神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

地獄の実在性。-Ⅱ-

2015年12月23日 | キリスト教
【神曲】ギュスターヴ・ドレ


「神の国は、あなたがたのただ中にあるのです」

(ルカの福音書、第17章21節)


 ジョン・レノンさんは『イマジン』の中で「天国も地獄もないって想像してごらん」っておっしゃってたと思うのですが、実をいうとわたし、キリスト教徒になる前もなったあとも、実は地獄については懐疑的だったかもしれません(^^;)

 でもその逆に、<天国>というものについて信じるのは容易でした。今もなんの疑問の余地なく天国というものを信じていますし、相手がクリスチャンでもそうでなくても関係なく、誰か人が亡くなったと聞きますと「その方が天国へ行けますように」といったお祈りをします。

 もちろん、キリスト教の厳格な教義としては、生きている間にイエス・キリストのことを信じていなかった人は死後に裁かれる、また地獄へ行く……と言われています。なので、生前クリスチャンでなかった人に対して「天国へ行けますように」と祈るのはおかしかろうとおっしゃる方もいるかもしれません。でも結局、死んだあとのことというのはわかりませんので、とにかく個人的にはそれが誰のためでもそう祈るようにしています。

 それはさておき、わたし、<地獄>という存在について懐疑的な割に、幼少時から地獄の絵を見るのが大好きでした。キリスト教的な絵画でしたら、ダンテの『神曲』のギュスターヴ・ドレの絵ですとか、日本的なものであれば、火の池地獄に人間がいて、そのまわりを鬼さんたちが囲ってるとか、そうした絵に子供ながらも物凄く惹きつけられるものがありました。でも、心の中ではそんな場所が本当にあるだなどとは、あまり本気で信じてなかったような気がします。「あったらやだな☆」とは思ったかもしれませんが、自分や自分の身のまわりにいる人々がそのような場所へ行くことになるかもしれない……とはあまり深く考えなかったと思います。

 わたし自身の地獄観(?)がそうしたものだったため、ユーアン・マクドナルド氏が牧師さんなのに「そんなにも強く地獄というものを信じていた」というのは、実はモンゴメリの伝記を読んだ時に結構驚きだったかもしれません(^^;)

 ただ、欧米の方々っていうのは、御両親がクリスチャンであれば、キリスト教の価値観というものは幼少時から叩きこまれるでしょうから、もし小さい時に「そんな悪い子は地獄へ行くよ!」という教育法だったりすると、それが一種強迫観念にまで高まるということがあったりするのでしょうか

 ところで、モンゴメリは日記の中で、>>「地獄に対する恐怖心」から、しばしば必死で「キリスト教徒」になろうとしたと告白しています。


 >>私の神学はたいへん幼稚で、なんでも文字どおりにとった。天国とは、黄金の家々と通りからなる都、そこで私たちは、いつもハープを手に、花冠を身につけて歩き回り、いつも賛美歌を歌っている、そこは「終わりなき安息日」だろうと想像した。そこは恐ろしく退屈だろうと考えずにはいられなかった。この世のたった一日の日曜日でも終わりがないように思えた――では、ほんとうに終わりのない日曜日ってどんなだろう?一方で、こんなことを考えるのは私が罪深いからだとも思った――天国に何の魅力も感じないなんて、私には何か根本的に悪い点があるからだと思った。だけど、とにかく天国は地獄よりまし。地獄とは、悪魔とその天使たちが出没する火と硫黄の湖だと堅く信じていた。天国は頭上の青空の向こう側にずっと広がっているというぼんやりした印象を持っていた。一方、地獄は私には、ずっと向こうの南東の方角にあるように思えた!地獄をとても恐ろしく思った。その恐怖心から、しばしば必死で「キリスト教徒」になろうとした。

(『モンゴメリ日記③1897~1900~愛、その光と影~』メアリー・ルビオ/エリザベス・ウォータストン編集、桂宥子さん訳/立風書房刊より)


 モンゴメリは、生後一歳九か月の時にお母さんを結核で亡くしたため、母方の祖父母に引き取られて養育されたのですが、ふたりとも厳格な方だったようで、子供に対する宗教教育も厳しかったようです。祖父母のそうした「<型>にはまった堅苦しい信仰」の影響のせいもあって、モンゴメリは小さな頃<地獄>や<世界の終わり>といったことについて、堅く信じるようになった面があったのではないでしょうか。

 もっとも、モンゴメリが小さい頃に「次の日曜日に世界が終わる」と思って怯えたエピソードなどは可愛らしいものですし、彼女の日記にはその後、地獄というものを信じなくなったとも書かれているのですが(^^;)


