神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

本来の人間性の回復。

2017年12月26日 | キリスト教


 イエスさまのことを教会で信じ受け容れた時に何が起きるかというと、イエスさまの流してくださった十字架の血潮の力によってすべての罪が赦されるということと、天国へ行けるということが、聖霊さまによって証印される……ということだと思います。

 それと同時に、罪がすべて赦されるということによって――「本来の人間性の回復」ということが起きると思うんですよね(^^;)


 >>見よ。主の御手が短くて救えないのではない。
 その耳が遠くて、聞こえないのではない。
 あなたの咎が、
 あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、
 あなたがたの罪が御顔を隠させ、
 聞いてくださらないようにしたのだ。

(イザヤ書、第59章1~2節)


 >>神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。

 これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。

(使徒の働き、第17章26~27節)


 神さまがもしわたしたち人間ひとりびとりと遠く離れておられないのだとしたら、何故わたしたちの苦しみや悲しみの訴えが即座に聞かれるでもなく、放っておかれているように感じられるかといえば……わたしの罪が神さまとの間のしきりになっているから、それが取り除かれる必要があった、という、教義上はそうしたことになるかもしれません。

 けれども、イエスさまが十字架上でわたしたち人類すべての罪を贖ってくださったことにより、この仕切りが完全に取り除かれ、ただイエスさまの御名とイエスさまの十字架の御業を信じる者には、無償で天国へ行ける恵みと、犯したすべての罪が赦されるという恵みが、どんな人にも等しく与えられるということになりました。

 おそらく、理屈だけでこう聞かされても、「なんでそうなるねん?」とか「一応話としてそう言われても、そんなこと信じられへん!」と感じられる方は多いのではないでしょうか(^^;)

 それでも、わたしたちが「オギャー!」と生まれてからのち、蓄積してきた罪の連なりがやがてわたしたちの人間性を歪めていく……という、この点については理解される方、きっと多いと思います。

 もちろん、この世界には色々な苦しみや悲しみの形態があって、本人が何か悪いことをしたからとか、その人の罪でもないことで何故こんな苦しみや悲しみが与えられるのか――といったことが、数え切れないほどたくさんあるとは思うのです。

 でも、わたし個人に関していえば、やっぱり自分の罪ゆえに苦しむというか、そうした側面のほうが大きかったように思いますし、努力すべき時に適切な努力を怠ったからこそ今こうした目にあっている……といったことが生じた場合、言い訳する方は多いのではないでしょうか。

 わたし自身もまた「その時はこういった事情があってやな……」とか、「努力しないで怠けとったわけでもないのにこういう目にあった」とか、「努力したくても出来ないのは何故かといえば、こういう理由があんねん!」とか、神さまに対してというか、自分に与えられた運命のようなものについて、文句いいたいことは、それこそたくさんあるような気がします。

 でも本当に大切なのは、神さまはそんなこともすべてご存知であられ、その上で赦してくださっているということなんですよね(^^;)

 これはわたしの経験とはちょっと違うんですけど、たとえば、家に引きこもって親に暴力を振るうとか、あるいはちょっと非行に走っていて、たまに家に帰ってきたかと思えば、親からお金を巻きあげていくとか……仮にその子が「うち(俺)がこうなったんは、おまえ(親)のせいや!」と言ったりした場合――たぶん(これはわたしが思うに、ということですけど)、その親御さんの心の中には「本当はこの子はこういう子やないのに、何故今こうなっとるんやろう」という思いがあると思うんですよね。

 でもこれ、たぶん娘さんや息子さんのほうでもまったく同じなんじゃないかなっていう気がしたり(^^;)

「本当はわたし(俺)はこんな人間やない。親に感謝の気持ちを持っとるところもあるし、それなのになんでこないなことになっとるんやろう」というか。

 これはキリスト教だけでなく、仏教などでもそうかもしれませんが、宗教にはこうしたある種の人生上で起きてしまった歪みのようなものを「真っ直ぐにさせる」力があるように思います。


 >>そのころ、バプテスマのヨハネが現われ、ユダヤの荒野で教えを宣べて、言った。

「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」

 この人は預言者イザヤによって、

「荒野で叫ぶ者の声がする。

『主の道を用意し、
 主の通られる道をまっすぐにせよ』」

 と言われたその人である。

(マタイの福音書、第3章1~3節)


 これはイエスさまが宣教を開始される以前に、イエスさまの道を整えたバプテスマのヨハネの言った言葉ですが、『主の通られる道をまっすぐにせよ』……というのは、人は人生でどうしてもまっすぐな道を歩いていくというよりも、右より左の道をいったほうが楽そうだなとか、あるいは人生上の快楽的なことに惑わされ、行ってはいけない道へと迷いこみ、最後はどうしたらいいかわからない行き止まりに当たったりと、そんなことを繰り返してばかりいる――ということが、結構あるということなのではないでしょうか。

 けれども聖書に、「これが道だ。これに歩め」(イザヤ書、第30章21節)とあるとおり、この人生の曲がりに曲がって歪んでしまった道からの回復が、イエスさまのことを教会で主と認めた時に起きるという、罪の赦しと同時に起きることというのは、そうしたことだと思うんですよね。

 もちろん、わたしたちがイエスさまのことを信じたあとも、わたしたちは罪人ですから、せっかく一度人生の曲がりくねった道をイエスさまがまっすぐにしてくださってこれからは歩きやすいようにしてくださったのに、またも未信者であった頃のようにどろ沼が先に待っている道へと迷いこんだ……といったことは起きてくるかもしれません。

 でも、ノンクリスチャンの方もよく聞いたことがあるように、そんな時にもイエスさまは悔い改めるなら何度でも赦してくださるのです。そして、胸のあたりか、首のあたりか、それとも頭まですっぽり沼に沈んであとは死ぬのを待つだけ……といった状況からでも、わたしたちの罪を赦し、救ってくださるということ、これが他でもないイエスさまが十字架の血潮によってなしてくださることだと思います。

 これから新年を迎えるにあたって、「今年こそは」、「来年こそは」と神社などに賽銭を投げてお祈りされる方は多いかもしれません。けれども、それはある意味習慣的なことであって、「本当に神に祈る」とか「自分を変えたい」という時には、(わたしの経験から照らし合わせてみるに)ほとんど効果のないことではないかという気がします(^^;)


 >>この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。

(ローマ人への手紙、第12章2節)


 わたし自身としては、この聖書の御言葉を心に留めて、今年は新しい年の歩みをしようかな~と思っているところだったりします(^^;)

 それではまた~!!





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