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神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

意識の変容。

2021年02月17日 | キリスト教
【キリストの変容】ラファエロ・サンティ


 最近、エミリー・ディキンスンについての本を再読したのですが、彼女ほど<死>というものを厳粛な眼差しで眺め、詩として描いた人は他にいないのではないかと思います。

 簡単に約めていえば、エミリーが<死>という現象の中でもっとも気にしていたのが、「入滅の瞬間、その人の意識はどうなるのか」ということではないでしょうか。

 この「入滅」という言葉は、仏陀の死のことではなく、人が死ぬその瞬間、不滅に入ってゆく時、という意味であり、その時その瞬間、「わたしたちの意識はどのように変容するのか」ということについて、彼女はもっとも気にかけていたものと思われます。

 というのも、ディキンスンの生きた時代というのが、1830~1886年で、今以上によく人が死ぬ時代だったんですよね(^^;)また、彼女は南北戦争のあった時代を生きてもいるので、戦争で同じ町に住む若者が死ぬ、その他病気で若くして亡くなる友人・知人もあり、「何故あんなに善良な人々がこんな早く亡くならねばならないのか」……そうした禅問答に近い思考の過程で、いくつもの素晴らしい<死>に関連した詩が生まれていったのではないでしょうか。

 それで、ですね。わたし、この世界でたぶん、脳外科医さんほど、神さまを信じたりとか、死後に天国があるとか、そうしたことを信じるのが難しい職業の方はいらっしゃらないのではないか……と、漠然と思ったりしています。

 というのも、手術中に自分がちょっと正常な神経を傷つけてしまっただけで――足が動かなくなったりとか、後遺症に患者さんが悩む姿を直視しなくてはならないわけですし、その「脳の中を手術する」際に、この部分を傷つけてしまったら「意識が戻ってこない可能性がある(植物人間になる可能性がある)」といったように、わかっていらっしゃるわけですよね。。。

 それで、前にもどこかの記事で書いた気はするのですが、わたしが某脳外科病院で看護助手をしていた時、この意識が植物状態(遷延性意識障害)の患者さんが、結構いらっしゃいました。あ、手術の結果そうなったというより――交通事故で救急搬送されてきたとか、脳梗塞で倒れて……と、ケースについては様々ですので、やっぱり脳梗塞で倒れられ、かなり時間が経ってから運ばれてきた場合など、お医者さんは最善を尽くしたものの、結果としては植物状態に……っていうことがあるわけですよね。

 わたしが結果として教会へ行ってクリスチャンになったのは、実はこうしたことが関係しています。こうした植物状態の患者さんは、意識だけ天国へ行っているのか、それとも肉体が死なない限りその方の意識は天国へ行けないのかなど――べつに、キリスト教について色々知ったからといって、もちろん聖書に答えなんて書いてないだろうとは思っていました

 ただ、キリスト教でも仏教でもイスラム教でもいいですが、直感的に「これは宗教の力が必要だ」と思ったというのがあります。つまり、物言わぬ人々の介護を続けるのに、思想として宗教や哲学の力が必要なのではないかと思ったのです。もっとも、かといってわたし、キリスト教について色々調べようと思っていただけで、具体的に「クリスチャンになりたい」とは一切思っていませんでした。ただ「思想としてキリスト教はどのようなものか知りたい」、最初はただそれだけだったのです。

 このあたりのことについては、かなり前にも書いた気がするので端折りますが、脳外科医の先生であれば、おそらく大抵の方が「死んだら人はそれまでで、無の暗闇に溶けて終わり」と言いますか、そうしたことに近い死生観かもしれません。脳の中でわたしたちが毎日しているのは、恐ろしいばかりの電気信号のやりとりであり、言い方を変えたとすれば、その電気信号がすべて完全にやむと、人は死んだとみなされる――ということなのではないでしょうか。

 そもそも、いわゆる植物人間と呼ばれる状態が何故生まれたかというと、それは最近新型コロナウイルスでも何かと騒がれております、「人工呼吸器」が誕生して以降の問題だそうです。人工呼吸器が存在するようになる前までは、人は自力で呼吸できなくなったら、やがて必ず死ぬことが定められていた。ところが、この部分を機械が替わりに行なうことによって……たくさんの瀕死といっていい人々の命が助かり、社会復帰もされる一方、数多くの植物状態と言われる意識障害の人々が生まれる結果にもなった……といった文章を、以前何かの本で読んだ記憶があります。

 こうなるとますます、人が死ぬ瞬間、不滅へ意識が入っていく瞬間というのが、曖昧になってしまいますよね。ただ、その方の意識が「いつ」天国へ移行するのであるにせよ、死んだ瞬間にわたしたちの意識が切り替わり、それまで肉体の目で見ていたのが、今度は霊の目で物事全体を眺めるようになる――って、ありそうな気がするのは、わたしだけでしょうか?(^^;)

