(オールポスターズの商品ページよりm(_ _)m)
わたしたちのすることは、大海のたった一滴の水にすぎないかもしれません。 でも、その一滴の水が集まって大海となるのです。
――マザーテレサ。
もちろん、マザー御自身がおっしゃっておられることとは意味が違うのですが、「わたしなんてこの世にいてもいなくても、おんなじだ……」みたいに思ったことが、長く人生を生きていると、一度はあるものなのではないでしょうか。
前にもどっかに書いたのですが、わたしも大体似たことを思っていた時期があります。
たとえば、蟻んこの足をちぎって仲間の元に戻し、その後彼がそのことゆえに仲間から同じ蟻だと認識されず、孤独にひとり飢え死にしたとしても――神さまにとってはきっとどーでもいいことなんだろうな……(=多くの人間のことも神さまにはどーでもいい☆)みたいに、荒んだ物思いを持っていたことがありました。
けれど、その大海の一滴がなければ、海というものは決して構成されることがない――というのは、確かに物理的に考えて事実ではありますよね。
でもわたし、性格のほうが相当ひねくれてるので(苦笑)、それじゃあその一滴の生命を無限に輝かせようとか、<今>という一瞬を素晴らしく過ごすことで、その一瞬一瞬が連なり、やがては永遠になるんだ……とか、そんなふうに思える明るい人間ではないのです(^^;)
大体十代後半くらいから人生の暗い時期に入っていった時、わたしにとってまず第一に救いになったのは、ゲームと漫画だったと思います。
小さい頃からとにかく漫画とゲームが大好きで、お小遣いの大半がこのふたつのもののために消えていきました(笑)
けれども人間、人生上の悩みが深くなっていくと、漫画やゲームの面白さだけでは解決がつかなくなっていく……ということに、ある時気づいたんですね。
ゲームをやってる時とか漫画を読んでる時っていうのは、確かに一時的に自分が深刻に悩んでいることを忘れますし、そこで得た面白さや充実感が自分の内側で力となり、現実の問題に立ち向かう力になったこともありました。
たとえばわたし、失業中にファイナルファンタジー7を朝起きてから夜寝るまでやりまくって、そしてクリア後に「よし!明日からは真面目に働くぞ!!」と思って、間もなく職探しを開始した……ということが実際にあります。その原動力となったものは、ファイナルファンタジーというゲームが与えてくれた、圧倒的な感動の力だったと思います。
でもその一方で、冷静な判断・分析能力によってこうもわかるのですよ。母からしてみれば、一日中家にいてゲームばっかりして……というようにしか見えなかったでしょうし、「この子、大丈夫かしら??」みたいには、当然なりますよね。
大体、引きこもりのお子さんのいる家庭では似た現象があるそうなのですが、本人は絶対に間違いなく考えています。「いつまでもこんなふうにしてばかりもいられない」といったようなことは。でもこの場合は週に一度くらい心療内科のカウンセリングに通うとか、引きこもりが長くなればなるほど周囲のサポートが必要になってくると思うんですよね。。。
もっとも、カウンセリングと一口にいっても内科や外科にかかる時以上に先生との相性とか色々ありますから、精神科とか心療内科という看板のあるところならどこでも行けばいい……とは限らないんですけど、自分が今悩んでいることを口に出して誰か人に言ってみるというのは、間違いなく問題解決の第一歩であるとは思います。
そして、話のほうが元に戻りますが、あれほどゲームと漫画大好き人間だったわたしが、今はゲームはほとんどやらなくなりました(^^;)あと、漫画を読むよりも今は小説とか、文字ばっかりの本のほうを特に読むようになっています。
いえ、わたしが今も漫画&ゲーム大好き人間だっていう根本の部分は何ひとつ変わっていません。ただ、その後死ぬとか自殺するとか、そのくらい悩みが深くなっていった時に、ゲームや漫画が一時的な現実逃避の手段でしかないと思い、むしろ小説などの本を読むようになっていったというか
一応誤解のないように先に書いておくと、日本のゲームや漫画というのは、一時的な現実逃避のツールでしかないとか、そんなことはまるでなく、本当に世界に誇れる芸術的な素晴らしい文化です。ただ、わたしの場合はそれだけでは心の悩みが追いつかなくなって、「もっと他に何かないか」と探した時に、小説とか哲学とか、そっち方面に逃げ道を見出したっていう、そうしたことだったのかなって思います。
それとわたしの場合、ちょうどこの頃にあんまり漫画が好きすぎて、背景に描かれたものもじっくり見ないとページを進ませられなくなる……という現象が起きたことで、漫画読むより活字の本のほうがさらさら読めるようになったという、そんなせいもあったかもしれません(^^;)
そしてゲームのほうは、一度やりはじめると、たとえばRPGゲームとかなら、軽く60時間くらいはそれに費やすと自分でもわかっているため、あえて遠ざけてその分の60時間を別のことに使うようになったという感じだったでしょうか。
いえ、わたし自身は今も「ゲーム如きのために60時間も無駄に使って」だの、そういう気持ちはまるでありません。それはそれで、本当に素晴らしい夢の時間、素晴らしくいい時間の過ごし方だとも思っています。
けれども、人は誰でもそれだけでは生きていけませんし、たとえばゲームするにしてもソフトを買うお金とか、色々ありますよね(あ、でも今はオンラインゲームが主流だったりするのかな^^;)。そしてそういう部分がちゃんとしている人はおそらく、仕事などの義務を果たしたご褒美としていくらでも休日はゲームして過ごしたり、漫画を大人買いして読み耽ってもいい……ということなのかなとも思うので。。。
話は少し変わりますが、わたしたちのまわりを流れる時間やわたしたちの所有する活動エネルギーというのは、いってみればその一雫一雫が大海の一滴のようなものかもしれません。わたしたちはある時にはその時間とエネルギーを自己の楽しみのために使い、また別の時には自分のやりたくないことや義務を果たすといった、嫌なこと、不愉快なことのために費やします。
わたしたちは毎日、この楽しいことの連続で日々を過ごせればそれを幸福と感じ、後者のやりたくない義務や不快感を伴う何がしかに取り囲まれ、そんなことに時間やエネルギーを取られると不幸せだと感じるのではないでしょうか。この人生上の嫌なことや不愉快なことに立ち向かうには、わたし自身は神さまに感謝し喜ぶことが、一番効果のある問題との向き合い方だった気がします。
つまり、「結局のところどうせやらなきゃいけないのなら」、嫌々ながらではなく、その義務や不愉快な状況が与えられたことを神さまに感謝し、賛美しつつ行うということでした(※これは引きこもりの方もそのように考えて外へ出るべきだとか、そういう話ではないです。あくまでも心身がある程度健康なクリスチャンの方の問題対処法、みたいなことなので^^;)。
マーリン・キャロザース先生の感謝と賛美の教えについての本の中には、「そんなことは感謝できない」、「神さまを賛美するなんてとんでもない」といった状況について、色々書かれています。けれど、人間的な努力の力の積み重ねによってでは限界のあることでも、聖霊さまが働かれると色々なことが不思議とうまくいったりしだすんですよね。
そして、一度そのような神さまからの解決方法を経験すると、「この神さまのためにもっと何かできるように」と心が変えられていき、自然行動や態度にもそのことが反映されていくことになる……のかなと思います(^^;)
この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。
(ローマ人への手紙、第12章2節)
そうは言っても、人はそう簡単に変わらないし、変えられもしない――と、誰もがそう思うかもしれません。
けれど、心の一新によって変わりたいということを心から神さまに願うなら、確かに何かが変わってきます。ただ、今の自分の置かれた感謝も賛美も出来ない状況を聖霊さまを通して感謝し賛美するなら、間違いなく少しずつでも何かが進歩発展していくものだと思います。
それではまた~!!
