神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

苦しみのアトラス山脈。-Ⅱ-

2021年01月20日 | キリスト教

 前回、新型コロナウイルスと神経症世界は似ている……と書いたのですが、この神経症というのはようするに、ノイローゼのことです(^^;)。

 一口に神経症といってもその症状に関しては多種多様であり、症状の出方の重さや軽さも人それぞれなので――なかなか説明が難しいのですが、あくまでわかりやすく書くとしますと、前回例として書いた清潔恐怖を持つ方というのは、清潔(不潔)ノイローゼということであり、ガスの元栓や家の鍵を本当に閉めたかどうか気になる確認恐怖の方は確認ノイローゼに陥っているということなのだと思います。

 対人恐怖症(社会不安障害)も、いってみれば対人ノイローゼということであり、人によって違いはあるにしても、たとえば学校の教室くらいの部屋に二十人ばかりも人がいて、仮にここで社員研修的なものを三か月ほど受けることになったとしましょう。でも、対人恐怖症(社会不安障害)の方というのは、どうにか命がけでこの三か月を過ごすか、症状の重い方であればあるほど一月と持たないか、ひどい場合は一週間もしないでやめてしまうかもしれません。

 何故やめたのかについては、本人は自分の神経症の症状についてはおくびにもださず、なんらかの比較的聞こえのいい理由を述べていると思います。けれども、もし自分の神経症の症状について率直に自分の上司に話していたとすれば――「そういえば、もともと彼はどこか挙動不審だった」と思いあたる場合もあれば、「えっ!?君がそんなことで悩んでいるとは考えてもみなかった」という、この後者の場合というのも結構多いと思います。

 何分、本人にしてみれば、「生きるか死ぬかの必死の芝居」をしているにも等しい状態なので無理もないですし、その時に割と親しくなった人から「どうして急にやめちゃったの!?」とか、「あなたがいなくなって寂しい」と言われる場合もあるでしょう。でも本人は、朝起きてから緊張のあまり下痢に悩まされ、通勤途中も電車から何度も降りたい衝動にかられつつ、なんとか出勤。そして9時から5時まで「必死の芝居」をしつつ仕事をし、12時から1時までの休み時間ですらまったく気が休まりません。特に、会食恐怖(会食ノイローゼ)を持っている方であれば、昼休みくらいひとり孤独にのんびり食事したいところでしょうが、自分の部署の何人かと一緒に食事しないと失礼だ……といった事情がある場合、昼休みの1時間ですらもまったく気の休まらない時間を過ごさなければなりません。

 神経症の方は真面目な気質の方が多いので、ここまでの重圧があってもなんとか仕事をしようとすると思います。でも、半年~1年耐えたが、ある日「このままの状態が続いたら、自分はもう死んでしまう」と思い、退職を願いでたり、あるいはようやくのことで心療内科・精神科の門戸を叩くことになったり。。。

 こうした内面的地獄を生きている本人というのは、「こんな自分のことは誰にもわかってもらえない、親ですらわからない」と思っているわけですが――神経症に関する本の体験談などを読んでわかるのは、症状などは違いこそすれ、「みんな大体のところ同じ思いを抱えて生きている」ということです(^^;)

 また、対人恐怖というのは、多かれ少なかれ誰でも持っているものであり、「明日からまったく新しい環境」に身を置くという時に緊張しないという方はほとんどいないでしょう。また、神経症の症状などについて人に話すと、本人は「誰にもわかってもらえない」と思っているにも関わらず、実際にはこの広い世界に理解してくれる人はたくさんいるのです。

 たとえば、会食恐怖の方は人と食事をするのが苦痛なわけですが、それは「自分の食事の仕方がおかしくないかと気になるあまり、味もわからない」場合もあれば、いわゆるクチャラーというのでしょうか。自分が実はくちゃくちゃ言いながらものを食べていて、人に不快感を与えていないかどうか気になって仕方ない人、あるいは食べながら「何か話さなくちゃ」と絶えず気になるあまり、お弁当の味がまったくしないなど……こうしたことをネットで告白したりすると、「実はわたしも!」とか、「気持ちわかる」、「うちも、職場ではいつも気の合わない人に囲まれて、めっちゃ気を使ってます」などなど、共感してくれる方というのは、実は結構いたりするんですよね(^^;)。

 ところで、新型コロナウイルス後の世界と神経症の持つ世界が似ている――ということなのですが、神経症になった方がまず思うのが、「何故こんなことになったんだろう」ということだと思います。たとえば、視線恐怖、表情恐怖、会食恐怖、嘔吐恐怖、不眠恐怖……などなど、みんなそうですが、そもそも「そうなる前」というのがあって、ノイローゼ状態になった方がまず思うのが、「そんなことなど気にしたことのなかった前の状態に戻りたい」ということなのです。

 わたしも連日、「もしまた前と同じ世界に戻ったら」とか、「コロナに怯えなくていい世界になったら……」といった言葉を毎日のように聞いています。「ライブハウスで思いっきり叫びたい!」、「マスクを外してみんなと思いっきり笑って美味しいもの食べたい!」とか、わたしも他の方の幸福については素直に本当にそうなって欲しいと心から願っているのですが、神経症の方にしてみると、「いや、わたしたちはもう、そうしたことはとっくの昔に諦めたよ」という場合というのが、たぶん結構多いと思います(^^;)。

