
【死と眠り】イヴリン・ド・モーガン
ええと、今回は前回の続きとして、スピリチュアルペインということについてなんですけど……ここはまあ、キリスト教について何か書くといった主旨のブログとはいえ、ある程度「中立」というか、そういう立場を今回は取りたいと思っています(^^;)
つまり、イエス・キリストの十字架の血潮の力を信じて、キリスト教徒、クリスチャンになるのが人生における最善の出来事である……といったことは、わたし個人の宗教観ですので、がんなどの病いによって終末期を迎えた方にとって何が「救い」となりうるかっていうのは、人それぞれ異なると思うんですよね。
仏教の思想が救いになる方もいれば、あるいはイスラム教、もちろんわたしと同じようにそれがキリスト教である方もいらっしゃるでしょうし、他にただ転生、生まれ変わりといったことを信じることが救いになる方もいると思います。
「死生観」というのは当然個人差のあるもので、よくメメント・モリ(死を想え)と言いますけれども、この部分が哲学の本などを読み耽り、若い時から思想の深い方もいれば、がんなど、自分の生が極めて脅かされる事態になって初めて突然「死」を意識し、パニックになるといった方まで……色々だと思います。
わたし「死ぬ」とか「死」ということについては若い時からすごく考えてきました。でも、その過程で「自分と人とは死生観が相当違う」ということは、何度か感じたことがあったかもしれません。
これはテレビで見たことなんですけど、ある不治の病いにかかった方が、「死ぬことは怖くない。でも、死んだあとに誰にも覚えてもらえない、忘れ去られてしまうということはすなわち<無>だ。それはとても恐ろしいことだと思った」とおっしゃっているのを聞いて……すごくびっくりしたんですよね
なんでかっていうと、わたし自身は「死んだあとは無でもよい」とずっと思ってきましたし(あ、ちなみにキリスト教徒になる前まではっていうことですよ?^^;)、死んでしまえば、あんまり人に覚えられるとかなんとか、そんなこと自分にはわからなくなるわけですから、かなりどーでもいいことだなって思うところがあって……でも、この方はとてもすごい方で、わたしも番組を見てとても感動したんですけど、このあと御自身の名を大きく残すような事業を興してそれが成功したという、とても素晴らしい方でした(この番組を見て、わたしと同じように「生きる勇気をもらった」という方はとても多いと思います
)。
わたし自身が怖いのはあくまでも<死>そのものではなく……その<死>に至るまでにどの程度の苦痛があるかっていう、この部分だけかもしれません。だから、がんになった時、発見が遅くてもう手遅れだったりしたら、もう出来るだけモルヒネ使ってもらって楽に死にたい……とか思ってる感じです(実際はこのモルヒネにも副作用があって、そんな夢のように楽に死ねるだとかは思ってないのですが
)。
他に、わたしが一般的に聞く話としてそれなりに多いのが、「たまに死を思う」、「ぽっくり死にたい」、「寝ている間に死ねたらどんなにいいか」……といった類の話でしょうか(^^;)
もちろん、ある程度の年齢になったら(あるいは若くても)「ぽっくり死にたい」というのは誰もが思うことですが、「寝ている間に死ねたらどんなに楽か」というのも大体同じ意味であり、これは何も生活に悩みがなさそうに見える人や、一見幸福そうに見える人の多くがこんなことを頭の片隅では思いながら毎日を生きている……ということなのではないでしょうか。
なんていうか、昔、わたしの母もたまに「寝ている間にぽっくり死にたい」と言ってたことがありましたが、大体他の方も同じようなことってみんな思ってるんですよ。結婚してるとか、子供がいるとか、勤めてる会社のほうも順調だとか、悩みの大小関係なく、ただ「生きている」ってそれだけでとても大変なことですから、そうした煩わしい一切から逃れて、明日はもう目を覚ましたくない……このままぽっくり死ねたらどんなにいいかっていうのは、大体みんな心の片隅ではそんなふうに思ってることが多いっていうことですよね。
もちろん、人生上の悩みが大きく深いものであればあるほど、「このまま目を覚まさずに死にたい」といった願望はより大きくなるとは思うんですけど(わたしも昔そうでした)、このことをわたしに話してくれた方のことで印象的だったのは「こんなふうに思うのは自分だけだ」みたいな口ぶりというか、雰囲気だったことかもしれません(^^;)
他に、この方とはまた別の方ですが、枕に頭をつけて眠ろうとすると、これまで自分がしてきた悪いことが色々思い浮かび、そこからはじまって死んだあと人はどうなるかを考えることがある、という方がいました。ええとですね、この方の性格からいって、この「悪いこと」っていうのは、殺人とか盗みといった法律に関わることではまったくなく、ただ、人の悪口とか噂話が大好きな人だったもんで、そうした種類のことであまりに心の痛むことが多い……といった意味の「悪いこと」という意味です。
まあ、わたしも話を聞いていて「質悪いなー、この人
」と思ったりはしたものの、こんなふうに罪悪感に悩むこともあると聞いて、ちょっと可愛いところもある人なんだな、みたいに思ったかもしれません。つまり、人というのは一見まるでそう見えなくてもやっぱり「良心」というものがあるんだなっていう、そういうことなんですけど(^^;)
それと、わたし自身は「生まれ変わり」とか「転生」って信じてないんですけど、これはわたしがキリスト教徒だからとか、実はまったく関係がなく……クリスチャンになる前、自殺したいと考えていた期間を通して、とにかく死んだら<無>、<闇>だと考えることが、わたしにとっては一番幸福なことでした。
もちろん、「え?そんなものが幸福?
」と思われる方もいると思うんですけど、わたしが自殺することを考えてたのは「自分自身を消したい」といった意味合いにおいてでしたし、やっぱりここで「いや、そうではない。自分は自分が確かに生きたという証を残すんだ。いや、残してやる
」と思える方というのは、本当に強い方、生きる力の強い方ではないかなと思います。
