神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

神の子羊のいのちの書。

2021年02月28日 | キリスト教
【神秘の子羊(ヘントの祭壇画)】(ヤン・ファン・エイク)


 キリスト教徒にとって、人生でもっとも大切なことは、「子羊の命の書に名前が書き記されていること」(ヨハネの黙示録、第21章27節)だと思います。
  

 >>私は、この都の中に神殿を見なかった。それは、万物の支配者である、神であられる主と、子羊とが都の神殿だからである。

 都には、これを照らす太陽も月もいらない。というのは、神の栄光が都を照らし、子羊が都のあかりだからである。

 諸国の民が、都の光によって歩み、地の王たちはその栄光を携えて都に来る。

 都の門は一日中決して閉じることがない。そこには夜がないからである。

 こうして、人々は諸国の民の栄光と誉れとを、そこに携えて来る。

 しかし、すべての汚れた者や、憎むべきことと偽りとを行なう者は、決して都にはいれない。子羊のいのちの書に名が書いてある者だけが、はいることができる。

(ヨハネの黙示録、第21章22~27節)


 言うまでもなく、この子羊こそ、イエス・キリストのことを指しているわけですが、ヨハネの黙示録自体のほうは次の22章で終わりであり、この天国の都の門に「入れなかった人」、「外に出された人」がどうなったかについては、書かれていません。

 ただ、キリスト教の教義では、天国へ入れなかった人は裁きを受けて地獄へ行く……とされており、同じ黙示録に記述があるとおり、「第二の死」なるものが死後にあることがわかります。


 >>また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。

 また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物が開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書き記されているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。

 海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行ないに応じてざはかれた。

 それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。

 いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。

(ヨハネの黙示録、第20章11~15節)


 もっとも、ここでノンクリスチャンの方でしたら特に、「一体誰の名がいのちの書に書き記されていて、一体誰の名が書き記されていないのか」ということが、仮に信じていなかったにしても、気になるのではないでしょうか(^^;)


 聖書の欄外注には、†キリストを信じないで死んだ者に対する最後の審判。それぞれの行ないに応じて裁かれるが、何よりもまず、キリストを受け入れなかったことを裁かれ、火の池に投げ込まれる……とあります。

 ちょっとここは解釈の分かれるところであるにしても、「イエス・キリストを信じていない者は誰ひとり例外なく地獄へ行く」という解釈が一般的です。ただ、個人的にはこの広い世界には「イエス・キリストを信じる機会のない環境で生まれ育った方」もいらっしゃれば、日本もちょうどそうだと思いますけれども、「自分の住む町の中にいくつか教会があることは知っている。でも、そのうちのどこへも行く気には到底なれない」というのでしょうか。そうした場合において、それは「本人が悪いのか」というか、イエスさまの福音を伝えられていない人にとっては、「そんな裁きは不公平だ」と感じられても、無理はない気がするのです。

 また、キリスト教徒でなかったとしても、生前非常に立派な行いをされ、たくさんの人々の命を救ったり、慈善活動を多くなさっていた方の場合はどうなるのでしょうか。こうした事柄について、明確に答えられる方というのはいらっしゃらないと思います。ただ、ひとつだけ言えるのは――「神の子羊、イエス・キリストを信じていることが、絶対確実に天国の門をくぐれる」条件だ、ということなのです。

 他に、わたしもそうですが、自分の家族や友人・知人など、「救われてほしい」と思い、長く祈っている方がひとりもいない……というクリスチャンの方は、いらっしゃらないと思うんですよね。以前、「霊魂の城」というところでも書きましたけれども、わたしにとって祈ることは、毎日霊魂の城を造っているようなものです。

 そして、イエスさまの指示によって、建物の土台作りからはじめて、石を形作って積み上げていき……と、結構骨が折れます。でもわたし、最初はてっきり、自分が死後にここに住むのだろうと思っていたので、まあ、ある部分大変でも「♪るんるかる~ん」といった気持ちのほうが大きかったりもするわけです。全体の設計図とか基礎工事についてとか、難しいことはすべてイエスさまが考えてくださるので、「もうちょっとここ、こうしたらどうですかね?」とか、口を挟む余地なく、とにかくその城は完璧なものなのです。

