神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

まったく良心のない、悪魔という存在。-【2】-

2021年04月07日 | キリスト教
【快楽の園】ヒエロニムス・ボス


 さて、前回は、わたしがイエスさまのことを信じて、クリスチャンになってからも、「悪魔や地獄」といったことについては、何やら懐疑的だった……といったことを書きました

 で、ですね。19世紀くらいが舞台の昔の小説をお読みしますと――時々というか、ほんのたま~に、「死後に地獄へ行くのが怖いから、神さま、イエスさまを信じる!!」といった動機で毎週日曜は礼拝を守りもするし、キリスト教の神さまを信じてもいる……といった人物を見かけることがあります。

 まあ、大体人物の存在としても俗物っぽい脇役か、ほんのちょい役だったりするわけですが、そういうところを読んでいて、自分的にいつも思うのは「えっ!?地獄へ行くのが怖いから神さまを信じるとかって……なんかそんなのほんとの信仰じゃなくない??」みたいな感じのことだったかもしれません(^^;)

 でもこれ、今は彼らのほうが正しいって、わたしにもわかります。もちろん、イエスさまを信じる動機なんて、それがどんなものでも人がとやかく言っていいことではなく、とにかく信じてさえいたらいいのですから、そんなことで「あなたの信仰は本当じゃなくっぽくない?」なんて裁こうというわたしのほうがどうかしていると言いますか。。。

 それはさておき、地獄や悪魔というのは大体のところセット販売(?)でして、悪魔のいない地獄というのはあまり意味がない気がしますし、悪魔の住み処が地獄ということも、人間の中で知らない人はいないくらいなのではないでしょうか。

 それで、ですね。火の池地獄のまわりに悪魔がいて、そこに人の姿をした人間の魂を三又の矛的なもので追い落としたりなんだり……という絵というのを、誰もが目にしたことがあると思います。東洋でしたら、悪魔が鬼になったりするわけですが、西洋はまあ悪魔が描かれているというか

 そして、こういうのを見せられて、「イエスさまを信じなかったら死後、こうなるよ!だから信じなさい」と言われて、「そいじゃ信じよっかな♪」という方は、どのくらいいるものでしょう?わたし、小学生の時にエ○バの方がそうした形で校門のあたりで伝道するのを見て――「そんな神さま、ほんとの神さまじゃないやい!」と、ものすごい反発心を覚えた記憶があります(^^;)

 その後、イエスさまを信じるようになったのですが(一応念のために書いておくと、エ○バやモ○モン教などは正統的キリスト教会からは異端とされています)、とはいえ、天国や神さま、イエスさまを信じることは出来ても……地獄や悪魔といったことについては、懐疑的な部分が残っていたのです。

 ところが、ですね。ひとつの可能性として――あの火の池地獄というのは、ひとつの比喩である可能性もあるとしたら……それはとても恐ろしいことではないか、と最近思うようになりました。どういうことかと言いますと、死後の、わたしたちの肉体を失った魂だけの存在というのはようするに、わたしたちを<わたし>たらしめている個性であり心であり、意識という存在ということなわけですよね。

 こう考えた場合、「わたしたちの意識だけを取り出して、どこか小さな箱に閉じ込めたりすることも、神さまには可能である」ということが言えると思います。これはちょっと突飛な考えであるように聞こえるかもしれませんが、実際、これから科学が進んだとしたら、脳の中のわたしたちの<意識>だけをデータ化するような形で新しい肉体に移したり、死なないロボット、アンドロイドのようなものに移して「永遠に生きる」ということも可能かもしれない……と言われていたりもします。

 こうしたことは、少し前までは「SF世界にしかない突飛な考え」と思われていましたが、その後さらに科学が進歩・発展した現在――いつになるかはわからないにせよ、そんなに遠くない未来、実現可能なところまで来ている……と言われていたりするそうです。

 そしてもし、こんなことが可能であるとしたら、逆に考えると怖くありませんか?(^^;)

