神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。

2021年04月23日 | キリスト教


 わたしはキリスト教徒なので、もう日本の神社仏閣的なものにはなるべく近づかないようにしているのですが、それでも神社の朱色の鳥居など、見るとやはりある種の<建築美>のようなものを感じますし、根本的な部分で嫌ってるわけではないのです(^^;)

 この間も、某神社(確か、お稲荷さん系・笑)で、朱色の鳥居がひとつでなく、いくつも奥のほうに向かって連なっているのを見て……「わあ。すっごく綺麗!!」と思いました。もしわたしがインスタとかやってたら、「映え~!!」とか言って、携帯で写真撮ってたかもしれません。でもまあ、心の中で「偶像礼拝、偶像礼拝……」と思いつつ、ただ通りすがっただけでした(あと、こういう時には必ず、イエスさまの御名による霊の解放を心の中で必ず祈ります)。

 それで、ですね。そのちょっとあとに偶然……そこの神社の境内のあたりにはなんとかっていう大きな石があって、物断ちをすると、その祈りを叶えてくださる――みたいに書いてあるタウン誌の紹介記事を読んだのです!!

 日本は偶像大国ですので、この種のものが本当に数多くあると思うのですが、これこそまさに「THE 偶像礼拝」とでも呼ぶべきものの代表格ですよね(^^;)

 いえ、わたしたちが何かの物を断ったからとて、大抵の場合その願いというのはわたしが物を断とうが断つまいが関係なく、基本的には「なるようにしかならない」ものだと思います。もちろん、小学生のお子さんなどが、「神さま、お母さんが病気なんです。ぼく、今日からお母さんがよくなるまでゲームしません。だから、お母さんのガンを治してください」と祈りにきたりすることだってあるかもしれません(このことに関しては、「赤毛のアンー【4】ー」の記事をご参照くださいm(_ _)m)。

 でも、これが日本の偶像礼拝の一番危険なところだと思います。結局、友達とのつきあいその他でゲームをしてしまい、その後たまたま偶然お母さんの具合が悪くなったりしたら……その子は自分のせいだという罪悪感を抱くかもしれませんし、わたしもこの種のことに関しては縛られた経験が何回かあります。

 これは前にも書きましたが、一度、神社のお守りの中がどうしても見たくて堪らなくなって、そこに赤い文字で<巡礼>と書いてあるのを見て、ものすっっごく縛られました。というのも、「なんかすごい悪いことしちゃった……」みたいな物凄い罪悪感に襲われたからなんですよね。あと、これも小学生くらいの時、仲のいい友達何人かで、神社の裏手にある――あれ、なんて言うんでしょう?神社の本殿とはまた別の、何か小さなお社みたいのがあってですね、こっそりそこを覗いたことがあったのです。そしたらそこには、印鑑が5本くらい置いてあったのですが、友達と「なんじゃこりゃ?」みたいに言ってた時のことでした。誰かが「触ったら呪われるぞっ!!」みたいに言い、何分まだ小学生ですから、「ワー!!」とか「キャーッ!!」とか叫びつつ、みんなその場から走って逃げたという。。。

 いえ、わたしたちが普段神社あたりにお賽銭放り込んで、何に向かって拝んでるか知ってますか?っていう話なんですよ。大体のところ取引でもしないと願いも聞いてくれない「何かそんなようなもの」を有難がって拝んでいたり、あるいは「呪われる」とか「縁起が悪い」と勝手に思い込んで恐れている……大体のところ日本人の宗教観はそのくらいのものなのではないでしょうか。

 今回のタイトルは「主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いを叶えてくださる」(詩篇、第37編4節)ですが、「だからといって、キリスト教の神に祈ろうが、イスラム教の神に祈ろうが、特段何も変わりゃしねえよ」とおっしゃる方もいらっしゃるかもしれません。また、キリスト教に対する批判の言葉として、「毎週日曜は礼拝へ……とか、そんなふうに縛られるのはごめんだね。たまの休みくらい自分の好きなように休ませてくれ」といったこともあるかもしれません。

 でも、クリスチャンにとってはやはり、神さまは喜び、イエスさまは喜び以外の何ものでもないのです。教会でイエスさまこそ主であることを告白し、聖霊さまを迎え入れる体験をすると――この聖霊さまの内住によって、心・魂・霊の内側に光があることで、自分の内側に、神さま、イエスさまがおられる喜びによって輝くことが出来るのです。

 もちろんキリスト教徒にも、日曜礼拝を守ることの他に、イエスさまの似姿となるよう努力する……といった信仰生活の側面があるとは思います。でもそれは、「神さま、今日も日曜礼拝守ったよ。だからずっと願っているようにオレにあれあれのことをしてくれ」とか、「イエスさま、さっき三十分くらいあんたに向かって賛美歌を歌ったよ。だからこれこれのことをしてくれ」といった性質のものではないのです。

 何より、「主ご自身が真実本当にあなたのよろこび」となっているなら――心・魂・霊が心から喜びに満ちていることによって、もう他に何もいらないくらいなのではないでしょうか。そして、人がそのような状態に到達している時、それが当然正しいものなら神さまがその願いを叶えてくださるでしょうし、もし願いが叶わなくても、そのことすらも喜べると思うのです。

 今、マーリン・キャロザース先生の本を再び読み返そうとしていて、この聖書の御言葉にぶつかった瞬間、「本当にそのとおりです、主よ」との思いが強くこみ上げてきました。わたしもかつては、日本の偶像を有難がって拝んでいたものでしたが、いまやその目の覆いが取り払われ、イエスさまをおのれの喜びとすることが出来ていることを、本当に心から感謝しています

 それではまた~!!






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