 新型コロナウイルスの第一波や第二波を大体乗り越えたような頃……「もしかしたら、うまくいけばコロナはなくなってくれるかもしれない」と感じた時がありました。ところが冬の入口のかなり早い段階から、コロナウイルスが再び猛威を振るいはじめ――飲食店や接客関係の仕事の方は特に、「もういいかげんしてくれ!」と思ったと思います。「誰が悪いというわけでもないので、誰のせいにすることも出来ない」、「でも、これ以上経営を圧迫されたら、経営者も従業員も全員が、路頭に迷う以外なくなってしまう」……お店の経営に行き詰まりを感じ、このままいったら自殺するしかないと思いつめ、実際に自殺してしまった方もいらっしゃると聞きました。

 心身ともに比較的健康な方にとって、新型コロナウイルスのことと、対人恐怖といった神経症のことを一緒にされることについては――「そんな本人の気の持ちようみたいなことより、こっちの悩みのほうがよほど深刻だ。同じ次元で考えるなどもってのほかだ!」とお怒りになられるかもしれません。

 でも実は、新型コロナウイルス後の今の世界と神経症の世界って、そんなところも似ていたりするのです。症状の出方の強い人ほど、就労したり、ひとつの場所で長期間働くのが地獄に等しいほど難しいので、働くことが出来ない→死ぬしかない、自殺するしかない……といった思考回路に落ち込むわけなんですよね。

 そして、「早く前と同じ世界に戻って欲しい」と願う方が多い一方、「いや、もうこの世界は元には戻らないだろう」と、シビアに考え、その前提によってすでに行動しておられる方もいます。

「もうこの世界は元には戻らないだろう」とはわたしは思ってないとはいえ、一度神経症になった方が、あれほど願った「症状のまったくない世界へ戻る」というのは、全体として多いとは言えないのではないでしょうか。ただ、自分にとって色々と不快な症状を堪えつつ、そのことで人から変に思われないよう気をつけつつ、どうにか神経症の症状と折り合いをつけて生きていくしかないというか。

 マスクや小まめな手洗いや消毒や、人との距離を気をつけたりとか……こんな言い方をしてはいけないのですが、神経症の方にとっては「いやいや、こんなの全然生ぬるいよ」と思ってる方は多いと思います、たぶん。神経症の方が普段耐えていることに比べたら、全然序の口といってもいいくらいのことのような気さえします。

 そして、お医者さんがいうことには、薬の服用と同時に行動認知療法を行うように勧められるわけですが――実はここにも新型コロナウイルスとの共通点があったりするんですよね。何をどうしていいかもわからない中で、勇気を持って行動したとします。それで、この時思いきって行動した結果として、「ほら、案ずるより産むがやすし方式で、うまくいったでしょ?」といったような成功例を重ねていき、そうやって自信をつけていきましょう……といったことらしいのですが、今は少しずつライブとか、無人や配信だけではなく、お客さんを制限する形で舞台なども行われたりしてますよね。

 わたし自身はこうした動向については賛成派ですし、そうした中で誰も感染者の方が出て欲しくないとも願っています。でも、「あ、やっぱり感染者の方が出てしまった……」となってしまった場合――これが神経症の方の失敗体験っていうことなんですよ。あんなに一生懸命がんばったのに、細心の注意を払っていたのに、でも結果としてはそういうことになってしまった――それで、ライブや舞台に関しては、そうしたことがなければ「これからもこの調子でいくといいね」、「気をつけてがんばろうね」となると思うのですが、それでも一度の失敗が物凄くのちのち響くのと同じように……神経症の方の失敗体験というのは、結構精神的に致命的に響いてしまうのです。。。

 新型コロナウイルスと神経症世界に共通項が多いことにわたし自身驚くと同時に不思議に感じてもいるのですが、ある方が日本に対して「神経症列島」と呼んだことがあるのをふと思い出しました。なんでも、日本は他の国に比べて対人恐怖症になる方の率というのが高いということだったんですよね。常に相手がどう思うかグループ内で空気を読み、忖度して行動する……という部分に関して、すべての人が病気としての神経症ではなくても、極めて神経症的な民族だというわけです。

 たぶん、そんなことと新型コロナウイルスという深刻な全人類の問題を一緒くたにするなと、お叱りを受けてしまうかもしれませんが、神経症の方というのは、「他の人が同じものを背負わされたら、自分とは違ってもっと早くに死んでしまうのではないか」という精神的重圧を感じつつ、それでいてそのことを誰に話すことが出来るわけでもなく、「自分が耐えられるだけの分は耐えるだけ耐える」、また、そうした自分の個人的な問題と他の人は関係ないので、当然迷惑をかけるわけにはいかない。だから、いつも表面上は笑顔で、穏やかな人柄でさえある――この、人格の練り上げという部分に関しては、神経症なるものは多少どころでなくかなりのところ有益かもしれません。でも、わたしと同じく、我が儘で横柄な嫌な奴でいい。人からそんな程度の人間と思われるくらい人間力低くていいから、神経症になどなりたくなかった……という方のほうが、もしかしたら多いかもしれません。

 なんにしても、神経症のなんらかの症状に捕まって、「ああ、もうオレ/わたしの世界は終わった」と思っても、その後も死なない限りは必ず明日がやって来るように――わたしたちも「今」というこの時この瞬間、新型コロナウイルスに足を取られる世界を生きていくしかないわけですよね。。。

 ではでは、次回はウイルスに関してたまたま興味深い記事を見つけたので、そのことについてでもと思いますm(_ _)m


 それではまた~!!






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