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【天使とバラム】グスタフ・イェーガー
>>朝になると、バラムは起きて、彼のろばに鞍をつけ、モアブのつかさたちといっしょに出かけた。
しかし、彼が出かけると、神の怒りが燃え上がり、主の使いが彼に敵対して道に立ちふさがった。バラムはろばに乗っており、ふたりの若者がそばにいた。
ろばは主の使いが抜き身の剣を手に持って道に立ちふさがっているのを見たので、ろばは道からそれて畑の中に行った。そこでバラムはろばを打って道に戻そうとした。
しかし主の使いは、両側に石垣のあるぶどう畑の間の狭い道に立っていた。
ろばは主の使いを見て、石垣に身を押しつけ、バラムの足を石垣に押しつけたので、彼はまた、ろばを打った。
主の使いは、さらに進んで、右にも左にもよける余裕のない狭い所に立った。
ろばは、主の使いを見て、バラムを背にしたまま、うずくまってしまった。そこでバラムは怒りを燃やして、杖でろばを打った。
すると、主はろばの口を開かれたので、ろばがバラムに言った。
「私があなたに何をしたというのですか。私を三度も打つとは」
バラムはろばに言った。
「おまえが私をばかにしたからだ。もし私の手に剣があれば、今、おまえを殺してしまうところだ」
ろばはバラムに言った。
「私は、あなたがきょうのこの日まで、ずっと乗ってこられたあなたのろばではありませんか。私が、かつて、あなたにこんなことをしたことがあったでしょうか」
彼は答えた。
「いや、なかった」
そのとき、主がバラムの目のおおいを除かれたので、彼は主の使いが抜き身の剣を手に持って道に立ちふさがっているのを見た。彼はひざまずき、伏し拝んだ。
主の使いは彼に言った。
「なぜ、あなたは、あなたのろばを三度も打ったのか。敵対して出て来たのはわたしだったのだ。あなたの道がわたしとは反対に向いていたからだ。
ろばはわたしを見て、三度もわたしから身を巡らしたのだ。もしかして、ろばがわたしから身を巡らしていなかったなら、わたしは今はもう、あなたを殺しており、ろばを生かしておいたことだろう」
バラムは主の使いに申し上げた。
「私は罪を犯しました。私はあなたが私をとどめようと道に立ちふさがっておられたのを知りませんでした。今、もし、あなたのお気に召さなければ、私は引き返します」
主の使いはバラムに言った。
「この人たちといっしょに行け。だが、わたしがあなたに告げることばだけを告げよ」
そこでバラムはバラクのつかさたちといっしょに行った。
(民数記、第22章21~35節)
ええと、今回はちょっと記事として、そんなに深い意味もなく……ただ、聖書の中の好きなエピソードのひとつとして、ちょっと上げてみました(^^;)
ただ、わたし的にこのバラムさんのエピソードは結構胸が痛むところがあったり。。。
いえ、神さまが祈りの中で聖霊さまを通して語ってくださっていても、それが自分にとって都合の悪いことだと、垂れ耳の犬みたいにピタッ☆と耳を閉じるということがありまして
そういう時、それでも神さまが「左じゃなくて右に行きなさい。それがあなたのためだから」みたいなことがあると、このバラムさんとまったく似たことが起きる、ということがあります。
でも、そういうふうに強制された時には、自分でも薄々神さまの正しさについてはわかってますから、のちには感謝したりするわけですけど……それでもわたしの心があまりに頑なで、「いんや~、わだすは人間的な力でがんばるんだす!」みたいになってると、まあほんと、ロバが口を聞くという経験は流石にありませんけれども、そちらの道には行かないようにと神さまが道を塞いでくる――という経験は、クリスチャンの方なら必ず経験したことがあるのではないでしょうか(^^;)
でも本当に、そこまでして神さまが止めたのが何故かっていうのは、あとになってから、本当に痛いくらいわかるっていうことが多かったです、わたしの場合
>>わたしは、人間の綱、愛のきずなで
彼らを引いた。
わたしは彼らにとっては、
そのあごのくつこをはずす者のようになり、
優しくこれに食べさせてきた。
(ホセア書、第11章4節)
ところが、ですね。。。
ちょうど、旧約聖書のイスラエルの民が神さまに聞き従えなかった結果、バビロン捕囚にあったように……最初はせっかくくつこを外された状態で、幸せに過ごしていたにも関わらず、神さまに聞き従えないと、神さまがわたしたちを連れていきたい方角へ引っ張るために、くつこをかけられた不自由な状態に逆戻り――みたいなことが実際あったりするわけです(^^;)
これはちょうど、出エジプトしたイスラエルの民が神さまの御声に聞き従えなかった結果、四十年もの間荒野をさまよったということ……これが、せっかくくつこを外してもらった(=奴隷から解放された状態)にも関わらず、もう一度くびきの下に置かれたのと同じといっていいと思うんですよね。。。
しかもわたし、学習能力がないのか、神さまの語ってくださったことに聞き従えなくて、結構ロバの鳴いてることがその後も何度か(も?)あったり。。。
本当に、クリスチャンになってかなりになるのに、信仰ということに関しては、生涯かかっても学び尽くすっていうことがないな~と、つくづくそう思わされます(^^;)
それではまた~!!
