし、一番熱心な三人の婦人会員は、ほんのちょっとした噂が心ない舌にあおられて恐ろしい悪口の火の手を燃えあがらせたというので、婦人会を脱退してしまいました。聖歌隊は独唱がいつも同じ人にばかり割り当てられるという不平で、分裂してしまいました。共励会でさえも役員の中の二人にとかくの非難が向けられて大騒ぎです。日曜学校はと言えば――校長以下二人の教師が辞表をだす始末、これでフォード牧師はもうたまらなくなってこの森へやってきて祈りと瞑想のうちに、なんとか活路を見いだそうとしたわけです。
(第二十二章『お説教と薪の箱』より)
フォード牧師は、「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは、天国を閉ざして人々をはいらせない。自分もはいらないし、はいろうとする人をはいらせもしない」といった箇所を次の日曜礼拝のメッセージ箇所にしようと思ったらしいのですが、牧師さんがこうした香辛料というか、ピリッと胡椒の利いた<ほのめしかし>を行った場合、人の行動というものはふたつに分かれるということを、おそらくフォード牧師自身よく知っていたのではないでしょうか。
こうしたキリスト教に関係した部分というのは、日本人にはわかりにくいと思うのですが、以前何かの本で、牧師だったゴッホのお父さんは、メッセージの時には新約聖書から引用することが多く、それも明るい箇所を引用することが多かった……といった文章を読んだ覚えがあります。
つまり、新約聖書に比べると、旧約聖書って裁きについてのメッセージとか、割と暗い部分が多かったりもするんですよね。それに比べるとイエスさまの福音っていうのは、旧約の重い律法の縛りから解放するものですから、そうした箇所から多く引用したほうが教会員の方には喜ばれる……といった部分があったのではないかと思います。
おそらく、このポール・フォード牧師も出来ることならそうしたかったのではないでしょうか。けれど、日曜礼拝の説教の場で教会員の方々に苦言を呈さなければいけないほど、この時フォード牧師は追い詰められていたのです。
何より、一番の問題点は、フォード牧師の<ほのめかし>のお説教を聞いた教会員の方々がどう思うかということです。「普段温厚な牧師さんにここまでのことを言わせるなんて」という感じで、多くの方が自分の行いを悔い改めてくれればいいですが――大抵の場合はそうはならないということを、彼自身知っていたのではないでしょうか。何故といって、己の罪に対してそれとないほのめかしやあてこすりをされた時、それが当たっているものであればこそ、むしろ人は反発心を覚える……そんなことがよくあったりするものですから。
そしてこのように思い悩むフォード牧師の前を、偶然パレアナが通りかかります。パレアナのお父さんも牧師さんでしたから、パレアナはフォード牧師に会ってすぐ、こんな言葉を口にするのでした。
>>「わかります――なにかに悩まされていらっしゃるんですわ。お父さんもよくそうなりました。たびたびですわ。たいていの牧師さんがそうなるらしいわ――責任が重いんですもの」
パレアナはこのあと、自分の死んだお父さんがそういう時にどうしたのか、どうしていたのかをフォード牧師に話します。
>>「牧師さんになってらっしゃるの、お好きですか?」
ポール・フォード牧師は頭をあげて、
「好きかって――奇妙なことを聞くねえ。なぜそんなことを聞くの?」
「なぜでもないんですけど――先生のお顔見てたんですの。お父さんのことを思いだしました。お父さんもそういう顔をしました――ときどき」
「そうでしたかね?」
声は丁寧でしたが、目はまた地上に落ちた枯葉に戻りました。
「ええ、そうでした。そんな時、あたしはいま先生にお聞きしましたように、牧師でうれしいのかどうか聞きました」
木の根元の男は、やや悲しげな笑いをもらしました。
「お父さんは、うれしいといつでも言ってましたけど、たいていそのあとで、聖書に喜びの句がなかったら、一分だって牧師なんかしていられないって言いました」
「な――なんですって?」
ポール・フォード牧師の目は葉からはなれてパレアナの元気な顔に移りました。
「お父さんは、いつでもそう言ってました。喜びの句なんて聖書にそういう名がついてるんじゃありませんよ。ですけど『主にありて喜べ』とか『大いに喜べ』とか『喜びて歌え』とかそんなのがたくさんあります――ほんとにたくさんありますわね。お父さんが特別いやな気持ちの時に数えましたらね、八百ありましたって」