 だって、人間に出来ることが神さまにお出来にならないはずがないと考えた場合、死後にわたしたちのこの<意識>に相当する魂といったものを、神さまはどうとでもお出来になるということになるわけですから。

 今現在、わたしたちのパソコンのデータといったものは、どんどん小さくなっており……わたしの一生なんてものももしかしたら、ゴマ粒程度のものに圧縮されて、天使たちが管理する図書館にでも保存されているかもしれないのです。そして、彼らがわたしがどんな人間かを知りたいかと思ったら、そのデータを呼びだせばいいのです。わたしたちが今、パソコンで何かのデータを呼びだす時のように……。

 それで、ですね。最近ちょっと設定的に「怖いな」と感じる小説を読みまして、それはある呪いに関する物語でした。どういうことかというと、ある円環(輪)の中に、人から抜き出された意識(霊魂)だけが放りこまれ、それに捕まってしまうと、ただエネルギーだけを取られ続けるわけです。そこには他の人々もたくさんひしめいているため、自分のすぐ横に他の人の意識が隣接している状態で、それが相当気持ち悪いらしいのです。何分、彼らはすでに肉体から抜き取られた意識だけの存在ですので、死ぬことも出来ず、ただそんな場所に永遠に囚われ続けていなくてはならないというか。

 わたし、このあたりの描写を読んでいて、思いました。もしかして聖書に書いてある「地獄」というのはある種の比喩であって――実はこういった種類の地獄を味わうということが、実は本当にあるのではないか、と……。

 そして、ふと思ったのです。「死後に地獄へ行くのが怖いからイエスさまを信じよう!」とか、そんな信仰嘘っぽいなんて――そんなことは言ってはいけなかったのです。それがどんな理由であれ、地獄や悪魔を恐れることは、神さま、イエスさまを正しく畏れることにも繋がることですし、その理由(信じる動機)がどんなものであれ、イエスさまのことはただとにかく本当にもう、信じてさえいたら死後に天国へ行けるという恵みが開かれているのですから!

 また、個人的にちょっとわかることとして……自分が健康元気な間はあんまし神さまとか天国とかまるで興味がなかったけども、何かの病気などによって自分の<死>といったものを強くその人が意識するような時――こうした時に「イエスさまのことを信じてみませんか?」と言われて、周囲からは「あの人だけは信じそうもない」と思われた人が案外あっさり「信じます」と信仰告白される気持ちっていうのは、自分的にものすごくよくわかります。

 自分が健康元気で、人生もある程度まあまあうまくいっているよう時って、「神さまってほんとにいるのかな?」、「天国なんてほんとにあるのかしら?」くらいに思ってるものですが、<死>というものが自分の身近にぐっと迫った現実になった瞬間……「神や天国?科学的に証明されでもしたら、信じてもいいけどね」くらいにニヒルに思ってた方でも――それまでの人生の中で後ろ暗いところの多い方であれば特に、「地獄へいかないためにも、信じようかな……」といったように、心が弱く砕かれ、信じられる心理状態になりやすいと言いますか。

 なんにしても神さまは、そんなふうに心が弱く砕かれている者をこそ愛し救ってくださいますから、本当に死ぬ直前、ギリギリセーフといった形ででも、「イエスさまを信じます」と信仰告白する者を、ただそれだけで救ってくださるのです。

「それまでずっと信じてなかったのに、最後の最後のほんの半月くらい信じてたってだけなんでしょお?」と、思う方もいらっしゃるかもしれません。でも、イエスさまの救いというのはそうした意味でも本当に誰にでも平等なのです!

 とにかくこの方のことを、その理由がどんなものであれ、信じる方がこれからさらにたくさんこの国に起こされてきますように!!

 それではまた~!!






コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« まったく良心のない、悪魔と... | トップ | 主をおのれの喜びとせよ。主... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

キリスト教」カテゴリの最新記事