神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

霊的イスラエル人。

2016年09月02日 | キリスト教
【ダビデの星】


 いえ、タイトルの「霊的イスラエル人」なんていうのを読んだだけでも、このブログの管理人は軽くヤヴァいのか??と思われてしまいそうですよね(笑)

 けれど、クリスチャンと呼ばれる人々は全員が全員、実は本当に霊的イスラエル人なのです(^^;)

 カトリックの方でもプロテスタントの方でも、とにかくキリスト教徒と呼ばれる人で真に神さまを信じ礼拝している人々に「あなたは霊的イスラエル人ですか?」と聞いてみて、「いいえ、わたしは違います」と答えられる方はまずいないと思います(異端の中でもさらに特別聖書から外れた教えを信奉してでもいない限りは、ということですけど

 そして、キリスト教の聖地はエルサレムなわけですが、いずれイエスさまがオリーブ山に再臨され、黙示録に書かれたことが成就してのち、天のエルサレムがここに下ってくる……と言われています。

 わたしたちが地図を見た場合、それは大抵日本という島国を中心にした地図を見るわけですが、クリスチャンという人々が霊的な目で地図を見た場合は、イスラエル、そしてエルサレムが中心の地であるわけです。

 もちろん、ノンクリスチャンの方がこう聞いた場合、「はー、霊的ねえww」とか「宗教やべえなあ。カルトか??」といったように思われるかもしれませんが、旧約聖書→新約聖書→そして現代と、話は本当にすべて繋がっているといっていいと思います。

 つまり、ひとつ下の記事の関連から言いますと、イスラエルの人々はモーセをリーダーとして長く奴隷とされてきたエジプトの地から脱出したわけですが、現代を生きるわたしたちも、主イエスの十字架の血の贖いを信じ、聖霊さまが内住されるという経験をすることが――このことがイスラエルの人々の奇蹟的な救出劇に当たるといっていいことだと思うんですよね

 こう書くと、「おおう。そうかい。じゃあオイラも目の前で海が割れてその地の底を通るってえような奇蹟を経験したなら、キリストとやらが神なのだと信じてやってもいいがねえ」とおっしゃる方がおられるかもしれません。

 でも、イエス・キリストのことを自身の主として認め、他でもない彼こそが自分の罪の贖いを十字架上で成し遂げてくださり、それで自分は今、罪の奴隷の状態から救われているのだ……と信じることが出来る、それも聖霊さまの内住によって霊的に心からそう同意し、信じることが出来る――というのは、ほとんどひとりびとりの信者にとって奇蹟としか言えないことだと思うのです。

 もしキリスト教というものが、もっと合理的な理屈によって信じられる宗教であったとすれば、日本では信者の方が今ごろもっと増えていたに違いありません(^^;)

 でもそうではなくて、一見非常にわかりにくんいだけれども、一度「あー、そういうことなんだ!」と霊的な意味で理解が進むと、この方以外に神は他に存在しえないと、そんなふうにわかってくるというか。


 >>キリストが私をお遣わしになったのは、バプテスマを授けさせるためではなく、福音を宣べ伝えさせるためです。それも、キリストの十字架がむなしくならないために、ことばの知恵によってはならないのです。
 十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。
 それは、こう書いてあるからです。
「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、
 賢い者の賢さをむなしくする」
 知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の議論家はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。
 事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教ののことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。

(コリント人への手紙第一、第1章17~21節)


 さて、今回は一応前回の記事の続きだったりするのですが、イスラエルの人々がエジプトからの奇蹟的な救出劇を経験したのち――色々な試練にあったように、わたしたち現代のクリスチャンもまた、救われたのちに色々な試練を経験します。

 試練、という言葉を英訳するとテスト、ということになるらしいのですが、言うなればこれは神さまからのテスト、ということなのかもしれません。

 そして、イスラエルの人々は、水や食物など、神さまが必要なものを色々と与えてくださったにも関わらず……しかも、その後も昼は雲の柱、夜は火の柱によって導いてくださるという奇蹟をその目で見ていたにも関わらず――やれ、「うずらが食いてえだ」だの「オラはきゅうりとスイカが食いてえなあ」だのと呟いたり、さらには神さまが連れのぼってくださった約束の地がようやく近づいたにも関わらず……「あそこにはおっそろしいアマレク人がいるだよ」、「オラたち、奴らに皆殺しにされちまうだ。ガクブル☆」といった具合で、なかなか神さまのおっしゃられることに聞き従わないのですよね(^^;)

 こうして、神さまのテストにことごとく不合格となったイスラエルの人々は、四十年の間荒野をさまよった挙句、結局のところそのためにこそ神さまが導いてくださった約束の地へ入ることが出来ず死ぬということになりました。

 そして、実際に約束の地へと足を踏み入れることが出来たのは、神さまの導いてくださった地を偵察に出て、「我々はあの地を勝ち取ることが出来る」と信じたヨシュアとカレブ、あとはイスラエルの人々の中で世代交代が起き、直接は紅海を渡るという奇蹟を経験しなかった、のちの世代の人々だったのです。

 出エジプトしたイスラエルの人々の数は、男性だけでなく女性や子供、それに老人なども含めると二百万人以上はいたのではないかと推測されることから、その中で最後、唯一約束の地へ足を踏み入れることが出来たのがヨシュアとカレブだけだった……というのは、それだけ神さまの御声に聞き従うのが難しいということをも示していると思います。