「八百も!」
「はい――楽しめとか喜べとかいうのが。それでお父さんはその八百に『喜びの句』という名をつけましたの」
「なるほど!」
牧師は奇妙な顔をしました。手に持った紙に書いてある言葉の上に目を落としました。――『汝、偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたはわざわいである』
「きみのお父さんは『喜びの句』がお好きだったんだね」
とささやきました。
「そうです」
強くうなずいて、
「喜びの句を勘定してみようと思いついた時から、気持ちが少しよくなったって言いました。神さまが八百回も楽しめとか喜べとかおっしゃってるのは、あたしたちが喜ぶことを望んでいらっしゃるからにちがいないって、お父さんは言いました。もっと喜ぶはずだとお父さんは言って恥ずかしがっていました。だから、うまくいかない時でも、こういう考えかたでずいぶん助かったんですの。婦人会が戦争になった時でも――ひとつのことについてみんなの考えがちがった時のことなのよ」
と急いで言い直しました。
「そんな時に、お父さんはゲームを思いついたんですって――あたしといっしょに始めましたの、松葉杖のことで――ですけど、一番のもとは喜びの句からだって、お父さんは言ってました」
「で、そのゲームというのはどんなことなんですかね?」
と牧師は問いました。
「どんなことの中からでも喜ぶことをさがしだすという遊びなんです。それはね、いまも言ったでしょう、あたしと松葉杖から始まりましたの」
こうしてパレアナはまたその物語をしました――今度の相手は、美しい目と悟りの早い耳とで聞き入った男の人でした。
(第二十二章『お説教と薪の箱』より)
――こうして、フォード牧師は、最初の厳しい説教の書かれた下書きは捨てて、あらたに別の草稿に取りかかったのです。
それは簡潔にいうとしたら、次のようなことでした。たとえば、息子のトムが薪箱に薪をいっぱいにするようにと母に頼まれて、その用事をしなかったとしたら、父親はどう諌めるべきでしょう?『まったくおまえはけしからん。いますぐ薪箱をいっぱいにしなさい』と叱るのか、それとも『おまえは喜んでそのことをするだろうね、お母さんのために』と言うのか――実際、これは大きな違いです。
そのことを気づいたフォード牧師は、なかなか思うようにならない教会員たちに対し、遠まわしにそのことを叱責するような説教をするのではなく、>>「知っているかぎりのトムたちに、薪の箱をいっぱいにするのはうれしいことだと言おう。なにか仕事を与え、それに打ち込む喜びが心に満ちあふれて、となりの人たちの薪の箱を見てよけいな世話を焼くひまがないように指導しよう」……そのようなお説教の内容に変えることにしようと思うのでした。
実際、パレアナの<喜びのゲーム>の肝要なところは、そういうことなのかもしれません。こうした「ほんのちょっとの違い」がどれほど人の考え方、生き方を変える元になるか……毎日小さな不平に囲まれていると、いつかその不平不満の小言によってゴロゴロゴロと雪だるま式に真っ逆さまに落ちていく――人生には何かそうした地点があるような気がします。
けれどもパレアナの喜びのすすめというのは、毎日その不平不満の中にも何かしら喜べる要素を探して、その一歩を踏みだしたら、最後にはどんなきつい坂道も歌いながら人は歩んでいくことができる……そんな感じのことですよね。
そしてその坂道の途中で、挫折している人々にもパレアナは声をかけていくのです。「あんたはこんなきつい坂道をのぼらなきゃならんというのに、なんでそう明るくしてられるのかね?」、「あら、そんなの簡単ですわ。空が青くて空気も美味しいし、草さんやお花さんたちも、幸せに歌ってるんですもの。そのかわりに坂道が少しくらいきつくっても、全然平気ですわ」……けれどやはり、そうも言っていられない魂の暗黒の時間というものは、誰の元にも訪れるものです。
次回は、この愛らしい少女、パレアナをもってしても「喜べない」事態が訪れたことについて、そこからお話をはじめたいと思いますm(_ _)m
それではまた~!!
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます