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感想を書くのが非常に難しい映画と思います
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クリスチャンでない方が見た場合、問題になるのは頚椎損傷を負った女性の尊厳死の問題であって、キリスト教徒が見た場合には「あるケースにおいては自殺を容認するのもやむをえない」というギリギリの部分を描いている……という部分が問題となってくる――そうした映画のような気がします。
有名な映画と思いますので、今回はあらすじ等飛ばしたいと思うのですが、わたしも見る前から一応、大体ストーリーのほうは知っていました。深夜の映画紹介で見た時からすでに「賛否ある」ということも聞いていたので、タイトル通り、ボクサーとして大金を稼いだものの、最後は試合で受けた怪我によって植物状態になるか、脊髄損傷などによって首から下が動かないといったことによって……クリント・イーストウッド演じる主人公が人工呼吸器を止めるか何かするという映画なんだろうなと、予告のほうをテレビで見た時から思っていました。
なので、自分的にあまり見る必要性をその時感じなかったのですが、今回何故見たのかというと、たまたまアマプラで無料で見られるのは間近……みたいに表示されてたからなんですよね(^^;)
まず、割と最初のほうで、ボクシングジムを経営しているフランキー(クリント・イーストウッド)が、カトリック教会の神父さんに三位一体のことについて聞く場面があります。なので、おそらくは最後にフランキーによる自殺幇助の場面があることから――彼は長くずっと教会に通い続けてはいるけれども、聖霊を受けたクリスチャンではない、ということがはっきり描かれているわけです。
ええと、何故そうとわかるかといえば、その方が通っている教会によっては、信じたそのあとも「三位一体がわからない」とか、「聖霊ってようするになんだ?
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なんにしても、おそらく製作スタッフさんのほうでは、キリスト教団体からの攻撃といったことも最初から想定しているため、割と最初のほうに「フランキーは聖霊を受けていない」ということがはっきり描かれているのかなって思いました。
それで、少しキリスト教の思想からは離れますが、フランキーがボクサーとして鍛えることになるマギー(ヒラリー・スワンク)は、フランキーのジムへやって来た時三十歳で、フランキーは最初はマギーのことを引き受けるつもりがなかったものの、マギーはその後もずっとボクシングジムへ通い続け……あるきっかけからふたりはタッグを組むことになるわけですが、マギーは一年半とかそのくらいで凄く強くなって、次々相手のボクサーをバッタバッタと倒してゆきます。
いえ、特にこのあたりも全然映画の描写として嘘くさくなく、むしろ「マギー、がんばれ!!
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そしてこの時、フランキーが、マギーを座って休ませるための椅子を出したところだったため――マギーはその上に頭を直撃してしまい……第一頚骨と第二頚骨を損傷したことにより、動けなくなってしまうのでした。。。
目が覚めたあと、自分がどうなったかを知るマギーでしたが、フランキーも医者の診断が間違いであって欲しいと願っていたのでしょう。また、最低あと何人かの医師にでも診てもらわない限り納得できないのも当然のことで、すぐには「もう一生首から下は動かない」といったようにはマギーに告げませんでした。けれども、お医者さんの話していることを聞いてしまい、マギーは「そういうことなのだ」と悟ります。
また、ミリオンダラー・ベイビーには元になった小説があるそうなので、そちらにはどう書いてあるかわからないものの……褥瘡が出来て片足を切り落とすことになってしまったことは、マギーにとって相当ショックなことだったと思うんですよね。
これほどの過酷な事態と直面していながら、とても前向きに見える健気なマギーでしたが、これはわたしが思うに、ということなんですけど、「足が両方揃ってさえいれば、またいつかボクシングが出来るかもしれない」――という希望が、心のどこかにあったんじゃないかと思うわけです。
あと、映画の本筋とはあまり関係ないことかもしれないんですけど、あんなに褥瘡がひどくなるまで放っておく病院はないと思うんですよね。演出上仕方ないのかもしれませんが、マギーはベッドの上でずっと天井を見る姿勢でいます。でも本当は、褥瘡が出来ないために、背中に細長い枕を入れたりとか、足の下や手や腕の下あたりにも適度に枕を入れて体位交換するのが普通と思うわけです。なので、褥瘡が出来て片足を切り落とすことにさえならなければ、マギーは生きることにまだ前向きだったかもしれないと思うと……ちょっとこの点は医療ミスにも近いように感じられて(介護の基本中の基本として、十分防ぎようのあることなので)、自分的には微妙な気持ちになるエピソードでした。。。
とはいえ、褥瘡が出来たことで、フランキーがマギーの体を清拭しようとする姿は血の繋がりはなくても親子のようで、すごくいいエピソードと思いました