 わたし、臨死体験に関しての本を読もうと思っていて、まだ読めてないのですが(汗)、でも、死ぬ間際から戻ってきた方が、「天国=お花畑」といったように捉えていたり、その花というのがまた、大層美しいそうなんですよね。あとはとても美しい自然の中にいて、川とか虹とか、その向こうに行ったら自分は死んでいただろう……と、あとになってから回想されるとか。

 他に、聞いた話として結構怖かったのが、夢の中で窓の外に白い手があるのを見た。それで、それはすでに死んでる人の手だというのは、夢の中のその人にはわかってるわけです。でも、手だけしか見えてないのに、彼にはそれが「死んだお母さんの手だ」というのがわかっていたそうです。その方がその夢を見たのは、病気でお医者さんが「これが峠です」と言われた夜のことであり――そのあと、こうおっしゃってたんですよね。「あの手を取る前に自分は目が覚めてよかった。あの手を取っていたら、自分は死んでいたんじゃないかと思う」と……。

 まあ、臨死状態にある人の意識が「天国のように美しい自然」の中にいたりするのが、「天国のある証拠」とは言えず、それは人が死ぬという時、脳が防衛反応として快楽物質をたくさん出すからだ……とも、昔テレビか何かで聞いた覚えがあります。

「『おまえ、この間天国は絶対にある』みたいな記事、書いたばっかりじゃねえか」と思われそうですが、それは、なんと言いますか、「わたしの中では絶対にそうだ」とか、「クリスチャンの間ではそれが真実です」みたいなことなのですよ(^^;)

 でも、疑い深い人ほど、こうした反証を欲しがるものなのです(笑)ようするに、わたし自身は「天国など、容易に信じてたまるか!」という人のために、こうした反対に見えるような記事も書いたりしている……ということなのであって、わたしも実は内心では疑っているのだ――ということではなかったりします。

 さて、長くなりましたが、ディキンスンもこうしたキリスト教の説く、「安易な天国」に簡単に飛びつけない人でした。友達や知人の方や、自分の愛した人々が、「本当に苦しまずに亡くなったか」、「最後まで神さまを信じていて、喜びとともに天国へ旅立ったのかどうか」など、彼女は異常なまでに知りたがる人だったのです。

 わたしの貧困な想像としては、死んだその瞬間に天使が迎えに来たり、イエスさまが迎えに来られる方というのは、本当にいらっしゃると思うのですが――ある映画の中で、「人の人生は一本のビデオテープのようなものだ」といったように示唆されている場面を見たことがあります。

 天使やイエスさまが迎えに来ると信じられない方にとっては……インターネットやSNSが隆盛を極める現代、次のように考えたほうが、天国を信じやすいかもしれません。つまり、わたしたちの意識が死ぬ時、当然わたしたちの肉体も「見る」ということをやめます。その瞬間、何が見えると思いますか?

 あなたは、死んだ瞬間、自分が映画館の座席にひとりぼっちで座っています。簡単にいえば、「あなたの人生」という一本の映画を、あなたはたった今見終わったのです。ヴァーチャル・リアリティのことについては、今の時代説明する必要もないですよね?そして、あなたがその専用のゴーグルを外すと、隣に全然知らない人――あるいは、あなたより先に亡くなっていて、あなたが真っ先に会いたいと思っていた人――が座っています。

 その人はにっこり微笑むと、あなたの手を引いてこう言いました。「さあ、こっちが出口だよ。天国でみんなが待ってるよ」と……もし、天国がそんなものだったらいいなとお思いになる方がいらっしゃればいいと思います。

 あ、「キリスト教の教える天国と違うじゃないか!」とお怒りになる方には一応弁護しておきたいと思います。わたしたちの意識が「天国へと渡る」、そのコネクトの部分にはきっと、多種多様なバリエーションがあって――自分が死んだら迎えに来て欲しいと望んだ複数人の人が迎えに来るということもあるのでしょうし、あるいは天使たちが、イエスさまが、それとも全然知らないけれど、何か神々しいと感じられる人が――その方は、亡くなったあとに姿が変わっているので、すぐに「あの人だ!」と気づかない可能性もあります――あなたの意識を迎えに来るということだって、あるのではないでしょうか。

 なんにしても、答えのほうは「そんなん、死ななきゃわからん!」ということではあると思いますが、人は死んだらどうなるのだろう……という想像の内には、暗くつらくて悲しいイメージだけではなく、こうした楽観的なイメージがあってもいいんじゃないかな、と個人的には思っています。

 それではまた~!!






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