それはさておき、死生観の違いということですが、「また生まれ変わる」ということが切実に迫った死に対する救いである方って本当にいらっしゃいます。それが五十年後か百年後かはわからないけれど、とにかく再びまたこの地球(あるいは宇宙のどこか)に生まれてくるということに対して「救い」を見る……わたし自身はまたもう一度この世界に生まれたいといった望みをまるで持たないんですけど(汗)、だからといってそう信じている方の気持ちを否定しようとはまるで思いません。
「スピリチュアルペイン」というのは、前回立花隆先生の文章を引用したように、
>>どういうことかというと、従来の緩和ケアが主として考えていたことは、もっぱら終末期患者の痛みをいかにおさえてやるかという身体的苦痛の取りのぞきでした。
しかし、がん患者の苦痛というのは、身体的苦痛(痛み)だけではありません。次頁図に見るように、身体的苦痛は患者の苦痛の一部でしかありません。身体的苦痛以外に、患者たちは、家庭の問題、仕事の問題、金銭的経済的サポートの問題等の社会的苦痛もかかえていれば、不安、不眠、うつ状態といった精神的・心理的苦痛もかかえているのです。
また、近い将来の自分の死すべき運命を考えるところから、自分の人生にどんな意味があったのだろうと悩んだり、あるいは迫りくる死の恐怖にどう耐えたらいいのか、死の向う側に神や仏のような絶対者がいるのだろうかと悩んだりするスピリチュアルペインもかかえています。
(『がん 生と死の謎に挑む』立花隆著NHKスペシャル取材班/文藝春秋刊より)
その……わたしも、ずっと死にたいと思い、自殺することばかり考えていた頃とは違って、今はこの「死」といったことが少し離れたところに見えているわけですけれども、何かの病気や事故に遭ったりした場合、その「死」というものが再びグッと迫ってくることになると思うんですよね。
今度は自分の意志によって「死にたい」というのではなく、がんなどの病気によって「死」というものが避けられないものになったとしたら……それは本当にその時、その瞬間になってみないとそうした「心情」といったものは自分でも今の段階では想像できません。
ただ、今はもうキリスト教徒、クリスチャンになって長いですから、「イエス・キリストを真実信じる者はみな天国へ行ける」という信仰によって、昔考えていたような「死んだあとは<無>だ。そしてそれこそが救いだ」といった考えからはすっかり解放されています(^^;)
つまり、「迫り来る死の恐怖」にひとりで耐えなくていいというか、そういう部分に物凄く支えがあるわけです。これまでもずっと長く祈ってきたわけですし、正直、「がんになるより、生きていてもっと不幸なことはある」といったように感じたこともありましたし、だから、「あんなにわたしは毎日祈っていたじゃあーりませんか!それなのに神よ~、この仕打ちはどういうことかー、うがー!!
」みたいにはならないような気がしてます
でも、人の死生観というのは本当に様々で、実際に具体的にがんなどの病気になるまで、「死についてなんてそんなに考えたことなかった。だから今どうしていいのか本当にわからない
」という方もいらっしゃると思うんですよね。
キリスト教界でも、「まずもって神仏など信じそうもない方」が、がんなどの病気によって入院された場合……イエスさまのことを伝えたら、何故かすぐに信じてくれた……ということがあると思うんですけど、これ、物凄くよくわかります。それがどのような神でも死の床にある際には縋りたい……といった心情もあるでしょうし、こういう時って聖書的な言い方をするとしたら、本当に人間性が神の前に砕かれて謙遜に低くなる、というところがあって、人の思いやりとか愛情といったものが普段以上にしみいるというか、そういうところがあります
だから、相手から善意で「イエスさまを信じたら、ただ信じるだけで天国へ行けるんです」と心をこめて言われると、聖霊さまの働きということもあるでしょうけれども、普通なら信じそうもない方がスッと信じるというか、そういうところがあるのだと思います。
ええと、今回も文章長くなってしまったので(汗)、次回はこのスピリチュアルペインといったことと同時に、「代替医療」のことについて何か書いてみたいと思っています(^^;)
それではまた~!!
ええと、今回は前回の続きとして、スピリチュアルペインということについてなんですけど……ここはまあ、キリスト教について何か書くといった主旨のブログとはいえ、ある程度「中立」というか、そういう立場を今回は取りたいと思っています(^^;)
つまり、イエス・キリストの十字架の血潮の力を信じて、キリスト教徒、クリスチャンになるのが人生における最善の出来事である……といったことは、わたし個人の宗教観ですので、がんなどの病いによって終末期を迎えた方にとって何が「救い」となりうるかっていうのは、人それぞれ異なると思うんですよね。
仏教の思想が救いになる方もいれば、あるいはイスラム教、もちろんわたしと同じようにそれがキリスト教である方もいらっしゃるでしょうし、他にただ転生、生まれ変わりといったことを信じることが救いになる方もいると思います。
「死生観」というのは当然個人差のあるもので、よくメメント・モリ(死を想え)と言いますけれども、この部分が哲学の本などを読み耽り、若い時から思想の深い方もいれば、がんなど、自分の生が極めて脅かされる事態になって初めて突然「死」を意識し、パニックになるといった方まで……色々だと思います。
わたし「死ぬ」とか「死」ということについては若い時からすごく考えてきました。でも、その過程で「自分と人とは死生観が相当違う」ということは、何度か感じたことがあったかもしれません。
これはテレビで見たことなんですけど、ある不治の病いにかかった方が、「死ぬことは怖くない。でも、死んだあとに誰にも覚えてもらえない、忘れ去られてしまうということはすなわち<無>だ。それはとても恐ろしいことだと思った」とおっしゃっているのを聞いて……すごくびっくりしたんですよね