「あれ?モーセは??」と思われると思うのですが、モーセもまた、ブツブツ呟いてばかりのイスラエルの人々に嫌気が差すあまり――ある時少しばかり高慢になってしまい、水を与えてくださるのは神さまなのに、あたかも自分がその奇蹟を起こしているかのように振る舞ってしまったことで……約束の地を目前にしながらそこに入ることは出来ないということになってしまったのでした

 もちろんここもわたし、最初に読んだ時は「神さまって意地悪だなあ。モーセ何も悪くないじゃん。こんなブツブツ文句ばっかり言ってる民族を率いてたら、そりゃこのくらい怒りもするよ☆」って思ったものでした。けれど、民のリーダーというのは、そのくらい重い責任を担うものだという、そうしたことでもあるのでしょうね

 そして、現代のクリスチャンであるわたしたちも――実はまったく同じなのです(^^;)

 イエスさまの十字架上の血の贖いを信じて救われたのちも、やはり人に嘘をついたりですとか、この世的な色々な事情によってクリスチャンらしくない振るまいをしてしまったりだとか、あるいはイスラエルの人々と同じように「どうして△□をしてくれないのですか!?」と神さまに文句を言ってしまったりと……むしろ、救われてからこそが神さまの試練(テスト)のはじまりだったりするわけですよね。。。

 たとえば、自分が長く祈っているある祈りが聞かれないということで、「どうして聞いてくださらないのですか。こんなにずっと祈っているのに!」ということがあったり、神さまが聖霊さまを通して右の道へ行きなさいと言っているのに、自分にとって好ましいと思える左の道を選んで痛い目を見たのち――「神さま、助けてくだせえ~!お願いしますだ~!!」なんていうことが、わたし自身、一体何度あったことでしょうか(苦笑)


 >>彼らは荒野や荒れ地をさまよい、住むべき町へ行く道を見つけなかった。
 飢えと渇きに彼らのたましいは衰え果てた。
 この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から救い出された。
 また彼らをまっすぐな道に導き、住むべき町へ行かせられた。
 彼らは、主の恵みと、人の子らへの奇しいわざを主に感謝せよ。
 まことに主は渇いたたましいを満ち足らせ、飢えたたましいを良いもので満たされた。

 やみと死の陰に座す者、
 悩みと鉄のかせとに縛られている者、
 彼らは、神のことばに逆らい、
 いと高き方のさとしを侮ったのである。
 それゆえ主は苦役をもって彼らの心を低くされた。
 彼らはよろけたが、だれも助けなかった。
 この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、
 主は彼らを苦悩から救われた。
 主は彼らをやみと死の陰から連れ出し、
 彼らのかせを打ち砕かれた。
 彼らは、主の恵みと、
 人の子らへの奇しいわざを主に感謝せよ。
 まことに主は青銅のとびらを打ち砕き、鉄のかんぬきを粉々に砕かれた。

 愚か者は、自分のそむきの道のため、
 また、その咎のために悩んだ。
 彼らのたましいは、あらゆる食物を忌みきらい、
 彼らは死の門にまで着いていた。
 この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、
 主は彼らを苦悩から救われた。
 主はみことばを送って彼らをいやし、
 その滅びの穴から彼らを助け出された。
 彼らは、主の恵みと、人の子らへの奇しいわざを主に感謝せよ。
 彼らは、感謝のいけにえをささげ、
 喜び叫びながら主のみわざを語れ。

(詩篇107編、第4~22節)


 もし、ただの物語として出エジプト記を読んだとしたなら、「やれやれ。このイスラエル民族ってのも、まったく懲りない連中だなあ」と思う方もあるかもしれません。けれど、わたしがもしこの時代に生きていて仮に紅海を渡るといった奇蹟を経験していても――やはりきっと同じだったと思うのです。

 水がなくなれば、「神さまなんで……水ないんですか。欲しいです、水」、「ここまで導いておきながら、水がねえとは言わせねえよお、神さま~!!」、「毎日毎日マナばっかじゃさあ、オラたちも流石に飽きちまうだ。もちっと味の違うもんも用意してくんねえとよお~、あんた、神さまなんだからなんでも出来るっしょ??」……などなど、神さまのせっかくの恵みを無駄にする態度しか取れなかったのではないかという気がしてなりません。。。

 そして、これこそがわたしたち人間の罪の姿でもあるわけですよね。神さまはわたしたちをこの罪の状態から救うためにこそイエスさまを地上に遣わされたわけですが、イエスさまの血の贖いを受けたのちにも――人はかつてのイスラエル民族のように、水がないとかある食べ物が欲しいとか、あれじゃなきゃ絶対ダメなんだ……だのと神さまの御前に呟いてばかりいるというわけです(^^;)

 でも、わたしたちとって救いなのは、それこそ神さまやイエスさまが「そんなわたしたちのことをわかってくださっている」、またわかっていてくださるだけでなく、その深い慈しみによって包んでくださる方でもある……という、そのことなのだと思います。

 この慈しみ深い方に、自分の欲望も失敗も人生の計画もすべてを委ねて歩むということ――それが神さまの御声に聞き従うための第一歩なのではないかとつくづく思う、今日このごろです(^^;)

 それではまた~!!





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