神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

あなたの信じたとおりになるように。

2019年02月04日 | キリスト教
【帰宅する羊の群れ】アントン・モーヴ


 >>イエスがカペナウムにはいられると、ひとりの百人隊長がみもとに来て、懇願して、言った。

「主よ。私のしもべが中風やみで、家に寝ていて、ひどく苦しんでおります」

 イエスは彼に言われた。

「行って、直してあげよう」

 しかし、百人隊長は答えて言った。

「主よ。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは直りますから。

 と申しますのは、私も権威の下にある者ですが、私自身の下にも兵士たちがいまして、そのひとりに『行け』と言えば行きますし、別の者に『来い』と言えば来ます。また、しもべに『これをせよ』と言えば、そのとおりにいたします」

 イエスは、これを聞いて驚かれ、ついて来た人たちにこう言われた。

「まことに、あなたがたに告げます。わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがありません。

 あなたがたに言いますが、たくさんの人が東からも西からも来て、天の御国で、アブラハム、イサク、ヤコブといっしょに食卓に着きます。

 しかし、御国の子らは外の暗やみに放り出され、そこで泣いて歯ぎしりするのです」

 それから、イエスは百人隊長に言われた。

「さあ行きなさい。あなたの信じたとおりになるように」

 すると、ちょうどその時、そのしもべはいやされた。

(マタイの福音書、第8章5~13節)


 今回は、百人隊長の信仰の素晴らしさ、立派さのことではなく……イエスさまの「あなたの信じたとおりになるように」という御言葉に特に注目してみたいと思います。

 いえ、なんていうか、人にはそれぞれが信じていることがあると思うんですよね(^^;)

 たとえば、わたしはイエスさまの十字架の血が、自分、また自分のみならず、全人類のために流されたものであることを信じていますが、それと同じように、他のある方にとっては、仏陀が信仰の対象であり、また別の方はマホメットを「最後の預言者」と信じておられるということだと思うんですよね。

 また、こうした<神>という概念と死生観というのは密接に結びついており、無神論の方などは「死後の世界は<無>である」と信じておられるかもしれませんし、同じ無神論でも「人の魂は生まれ変わる」と信じている方もおられると思います。あるいは、「死後に人の意識や魂と呼ばれるものがどうなるかはわからないけど、自然の中には精霊とか何かそうした存在がいるのは間違いない」、「もし神がこの世にいるとすれば、そうした自然の中に感じるある種の神々しさ、それがもっとも神に近いものでないかと思う」……など、人によって「信じている」ことは違うのではないかと思います。

 イエス・キリストと呼ばれる人がどのような方なのか、わたしがまだ知らなかった頃――わたしの信仰の対象というのは、八百万の神が対象だったといっていいと思います。山とか海とか川とか、そこが普段人が立ち入らない自然の深い場所であればあるほど……人に畏敬の念を感じさせる<何か>がいるのは間違いないと思っていましたし、その他、緑や花などの自然のひとつひとつだけでなく、自分の身の回りの無機物にもそうした何かが宿っているから、物は大切にしないといけない……自然と何かそのように考えて育ちました。

 また、こうしたことに関してまわりに教えてくれるような人は誰もいませんでしたし、物心ついた頃から神さまに祈ることをはじめていましたが、わたしが祈っていたのはこうした自然や物のひとつひとつに宿っている神さま的存在が信仰の対象だったといえます。

 だから、幼い心のうちにも、こう祈るわけですよ(笑)。「山の神さま、海の神さま、川の神さま、緑の神さま、木の神さま、花の神さま……(他に、思いつく限りの身のまわりの自然に宿る神さまの名前を上げる)、「テーブルの神さま、机の神さま、タンスの神さま、冷蔵庫の神さま、洗濯機の神さま、布団の神さま……」(以下、思いつく限りの身のまわりの普段お世話になっている物の名前を上げていく)――「同じクラスの○△ちゃんと仲良くしたいです!よろしくお願いします!!」といったように。

 ところがですね、思いつく限りの神さまの名前を上げていくっていうのが実は結構大変で、実際には自分のお願いごとを口にする前に寝てしまうとか、よくあったと思います


 >>ご承知のように、あなたがたが異教徒であったときには、どう導かれたとしても、引かれて行った所は、ものを言わない偶像の所でした。

 ですから、私は、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも、「イエスはのろわれよ」と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です」と言うことはできません。

(コリント人への手紙第一、第12章2節~3節)


 いえ、「イエス・キリスト」がどのような方で、「この方こそ唯一なる神である」と知るということ、また、知ることの出来る環境にある方というのは、いかに恵まれていることか……と思います。

 ただ、今度は「最初から見知ったあの人って本当に神さまなんだろうか?俺(わたし)のまわりのクリスチャンと呼ばれる人たちを見ても、そんなに幸せな人ばかりというわけでもないし、俺の両親もキリスト教徒だが、そんなに信仰熱心というわけでもない」といった問題があり、「この方が神であるとは思う。が、しかし」という、この「が、しかし問題」というか、何かそうしたものがあるらしい――といったことというのは、アメリカなどのキリスト教国にはあるみたいですよね(^^;)

 ところが日本の現状というのはその逆で、まず「イエス・キリスト」という名前については誰もが知っている、毎年クリスマスシーズンになると、「べつにキリスト教徒ってわけじゃないけど」と言いながら、その誕生日をパーティを開いて祝ったりもする(正確には、12月25日はイエスさまの誕生日ではないにしても)、でも「イエス・キリスト」がどのような方で、「御名に力がある」とは具体的にどういうことなのか、知っている方というのは人口的にとても少ないわけです。