なんでかっていうと、わたし自身は「死んだあとは無でもよい」とずっと思ってきましたし(あ、ちなみにキリスト教徒になる前まではっていうことですよ?^^;)、死んでしまえば、あんまり人に覚えられるとかなんとか、そんなこと自分にはわからなくなるわけですから、かなりどーでもいいことだなって思うところがあって……でも、この方はとてもすごい方で、わたしも番組を見てとても感動したんですけど、このあと御自身の名を大きく残すような事業を興してそれが成功したという、とても素晴らしい方でした(この番組を見て、わたしと同じように「生きる勇気をもらった」という方はとても多いと思います

わたし自身が怖いのはあくまでも<死>そのものではなく……その<死>に至るまでにどの程度の苦痛があるかっていう、この部分だけかもしれません。だから、がんになった時、発見が遅くてもう手遅れだったりしたら、もう出来るだけモルヒネ使ってもらって楽に死にたい……とか思ってる感じです(実際はこのモルヒネにも副作用があって、そんな夢のように楽に死ねるだとかは思ってないのですが

他に、わたしが一般的に聞く話としてそれなりに多いのが、「たまに死を思う」、「ぽっくり死にたい」、「寝ている間に死ねたらどんなにいいか」……といった類の話でしょうか(^^;)
もちろん、ある程度の年齢になったら(あるいは若くても)「ぽっくり死にたい」というのは誰もが思うことですが、「寝ている間に死ねたらどんなに楽か」というのも大体同じ意味であり、これは何も生活に悩みがなさそうに見える人や、一見幸福そうに見える人の多くがこんなことを頭の片隅では思いながら毎日を生きている……ということなのではないでしょうか。
なんていうか、昔、わたしの母もたまに「寝ている間にぽっくり死にたい」と言ってたことがありましたが、大体他の方も同じようなことってみんな思ってるんですよ。結婚してるとか、子供がいるとか、勤めてる会社のほうも順調だとか、悩みの大小関係なく、ただ「生きている」ってそれだけでとても大変なことですから、そうした煩わしい一切から逃れて、明日はもう目を覚ましたくない……このままぽっくり死ねたらどんなにいいかっていうのは、大体みんな心の片隅ではそんなふうに思ってることが多いっていうことですよね。
もちろん、人生上の悩みが大きく深いものであればあるほど、「このまま目を覚まさずに死にたい」といった願望はより大きくなるとは思うんですけど(わたしも昔そうでした)、このことをわたしに話してくれた方のことで印象的だったのは「こんなふうに思うのは自分だけだ」みたいな口ぶりというか、雰囲気だったことかもしれません(^^;)
他に、この方とはまた別の方ですが、枕に頭をつけて眠ろうとすると、これまで自分がしてきた悪いことが色々思い浮かび、そこからはじまって死んだあと人はどうなるかを考えることがある、という方がいました。ええとですね、この方の性格からいって、この「悪いこと」っていうのは、殺人とか盗みといった法律に関わることではまったくなく、ただ、人の悪口とか噂話が大好きな人だったもんで、そうした種類のことであまりに心の痛むことが多い……といった意味の「悪いこと」という意味です。
まあ、わたしも話を聞いていて「質悪いなー、この人