>>朝になると、バラムは起きて、彼のろばに鞍をつけ、モアブのつかさたちといっしょに出かけた。
しかし、彼が出かけると、神の怒りが燃え上がり、主の使いが彼に敵対して道に立ちふさがった。バラムはろばに乗っており、ふたりの若者がそばにいた。
ろばは主の使いが抜き身の剣を手に持って道に立ちふさがっているのを見たので、ろばは道からそれて畑の中に行った。そこでバラムはろばを打って道に戻そうとした。
しかし主の使いは、両側に石垣のあるぶどう畑の間の狭い道に立っていた。
ろばは主の使いを見て、石垣に身を押しつけ、バラムの足を石垣に押しつけたので、彼はまた、ろばを打った。
主の使いは、さらに進んで、右にも左にもよける余裕のない狭い所に立った。
ろばは、主の使いを見て、バラムを背にしたまま、うずくまってしまった。そこでバラムは怒りを燃やして、杖でろばを打った。
すると、主はろばの口を開かれたので、ろばがバラムに言った。
「私があなたに何をしたというのですか。私を三度も打つとは」
バラムはろばに言った。
「おまえが私をばかにしたからだ。もし私の手に剣があれば、今、おまえを殺してしまうところだ」
ろばはバラムに言った。
「私は、あなたがきょうのこの日まで、ずっと乗ってこられたあなたのろばではありませんか。私が、かつて、あなたにこんなことをしたことがあったでしょうか」
彼は答えた。
「いや、なかった」
そのとき、主がバラムの目のおおいを除かれたので、彼は主の使いが抜き身の剣を手に持って道に立ちふさがっているのを見た。彼はひざまずき、伏し拝んだ。
主の使いは彼に言った。
「なぜ、あなたは、あなたのろばを三度も打ったのか。敵対して出て来たのはわたしだったのだ。あなたの道がわたしとは反対に向いていたからだ。
ろばはわたしを見て、三度もわたしから身を巡らしたのだ。もしかして、ろばがわたしから身を巡らしていなかったなら、わたしは今はもう、あなたを殺しており、ろばを生かしておいたことだろう」
バラムは主の使いに申し上げた。
「私は罪を犯しました。私はあなたが私をとどめようと道に立ちふさがっておられたのを知りませんでした。今、もし、あなたのお気に召さなければ、私は引き返します」
主の使いはバラムに言った。
「この人たちといっしょに行け。だが、わたしがあなたに告げることばだけを告げよ」
そこでバラムはバラクのつかさたちといっしょに行った。
(民数記、第22章21~35節)
ええと、今回はちょっと記事として、そんなに深い意味もなく……ただ、聖書の中の好きなエピソードのひとつとして、ちょっと上げてみました(^^;)
ただ、わたし的にこのバラムさんのエピソードは結構胸が痛むところがあったり。。。
いえ、神さまが祈りの中で聖霊さまを通して語ってくださっていても、それが自分にとって都合の悪いことだと、垂れ耳の犬みたいにピタッ☆と耳を閉じるということがありまして

そういう時、それでも神さまが「左じゃなくて右に行きなさい。それがあなたのためだから」みたいなことがあると、このバラムさんとまったく似たことが起きる、ということがあります。
でも、そういうふうに強制された時には、自分でも薄々神さまの正しさについてはわかってますから、のちには感謝したりするわけですけど……それでもわたしの心があまりに頑なで、「いんや~、わだすは人間的な力でがんばるんだす!」みたいになってると、まあほんと、ロバが口を聞くという経験は流石にありませんけれども、そちらの道には行かないようにと神さまが道を塞いでくる――という経験は、クリスチャンの方なら必ず経験したことがあるのではないでしょうか(^^;)
でも本当に、そこまでして神さまが止めたのが何故かっていうのは、あとになってから、本当に痛いくらいわかるっていうことが多かったです、わたしの場合

>>わたしは、人間の綱、愛のきずなで
彼らを引いた。
わたしは彼らにとっては、
そのあごのくつこをはずす者のようになり、
優しくこれに食べさせてきた。
(ホセア書、第11章4節)
ところが、ですね。。。
ちょうど、旧約聖書のイスラエルの民が神さまに聞き従えなかった結果、バビロン捕囚にあったように……最初はせっかくくつこを外された状態で、幸せに過ごしていたにも関わらず、神さまに聞き従えないと、神さまがわたしたちを連れていきたい方角へ引っ張るために、くつこをかけられた不自由な状態に逆戻り――みたいなことが実際あったりするわけです(^^;)
これはちょうど、出エジプトしたイスラエルの民が神さまの御声に聞き従えなかった結果、四十年もの間荒野をさまよったということ……これが、せっかくくつこを外してもらった(=奴隷から解放された状態)にも関わらず、もう一度くびきの下に置かれたのと同じといっていいと思うんですよね。。。
しかもわたし、学習能力がないのか、神さまの語ってくださったことに聞き従えなくて、結構ロバの鳴いてることがその後も何度か(も?)あったり。。。
本当に、クリスチャンになってかなりになるのに、信仰ということに関しては、生涯かかっても学び尽くすっていうことがないな~と、つくづくそう思わされます(^^;)
それではまた~!!
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