 けれども、この「イエス・キリスト」という真実の御名に到達する、つまりはこの方が十字架上で流された血は自分のためのものであり、さらには全人類のすべてに必要なものだったと理解できると……突然にして信仰熱心になり、まずもって滅多なことではこの信仰の道から外れることがない――というくらいの信者になる、というのが日本のクリスチャンの特徴なんじゃないかなってたまに思ったりします。。。

 また、欧米諸国の最初からキリスト教徒であることが普通で当たり前といった国々でも、なんと言いますか、「表面的にクリスチャン、キリスト教徒」と名乗っている人々が本当に携挙(※キリストの再臨の時、生きたまま挙げられ、空中で主と再会すること)に与ることが出来るというわけでなく、聖書言うところの「残りの者」だけがその恵みと祝福に与ることが出来る……ということだと思うんですよね。

 ところで、欧米諸国の最初からキリスト教国である国々の場合は、網にはいいものも悪いものも引っかかる、ゆえに、いいものと悪いものは選り分けられ、その信仰の選別の振るいに耐えられた者が携挙に与ることの出来る真の信仰者である――という部分があるのと同時、日本のクリスチャンの方の場合、比率的に信仰熱心な信者の方のほうが多く、ほとんど最初から「残りの者」の側の信仰を持っている場合が多いのではないでしょうか(これはわたしが思うに、ということですけど^^;)。

 ただ、日本の場合は、「キリスト教」と聞いただけで眉をひそめる方のほうが人口比率的に多いと思うんですよねわたしがまだ小さかった頃、ホテルなどによくある聖書をぱらぱらめくっていると、母から「あまりそういうものは読まないほうがいい」と言われたことがあります。何故といって、「何か変な宗教を信じるようになったら困るから」といったようなことでした

 キリスト教国ではおそらく、小さな子が聖書を読もうとしていたら「まあ、なんて偉いんでしょ!」といった感じと思うんですけど(笑)、母が言いたかったのはようするに、エ○バやモ○モン教などを信じる熱心な信仰者になって欲しくないという、そうしたことだったと思います(^^;)

 最初から「イエス・キリスト」という御名を真実の意味では知りえぬ霊的暗闇の環境に長く置かれたからこそ……一度意味がわかるなり、わたしは内面的に信仰熱心な方向へ向かうことになったと思うのですが、「日本は霊の壁が厚い」とよく言われるとおり、「キリスト教やイスラムの神は神ではないと思うが」、「神社仏閣やご先祖さまのお墓は神というよりも心の拠り所、文化としてとても大事」、「また前者は間違いなくどちらも神でないが」、「この世に神がいるとすれば、後者のほうに近いのは間違いないだろう」――日本人の霊的背景と言いますか、信仰的背景というのはそんなところではないでしょうか。

 わたしはイエスさまのことを知る前は、神社仏閣や仏壇にまつわる仏教の行事等がとても大好きであり、仏壇とか神棚を有難がって拝む行為というのがとても好きでした。意味がわからないながらもお経を聞くのが好きであり、お焼香ですとか、お線香を上げるという行為にとても有り難味を感じてもいたのです。

 ただ、外国の方が「ところで、仏壇と神棚というのはどう違うのですか?」と聞かれた場合、ほとんどの日本人が答えられないように……「実はそのどちらにも神はいない」ということが本当の意味でわたしにわかったのは、イエスさまのことを信じてクリスチャンになって以降だったと思います。

 つまり、「イエス・キリストに至るまで」に、物凄く霊的に縛りの強い環境があって、そのすべてをうんしょ、うんしょ☆と乗り越えて、ようやくのことで真実の神の御名を知るに至る――といった信仰的経過を辿る方というのがとても多い、ということですよね(^^;)

 そして、自分がそのような困難な過程を通ったからこそ、自分以外の他の一般的な葬式仏教徒(わたしの家族や親戚などは、ほぼ全員がそうです)の方がひとり救われるのがどのくらい大変か、それはもうほとんど奇跡にも近い確率ではないかと思われるほどなのです。


 >>あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。

 見つけたら、大喜びでその羊をかついで、帰って来て、友だちや近所の人たちを呼び集め、『いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください』と言うでしょう。

 あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。

(ルカの福音書、第15章4~7節)


 この>>悔い改める必要のない九十九人。というのは、この世に神の御前に悔い改める必要のない人はひとりもいないことから、実際は罪人であるのに、罪の自覚のない人々(=パリサイ人)を指すのではないかと思われます。

 つまり、偽善的に宗教的典礼等を守っている人々よりも、神さまの御前に真実の悔い改めに進み、本当の信仰に目覚めた者がこの世界にひとり生まれた時――天国ではイエスさまの御前で天使がラッパを吹き鳴らす、そのくらいの喜びがあるのだ……といった意味ではないでしょうか。

 また、このいなくなったというのは、生きているが(己の罪を悔い改めないがゆえに実は)死んでいる者、その罪深さゆえに神さまの視界に決して入ってこない者が、再び神さまの御前に見出される者となった、そして神さまの御前でともに(キリストのゆえに)喜びを分かち合える者とされた……といったようにも読めると思います。

 けれど、このようなラッキーな羊というのは、100匹いて、ようやく1匹いるかどうかだということであり、日本の現在の状況と照らし合わせますと、どう考えても人口的にはこれよりもさらにもっとずっと低いわけです(^^;)

 どうか、日本のみならず、すべての国で、いなくなった羊が見出され、主の御前に喜びをもって飛び跳ねることの出来る信仰者が今後より一層増えていきますように!と願っています
 
 それではまた~!!





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