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>>あるところに、お父さんとお母さん、それに五人の子供たちがいて、大きな屋敷に住んでいました。
わかりやすく、一美ちゃん(長女)、太郎くん(長男)、次郎くん(次男)、二葉ちゃん(次女)、三郎くん(三男)……ということにしておきたいと思います。
この五人の子供たちは色々ありつつも、とうとう成人を迎え、その後さらに大学を卒業するなどして、就職もしました。ところがですね、次男のジローくんだけ、ひとり人生がうまくいっていません。
考えてみると、ジローくんだけ、両親にとっては常にいつでも悩みの種でした。小学校で不登校を経験、中学校ではいじめにあい、高校でも人間関係がうまくいかなくて、中退してしまい、今はずっと家に引きこもっています。
お父さんとお母さんは、五人の子供たちをそれぞれなるべく平等にと考えて育てましたし、まったく同じ状況下で育てたつもりなので、五人子供のいるうち、ジローくんだけ人生がうまくいってないのは……本人の性格等の問題であって、自分たちの責任ではない、親の責任ではないと考えていました。
他のお姉さんやお兄ちゃん、妹、弟も、落ちこぼれであるジローくんに対して、「何故弟/兄はあんな感じなのだろう?」と不思議に思っています。彼らは4人とも優等生で、勉強もスポーツもよく出来るほうでしたから、勉強も出来なければスポーツもからっきしのジローくんのことが、まるで理解できなかったのです……。
さて、問題です。こういう時、あなたなら家族としてどうしますか?(^^;)
確か、これと似たようなお話が、昔読んだ心理学関係(カウンセラー系)の本に書いてあったんですよね。先に書いておきますと、その家族によって違いがありますので、「答えはない」のです。
ただ、心理カウンセラーの勉強をするためのテキストとして、「こういう時、みなさんならどうしますか?」という、ディスカッションのためのお題だ、ということでした。
そして、わたしもこの時、このあたりのことを読んでいて色々考えたのですが、これはたぶん「家族病というものの一症状ではないだろうか」と思ったりしました。
そのですね、今の日本では五人もお子さんがいるって少ないと思うので、人数は関係なく、三人兄弟とかのほうが、もしかしたらわかりやすいかもしれません。なんだか、真ん中の子にだけ犠牲になってもらってるみたいで恐縮なのですが(汗)、三人兄弟の中で真ん中の子だけが何故かジローくん的状況だ……みたいなこと、あると思うんですよね。
それで、これはその本にも書いてあった気がするのですが、ようするにこの五人家族の中の悪い症状みたいなものを、その三人兄弟の真ん中の子が背負っているのだ――という考え方というか、実際の現場のものの考え方としても、話を聞いているとそういうことというのが案外多いそうです。
どういうことかというと、こうした家庭環境の場合、親御さんがおっしゃることは大体似てるそうなんですよね。「親であるわたしたちに責任はない」、「だって、出来るだけのことはしたのに、この子が自分の足で立てないんですから」、「それに、この子もう二十歳すぎてるんですし、これからの人生のことは自分の頭で考えてどうにか出来ると思うんです」、「他の兄弟の上の子と下の子は、それぞれ優秀な成績で大学も卒業して、社会にも適応してうまくやってます」、「それなのに何故この子だけ、うまくやってかれないんでしょう?」……まず、一番最初にくるのがやっぱり、自分たちがいかに一生懸命この子を育てたか、だから自分たちは悪くない、親として出来る限りのことは精一杯した、それなのに――という言葉が一通り過ぎ去るのを、まずは精神科医やカウンセラーの先生はじっと辛抱強く待ってから話をはじめられるそうです(^^;)。
それで、ですね。もちろんケースバイケースですので、「あなたがた家族は、ジローくんにだけ自分たち家族の悪いものや嫌なもの、重い十字架を背負わせることで、これまで案外楽をしてきた……そう言われて心当たりのあることはありませんか?」なんていう言い方をカウンセラーの方がされることはなくても――でも、なんとなくこう聞いただけでもわかる気はしますよね。
どういうことかというと、これは家族でなくてもいいのです。たとえば学校でも職場でも、あるいは少人数の集まる何かのコミュニティとかでも……誰かひとり「自分たちは少なくともあいつより下へ行くことはないな」という人間を作っておくと、他の彼/彼女以外の人は心のどこかで安心だ――といったような心理状況というのでしょうか。
そうして、誰かひとりに十字架を背負わせることで、他の人間が楽をする……これと似た図式というのは、案外あちこちでよく見かけるものだと思います。さて、ここはキリスト教について何か書くというブログですので、十字架といえば当然、イエスさまのことです(笑)。
>>すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。
(マタイの福音書、第11章28~30節)