それと、わたし自身は「生まれ変わり」とか「転生」って信じてないんですけど、これはわたしがキリスト教徒だからとか、実はまったく関係がなく……クリスチャンになる前、自殺したいと考えていた期間を通して、とにかく死んだら<無>、<闇>だと考えることが、わたしにとっては一番幸福なことでした。
もちろん、「え?そんなものが幸福?


それはさておき、死生観の違いということですが、「また生まれ変わる」ということが切実に迫った死に対する救いである方って本当にいらっしゃいます。それが五十年後か百年後かはわからないけれど、とにかく再びまたこの地球(あるいは宇宙のどこか)に生まれてくるということに対して「救い」を見る……わたし自身はまたもう一度この世界に生まれたいといった望みをまるで持たないんですけど(汗)、だからといってそう信じている方の気持ちを否定しようとはまるで思いません。
「スピリチュアルペイン」というのは、前回立花隆先生の文章を引用したように、
>>どういうことかというと、従来の緩和ケアが主として考えていたことは、もっぱら終末期患者の痛みをいかにおさえてやるかという身体的苦痛の取りのぞきでした。
しかし、がん患者の苦痛というのは、身体的苦痛(痛み)だけではありません。次頁図に見るように、身体的苦痛は患者の苦痛の一部でしかありません。身体的苦痛以外に、患者たちは、家庭の問題、仕事の問題、金銭的経済的サポートの問題等の社会的苦痛もかかえていれば、不安、不眠、うつ状態といった精神的・心理的苦痛もかかえているのです。
また、近い将来の自分の死すべき運命を考えるところから、自分の人生にどんな意味があったのだろうと悩んだり、あるいは迫りくる死の恐怖にどう耐えたらいいのか、死の向う側に神や仏のような絶対者がいるのだろうかと悩んだりするスピリチュアルペインもかかえています。
(『がん 生と死の謎に挑む』立花隆著NHKスペシャル取材班/文藝春秋刊より)
その……わたしも、ずっと死にたいと思い、自殺することばかり考えていた頃とは違って、今はこの「死」といったことが少し離れたところに見えているわけですけれども、何かの病気や事故に遭ったりした場合、その「死」というものが再びグッと迫ってくることになると思うんですよね。
今度は自分の意志によって「死にたい」というのではなく、がんなどの病気によって「死」というものが避けられないものになったとしたら……それは本当にその時、その瞬間になってみないとそうした「心情」といったものは自分でも今の段階では想像できません。
ただ、今はもうキリスト教徒、クリスチャンになって長いですから、「イエス・キリストを真実信じる者はみな天国へ行ける」という信仰によって、昔考えていたような「死んだあとは<無>だ。そしてそれこそが救いだ」といった考えからはすっかり解放されています(^^;)
つまり、「迫り来る死の恐怖」にひとりで耐えなくていいというか、そういう部分に物凄く支えがあるわけです。これまでもずっと長く祈ってきたわけですし、正直、「がんになるより、生きていてもっと不幸なことはある」といったように感じたこともありましたし、だから、「あんなにわたしは毎日祈っていたじゃあーりませんか!それなのに神よ~、この仕打ちはどういうことかー、うがー!!


でも、人の死生観というのは本当に様々で、実際に具体的にがんなどの病気になるまで、「死についてなんてそんなに考えたことなかった。だから今どうしていいのか本当にわからない

キリスト教界でも、「まずもって神仏など信じそうもない方」が、がんなどの病気によって入院された場合……イエスさまのことを伝えたら、何故かすぐに信じてくれた……ということがあると思うんですけど、これ、物凄くよくわかります。それがどのような神でも死の床にある際には縋りたい……といった心情もあるでしょうし、こういう時って聖書的な言い方をするとしたら、本当に人間性が神の前に砕かれて謙遜に低くなる、というところがあって、人の思いやりとか愛情といったものが普段以上にしみいるというか、そういうところがあります

だから、相手から善意で「イエスさまを信じたら、ただ信じるだけで天国へ行けるんです」と心をこめて言われると、聖霊さまの働きということもあるでしょうけれども、普通なら信じそうもない方がスッと信じるというか、そういうところがあるのだと思います。
ええと、今回も文章長くなってしまったので(汗)、次回はこのスピリチュアルペインといったことと同時に、「代替医療」のことについて何か書いてみたいと思っています(^^;)
それではまた~!!

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