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そして、マギーの家族っていうのが、貧しい家庭なわけですが、娘が大金稼いで送金してくれたことで、「マギーの頚椎損傷なんてどうでもいいけど、金だけおくれ
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ボクシングで有名になっても、家族は本当の意味では一切そのことの価値を認めてくれず、とても孤独なマギー。「ボクサーという生き物のことは、ボクサーにしかわからない」という部分があるのでしょうが、とにかくマギーは目標を定めたあとの集中力が物凄く、この部分が彼女にとって大きな才能だったのだと思います。ウェイトレスとして働き、アパートの狭い部屋に暮らしていても――ボクシングが出来ればマギーは幸せだったのだと思う。
でも、その目標めがけて一直線に走るひたむきさは、彼女が「死にたい」と思った時に、確実に絶対に死ぬというほどの頑なさによって実行されてしまう。フランキーにそうと頼んでも、「出来ない」と断られてしまったマギーは、舌を噛み切って死のうとします。
どうにかギリギリのところで一命をとりとめるマギーでしたが、フランキーはこれ以上そんな彼女のことを見ていられなかったのだと思います。人工呼吸器を外し、その後アドレナリンをマギーの点滴の管に注入し、そのまま姿を消すフランキー。
映画のほうは残り、少しばかりエピローグがモーガン・フリーマン演じる元ボクサーのエディに語られて終わりますが、フランキーはマギーのことで、いつも通っているカトリック教会の例の神父さんに相談していました。するとこの神父さんは、最後にはとうとう「神のことも天国も地獄も忘れろ。とにかく、そんなことをすればあなたは自分を見失って闇へ落ちてしまう」と助言するんですよね。
これは、「神父がそんなこと言うか?
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ところが、マギーがほとんど血の繋がらぬ娘のようになり(モ・クシュラとは、わたしの血肉といった意味)、ケイティよりもマギーのほうこそが、我が血肉の血肉というくらい、ボクシングを通した深い絆によって魂がしっかりと結ばれていた。このことは、フランキーにとって心の癒しとなり、父親をすでに亡くしているマギーにとってもそうだった。ところが、フランキーがマギーのことでどん底を経験していた頃、実の娘のケイティから初めて返事が来る。けれど、その手紙すらも、マギーを自分の手で静かに眠らせてやったほうがいいという彼の決意を変えさせることは出来なかった。
それで、最後のシーンが謎めいていて、マギーとフランキーがドライブして出かけた美味しいレモンパイを一緒に食べたお店に、フランキーがいるところが映って映画のほうは終わります。
これは、映画の中に出てくるイェーツのイニスフリーという詩と関係があって、映画の字幕にある訳文だけ見るとわかりにくいのですが、たぶんイェーツの詩の中でも最も有名なもののような気がするので、少し検索すると訳してる方のページがいくつも出てくるかと思います。
イニスフリーというのは、架空の美しい理想の島のような場所で、言ってみれば、「(キリスト教の)神の教える天国でない、死後の理想郷」といっても、この場合は解釈として間違いでないと思うんですよね。つまり、世界にはキリスト教の天国以外の天国を信じていたり、この地上でどの神のことも信じてはいないけれども、言ってみれば、思想として繋げていえば、聖霊は信じているわけではないけれども、精霊は信じている……といった場合があったりするわけです。
そして、イェーツはアイルランドの詩人ですから、アイルランドといえばやっぱり妖精(精霊)ですよね。そして、そうした妖精(精霊)たちの物語には、常若の国と呼ばれる理想郷のような場所が出てきたりします。つまり、そこでは人は永遠に老いることなく生き続けられるような素晴らしいところだと言い伝えられているような場所が。
=キリスト教の神を信じられない人にとっては、そんな死後の理想郷のような場所があってもいいじゃないか……という、これはわたしの個人的な映画を見た感想ですが、フランキーが美味しいレモンパイの店にいたということは、今は同じ場所にマギーもいるということを意味しているような気がします。つまり、マギーのあとを追うようにしてフランキーは自殺したのではないかと、そう読み取る方はおそらく多いと思う、というか。
このあたりの、自殺に対するある場合においては許されてもいいんじゃないか、仕方ないのではないかという部分が、キリスト教団体や障がい者の方の団体などから批判を受けた点なのではないかと、自分的にはそんなふうに思いました。
もちろん、映画としては素晴らしいのですが、見た方によっては「それまで明るい気持ちでいたのに一気に暗くなった
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それではまた~!!
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