 ところがですね、ようやく城が完成して、わたしが庭のあたりを整えていると――イエスさまは「そろそろ次へ」といったようにおっしゃるわけです。わたしはもう正直、自分がその素晴らしい城に住む気満々なので、「え?何言ってんすか、イエスさま」くらいな感じなのですが、とにかく神さまのおっしゃることは絶対ですので、また次に一から土地を整地したり、石を切り出して運んできたりと、非常に骨の折れることをはじめます。

 まあ大体、人が神さまに不満を洩らすのはこのあたりかもしれません。「チェッ。せっかく完成した、あの城にあのままいたかったのに」とかいう、なんかそんなことですよね。人間というのは基本的に、本能と快楽のしもべですから。けれど、そうした大変なところもイエスさまにあって越えていくと、「神さまの計画」というものが、だんだんにわかってきて、再び口笛や讃美の声が建設途中の城からは聞こえてくるようになるのです。

 わたしがそのことに気づいたのは、大体こんな形で城を2棟か3棟造ったあたりだと思います。こうなると、もう4棟目か5棟目の城を造る頃には――文句が口からついて出ることもなく、ただ喜びがあるだけになります。

 何故かわかりますか?その城には、わたしが死後に住むわけではなく……わたしが祈っている人が死後に住む、ということなのです。もちろん、黙示録に書かれた天国は、現在わたしたちの生きている世界にある、イスラエルの上に「天から下ってくる」ものですし、そう考えた場合、わたしの言っていることは矛盾していることになると思います(^^;)

 まあ、わかる方にはわかると思うのですが、このことは少なくともわたしの中ではまったく矛盾しません(笑)。ただ、イエスさまはとても親切な方なので、あるひとつのことについて長く祈っていて――時々、「このことに何か意味などあるのだろうか」と、わたしが虚しさを心に覚える時……なんらかの形で「あなたの祈りは聞かれているよ」と教えてくださるのです。

 そして、そうしたことが何度かあると、継続して祈り続けることが、より喜びで満ちてくると思うんですよね。また、毎日の生活が何かと忙しく、「祈る時間を確保できない」、「夜、せめてもと思い、眠りに落ちる前に布団の中で祈っているが、疲れているので、すぐにぐーすか☆寝てしまう」といった場合でも、聖霊さまを通して祈り、イエスさまに聞いていきましょう!

「祈る時間を確保できないので、祈るための時間をあなたがお与えください」ですとか、「夜寝る前に祈ろうと思っていても、日常生活で疲れていて、すぐ寝てしまいます。どうしたら祈れるようになりますか?」といったように、具体的に聞いていくなら――「ああ、そういうふうにすればいいんだ!」といった、なんらかの答えというのは、真実本当に求めていくならば、必ず与えられると思います。

 わたしの場合、電車やバスで移動中に祈ることもありますし、出勤前に10~20分時間を取って祈っていたこともありました。人によってはもしかしたら、「たったの10分祈るだけなら、祈らなくたって大して変わりないのでは」と思われる方もいらっしゃるかもしれません。けれども、最初にまず、どんなに祈れなくても5分か10分祈ろうと心に決めた時から……そのたったの5分が、天国へ入れるか、閉めだされるかということへの、最初の一歩とも言えるかもしれません。

 祈りの道は、必ず神さま、イエスさまの道に通じており、それはつまりは天国への道でもあり――飛行機の上級マイレージ保持者の方が、長蛇の列に並ぶことなく、別のゲートからピッとカードをかざすだけで楽々搭乗できるようなものです。

 祈りをマイレージにたとえるのはどうかという気もしますけれども(笑)、同じクリスチャンの方でも、もし仮にクラスとしてダイヤモンド・プラチナ・ブロンズといったように分かれるのだとしたら……祈るだけではなく、いかにイエスさまに求め、その御声に聞き従ったかで、差が出てくるものなのではないでしょうか。

 わたしも、祈りのダイヤモンド会員を目指して、これからもがんばろうと思います!

 それではまた~!!






コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 意識の変容。 | トップ | イエスさまの捕虜。 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

キリスト教」カテゴリの最新記事