>>キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。
(エぺソ人への手紙、第2章14~16節)
今の時代というのは本当に複雑ですから、Aという人とBという人がいて、このふたりは学校なり職場なりで、お互い相手のことをあまりよく思っていない……という場合でも、ネットの世界でお互いの姿が匿名で見えなくなった途端、何か共通の趣味のことで毎日熱がこもったように語りあう関係に――とかって、実はあったりするんじゃないかな、とわたしは思ったりしています(^^;)
でも、実際に顔を合わせるとうまくいかない……家族でも、お互いのことを心の深いところでは思いあっているのに、顔を合わせると喧嘩ばかりしているとか、あると思うんですよね。
そして、わたしたちにはひとりひとりそれぞれ、「これはわたしにしかわからない問題だ」といったことで苦しんだり悩んだり、つらい思いに沈んだりしています(それを表面に見せるかどうかというのは別問題として)。
こうして、ある種の現代的な図式が出来上がります。「わたしはわたしの苦しみをここで苦しむから、あんたはあんたで壁の向こうで同じように自分の悩みを悩みなさい」――というのでしょうか。そんな小さな壁で囲まれた狭い領域が、ほとんどこの全人類の数ほども出来るというわけです。
けれども、イエスさまはわたしたちが「あることでは時にわかりあえるけれども」、問題が変わればまたこのような元の状態に簡単に戻ってしまうのをご覧になって、「その隔ての壁はわたしが打ち壊そう」とおっしゃってくださったのでした。
わたしたちの心の壁を構成するもの、それは他人に対する不信感であったり、臆病さであったり、正しく理解されないことへの恐怖であったり……そんな色々の負の感情かもしれません。でもわたしたちは人のことは容易に信頼できずとも、イエスさまには信頼することが出来ますし、イエスさまに対してはむしろ大胆に自分の悩みごとを申し上げ、そのことに対して神さまは決して理解しないだろう――とは考えません(少なくとも、聖霊を受けたクリスチャンであればそうです^^;)。
誰かに対して敵意を持っている状態から和解へ至るためには、片方がまず敵意を捨てて「和解しよう」と決意しても、もう一方が同じように歩み寄る意志がなければ、険しく長い道を辿ることになると思います。特に家族の場合、親の一方がそのような気持ちで子供に接しても、子供のほうで自分の固い殻から出てこない……とか、あるいは逆に、親御さんがアルコール中毒その他の問題を抱えていて、子供さんのほうが助けようとしても、向こうからひたすら迷惑をかけさせられ続けるだけなので、最近はもう縁を切ろうと考えている――などなど、「時」というタイミングが難しかったり、色々あると思うんですよね(^^;)
けれども、もしお互いに敵意を捨てて、和解への一歩を踏み出すなら、わたしたちが辛抱強く祈り続けて、そのことをイエスさまに願うなら、少なくとも「何も変わらない」ということだけはない気がします。ただ、時間が止まったように「いつまでこんな状態が続くのだろう」といったような絶望感、そのことに一体いつまで耐えればいいのだろう……といった、忍耐の時間が長く許されるということは当然あるにしても。
たとえば、あるひとつの事柄について十年祈っていて、そこに足して十年と二十五日さらに祈っている方というのは、すでにもう「来年の今くらいには事態が変わっているはずだ」と果たして希望を持って考えるだろうか――といったことにも通じる問題ですが、同じようにすでに十年引きこもってる方が、その後二十六日後に突然人格が変わって家族とも良好な関係を築きはじめるとかって、どう考えてもなさそうな気がしませんか?(^^;)
それぞれ人によって悩みや苦しみは違うとは思いますが、もしも家庭・学校・職場などで「お互いに敵意を捨て、和解へ至る」という目標を立てるのであれば、仮に実際にそう出来なくとも、「そう出来るのが理想ではあるよなあ
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またその時、その家族の誰かが理解しなくとも、「イエスさまがお父さん、お母さん、お姉さん、お兄ちゃん、妹、弟さん……の間にある心の隔ての壁を壊してくださるように」と祈る、あるいは祈りあうことが出来るだけでも、確実に何かが違うのではないでしょうか。
「すべての人が一致し、和解へと至る人間関係」、「お互いに仕えあう人間関係」というのがキリスト教における人間関係の理想と思いますが、実際にはクリスチャンの人々の間でもこの領域についてはいつでもうまくいっているわけではありません(もしうまくいっていたなら、戦争はなく、世界は今以上に平和だったはずですから)。
また、ノンクリスチャンの方におかれましては、「ふう~ん。キリスト教徒の人はそういうふうに考えるのか」といった、参考にしていただければと思ったり(^^;)
それではまた~!!
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