わたしたちのすることは、大海のたった一滴の水にすぎないかもしれません。 でも、その一滴の水が集まって大海となるのです。
――マザーテレサ。
もちろん、マザー御自身がおっしゃっておられることとは意味が違うのですが、「わたしなんてこの世にいてもいなくても、おんなじだ……」みたいに思ったことが、長く人生を生きていると、一度はあるものなのではないでしょうか。
前にもどっかに書いたのですが、わたしも大体似たことを思っていた時期があります。
たとえば、蟻んこの足をちぎって仲間の元に戻し、その後彼がそのことゆえに仲間から同じ蟻だと認識されず、孤独にひとり飢え死にしたとしても――神さまにとってはきっとどーでもいいことなんだろうな……(=多くの人間のことも神さまにはどーでもいい☆)みたいに、荒んだ物思いを持っていたことがありました。
けれど、その大海の一滴がなければ、海というものは決して構成されることがない――というのは、確かに物理的に考えて事実ではありますよね。
でもわたし、性格のほうが相当ひねくれてるので(苦笑)、それじゃあその一滴の生命を無限に輝かせようとか、<今>という一瞬を素晴らしく過ごすことで、その一瞬一瞬が連なり、やがては永遠になるんだ……とか、そんなふうに思える明るい人間ではないのです(^^;)
大体十代後半くらいから人生の暗い時期に入っていった時、わたしにとってまず第一に救いになったのは、ゲームと漫画だったと思います。
小さい頃からとにかく漫画とゲームが大好きで、お小遣いの大半がこのふたつのもののために消えていきました(笑)
けれども人間、人生上の悩みが深くなっていくと、漫画やゲームの面白さだけでは解決がつかなくなっていく……ということに、ある時気づいたんですね。
ゲームをやってる時とか漫画を読んでる時っていうのは、確かに一時的に自分が深刻に悩んでいることを忘れますし、そこで得た面白さや充実感が自分の内側で力となり、現実の問題に立ち向かう力になったこともありました。
たとえばわたし、失業中にファイナルファンタジー7を朝起きてから夜寝るまでやりまくって、そしてクリア後に「よし!明日からは真面目に働くぞ!!」と思って、間もなく職探しを開始した……ということが実際にあります。その原動力となったものは、ファイナルファンタジーというゲームが与えてくれた、圧倒的な感動の力だったと思います。
でもその一方で、冷静な判断・分析能力によってこうもわかるのですよ。母からしてみれば、一日中家にいてゲームばっかりして……というようにしか見えなかったでしょうし、「この子、大丈夫かしら??」みたいには、当然なりますよね。
大体、引きこもりのお子さんのいる家庭では似た現象があるそうなのですが、本人は絶対に間違いなく考えています。「いつまでもこんなふうにしてばかりもいられない」といったようなことは。でもこの場合は週に一度くらい心療内科のカウンセリングに通うとか、引きこもりが長くなればなるほど周囲のサポートが必要になってくると思うんですよね。。。
もっとも、カウンセリングと一口にいっても内科や外科にかかる時以上に先生との相性とか色々ありますから、精神科とか心療内科という看板のあるところならどこでも行けばいい……とは限らないんですけど、自分が今悩んでいることを口に出して誰か人に言ってみるというのは、間違いなく問題解決の第一歩であるとは思います。
そして、話のほうが元に戻りますが、あれほどゲームと漫画大好き人間だったわたしが、今はゲームはほとんどやらなくなりました(^^;)あと、漫画を読むよりも今は小説とか、文字ばっかりの本のほうを特に読むようになっています。
いえ、わたしが今も漫画&ゲーム大好き人間だっていう根本の部分は何ひとつ変わっていません。ただ、その後死ぬとか自殺するとか、そのくらい悩みが深くなっていった時に、ゲームや漫画が一時的な現実逃避の手段でしかないと思い、むしろ小説などの本を読むようになっていったというか
一応誤解のないように先に書いておくと、日本のゲームや漫画というのは、一時的な現実逃避のツールでしかないとか、そんなことはまるでなく、本当に世界に誇れる芸術的な素晴らしい文化です。ただ、わたしの場合はそれだけでは心の悩みが追いつかなくなって、「もっと他に何かないか」と探した時に、小説とか哲学とか、そっち方面に逃げ道を見出したっていう、そうしたことだったのかなって思います。
それとわたしの場合、ちょうどこの頃にあんまり漫画が好きすぎて、背景に描かれたものもじっくり見ないとページを進ませられなくなる……という現象が起きたことで、漫画読むより活字の本のほうがさらさら読めるようになったという、そんなせいもあったかもしれません(^^;)
そしてゲームのほうは、一度やりはじめると、たとえばRPGゲームとかなら、軽く60時間くらいはそれに費やすと自分でもわかっているため、あえて遠ざけてその分の60時間を別のことに使うようになったという感じだったでしょうか。
いえ、わたし自身は今も「ゲーム如きのために60時間も無駄に使って」だの、そういう気持ちはまるでありません。それはそれで、本当に素晴らしい夢の時間、素晴らしくいい時間の過ごし方だとも思っています。
けれども、人は誰でもそれだけでは生きていけませんし、たとえばゲームするにしてもソフトを買うお金とか、色々ありますよね(あ、でも今はオンラインゲームが主流だったりするのかな^^;)。そしてそういう部分がちゃんとしている人はおそらく、仕事などの義務を果たしたご褒美としていくらでも休日はゲームして過ごしたり、漫画を大人買いして読み耽ってもいい……ということなのかなとも思うので。。。
話は少し変わりますが、わたしたちのまわりを流れる時間やわたしたちの所有する活動エネルギーというのは、いってみればその一雫一雫が大海の一滴のようなものかもしれません。わたしたちはある時にはその時間とエネルギーを自己の楽しみのために使い、また別の時には自分のやりたくないことや義務を果たすといった、嫌なこと、不愉快なことのために費やします。
わたしたちは毎日、この楽しいことの連続で日々を過ごせればそれを幸福と感じ、後者のやりたくない義務や不快感を伴う何がしかに取り囲まれ、そんなことに時間やエネルギーを取られると不幸せだと感じるのではないでしょうか。この人生上の嫌なことや不愉快なことに立ち向かうには、わたし自身は神さまに感謝し喜ぶことが、一番効果のある問題との向き合い方だった気がします。
つまり、「結局のところどうせやらなきゃいけないのなら」、嫌々ながらではなく、その義務や不愉快な状況が与えられたことを神さまに感謝し、賛美しつつ行うということでした(※これは引きこもりの方もそのように考えて外へ出るべきだとか、そういう話ではないです。あくまでも心身がある程度健康なクリスチャンの方の問題対処法、みたいなことなので^^;)。
マーリン・キャロザース先生の感謝と賛美の教えについての本の中には、「そんなことは感謝できない」、「神さまを賛美するなんてとんでもない」といった状況について、色々書かれています。けれど、人間的な努力の力の積み重ねによってでは限界のあることでも、聖霊さまが働かれると色々なことが不思議とうまくいったりしだすんですよね。
そして、一度そのような神さまからの解決方法を経験すると、「この神さまのためにもっと何かできるように」と心が変えられていき、自然行動や態度にもそのことが反映されていくことになる……のかなと思います(^^;)
この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。
(ローマ人への手紙、第12章2節)
そうは言っても、人はそう簡単に変わらないし、変えられもしない――と、誰もがそう思うかもしれません。
けれど、心の一新によって変わりたいということを心から神さまに願うなら、確かに何かが変わってきます。ただ、今の自分の置かれた感謝も賛美も出来ない状況を聖霊さまを通して感謝し賛美するなら、間違いなく少しずつでも何かが進歩発展していくものだと思います。
それではまた~!!
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