神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

いじめ。

2016年10月27日 | キリスト教



 私の敵。私のことで喜ぶな。
 私は倒れても起き上がり、
 やみの中にすわっていても、
 主が私の光であるからだ。

 私は主の激しい怒りを身に受けている。
 私が主に罪を犯したからだ。
 しかし、それは、主が私の訴えを取り上げ、
 私を正しくさばいてくださるまでだ。
 主は私を光に連れ出し、
 私はその義を見ることができる。

 それで、私に向かい、
「あなたの神、主は、どこにいるのか」
 と言った私の敵は、これを見て恥に包まれる。
 私もこの目で敵をながめる。
 今、敵は道の泥のように踏みにじられる。

(ミカ書、第7章8~10節)


 先日、ミカ書のこの部分について示されたため、今回はいじめ。ということについて、何か少し書いてみたいと思います。

 キリスト教について「よくわからんのう」という方でも、「右の頬を打たれたら、左の頬も差しだせ」という言葉は「あ~、なんか聞いたことある☆」と思われるのではないでしょうか。

 また、神さまは「自分を迫害する者のために祈れ」ともおっしゃっています。

 では、学校や職場などでいじめにあった場合、自分をいじめる人物に対して左右の頬を差しだし、その人物のために祈らなくてはならない……これはそういうことなのでしょうか。

 ローマ人への手紙、第12章19~21節には、


 愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。

「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる」

 もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。

 悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。


(ローマ人への手紙、第12章19~21節)


 とあります。

 つまり、極論としては聖書はそうすることで敵、いじめっ子に打ち勝てといっているわけですよね(^^;)

 でも、そんなこと言われても「んな無茶な!!」というのが当然のことですし、そこで旧約聖書を引いてみますと、詩篇などではダビデが自分の敵の滅びを願っていたりと、そんな箇所が結構あったりします。


 主よ。私と争う者と争い、
 私と戦う者と戦ってください。

 盾と大盾とを手に取って、
 私を助けに、立ち上がってください。

 槍を抜き、私に追い迫る者を封じてください。
 私のたましいに言ってください。
「わたしがあなたの救いだ」と。

 私のいのちを求める者どもが恥を見、
 卑しめられますように。
 私のわざわいを図る者が退き、
 はずかしめを受けますように。

 彼らを風の前のもみがらのようにし、
 主の使いに押しのけさせてください。

 彼らの道をやみとし、また、すべるようにし、
 主の使いに彼らを追わせてください。


【中略】

 奮い立ってください。目をさましてください。
 私のさばきのために。
 わが神、わが主よ。私の訴えのために。

 あなたの義にしたがって、私を弁護してください。
 わが神、主よ。
 彼らを私のことで喜ばせないでください。

 彼らに心のうちで言わせないでください。
「あはは。われわれの望みどおりだ」と。
 また、言わせないでください。
「われわれは彼を、のみこんだ」と。

 私のわざわいを楽しんでいる者らは、
 みな恥を見、はずかしめを受けますように。
 私に向かって高ぶる者は、
 恥と侮辱をこうむりますように。

 私の義を喜びとする者は、
 喜びの声をあげ、楽しむようにしてください。
 彼らにいつも言わせてください。
「ご自分のしもべの繁栄を喜ばれる主は、
 大いなるかな」と。

 私の舌はあなたの義とあなたの誉れを
 日夜、口ずさむことでしょう。

(詩篇、第35編1~6、23~28節)


 その他、旧約聖書全体としても、詩篇だけでなく、我々(イスラエル)の敵が滅びるように……といったことはあちこちに言及があるかと思います。

 そこで、ですね、わたしが思うには、今すぐ目の前の自分のいじめっ子なり、不愉快な目にあわせてくる方を赦せなかった場合、まず最初の段階としては、ダビデのように敵の滅びを願うというのも、場合によってはあってもいいのではないでしょうか。

 ことは理性の問題ではなく、リアルな感情の問題ですし、「いずれ神さまがなんとかしてくださる」との思いとともに、こうした聖書の言葉を握って現実の問題に立ち向かう……ということも、わたし自身は全然あってもいいんじゃないかなって思っています。

 もっともダビデ自身はこの詩篇の中でそんな敵のために祈ったりとか、こちらは良いことを図ってやったのに奴らは……といった論調で語っているのですけれども、不当な敵が悔い改めますようにと祈ることは罪ではないですし、そのように祈る人というのは大抵同時に「自分にもこんな悪いところがある」という心当たりがあった場合、まずはそのことを神さまの御前に告白して、「でも向こうにも変わってほしい」といったように祈るものだと思うので(^^;)

 あとはとにかく、マーリン・キャロザース先生の感謝と賛美の実践!ということに尽きるかもしれません。。。

 ではでは、次回はこのお話の延長線上のお話として、ということではないのですが、<和解>ということをテーマに、何か書いてみたいと思います。

 それではまた~!!


「イジメ、ダメ、ゼッタイ」BABYMETAL(この曲を初めて聴いた時の衝撃は、今も忘れられませんww)





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