 >>正確には、いつそれとなくこれらの教えを信じなくなったのかは思いだせない――徐々に徐々にそうなっていったのだと思う。文字どおり火と硫黄からできている立派な地獄に対する確信がまず最初になくなった――それも、その他の信仰も、実の方が大きくなった皮が抜け落ちるように、なくなってしまった。とても簡単に消え失せてしまったので、ずっと以前に消えてなくなっていたと気がつく日までまったくわからなかった。成長してなくなってしまった信仰の代わりに、とりあえず役に立つ信仰をまだはっきりと見出していない。おそらく、そのうちやってくることだろう。他のすべてのものもそうだが、こういうものも成長しなければならないのだ。

(『モンゴメリ日記③1897~1900~愛、その光と影~』メアリー・ルビオ/エリザベス・ウォータストン編集、桂宥子さん訳/立風書房刊より)


 モンゴメリの、作家としてでなく<牧師夫人>としての面に少し光を当ててみますと、彼女はもともととても信仰深い傾向にある女性であったにも関わらず、むしろ牧師夫人になったからこそ、その後キリスト教に対する信仰がぐらついていった……そのように感じられます(上の記述は結婚前のものですけれども^^;)。

 特に、彼女が<キリストの神性を受け容れることが出来ない>と手紙の中で告白しているところなどは――周囲の人々の中でそのように察することの出来る人は誰もいなかったでしょうし、確かモンゴメリは<教会>というものが今のような形態で続いていかれるとは思えない……といったようにも言っていたと思います。

 わたしが思うには、『牧師』と『牧師夫人』とがほとんど発狂寸前というくらい精神をすり減らさなければ、<教会>というものを保っていけないのだとすれば、いずれ時代が進んでいくにつれてそのような場所は消失してしまうだろう……と遠まわしにモンゴメリは言いたかったのだろうかと、そんなふうに思ったんですよね。

 今も、牧師さんや牧師夫人に<完璧を求める>という傾向はあるのかもしれませんが、それでもモンゴメリが生きた時代っていうのは、この傾向が今の時代よりも物凄く強かったということは間違いないと思います。『赤毛のアン』シリーズでいえばちょうど、アヴォンリー村に新しい牧師さんがやって来るという時――レイチェル・リンド夫人や他の方々が牧師さん候補を厳しく査定していたことなどからも、その傾向は強く窺われるように思います(^^;)

 すべての信徒の模範像として、人間として<完璧さ>を求められる傾向がとても強く(嵐のように強くと表現しても過言でないと思います)、そのような中でモンゴメリは牧師夫人の務めをまわりの人々が賞賛するほどのやり方で忙しくこなしていったのでした。夫のことはその危機的病いが周囲の人々にわからないよう心を砕き、「夫のことを愛していない!」と日記の中で叫びながらも、彼のことを妻として面倒を見続けたモンゴメリ……彼女の日記、またペンフレンドとの間でとりかわした手紙などを読むにつけ、その痛ましい実像が浮かび上がってくる気がします

 ここで、モンゴメリとその夫ユーアン・マクドナルドさんの関係がどのようなものだったか、「『赤毛のアンを書きたくなかったモンゴメリ」(梶原由佳さん著/青山出版社刊)より少し引用してみたいと思いますm(_ _)m


 >>ある日、モードへの手紙のなかに、“Miss L.M.Montgomery”(ミス・L・M・モンゴメリ)と宛名書きされたものを見つけたユーアンは、妻に言い放った「こんな宛名の手紙を今後も受け取るようなら、出ていってくれ」おそらくこの出来事があったからだろう。モードは、作家モンゴメリ宛に届いたファンレターにも、必ずといってよいほど、L.M.Montgomery Macdonald(L・M・モンゴメリ・マクドナルド)と夫の姓もサインして返信している。夫の目に触れるところでは、100パーセント、マクドナルド夫人であらねばならなかった。

(そしてこのエピソードがあるゆえに、ユーアンさんは<アン・ファン>の間ですこぶる評判が悪いものと思われます^^;)


 >>頭痛が起こるたびに額にハンカチを巻いて室内を歩きまわる夫は、妻の姿をどう捉えていたのだろう。残念ながら彼自身が残した文書などは発見されていないため、私たちは妻の側からの感じ方しか知ることはできない。モードの日誌に現れる夫は、作家モンゴメリとして成功する妻の姿を、または、牧師夫人として教区民から称えられる妻の姿を冷ややかに見ていたようだ。モードは、こんなにも献身的に牧師夫人としてのつとめを果たしているのに、夫は、何の感謝の意も示してくれない。それに、知性は女には重要ではないと考えているようだ、と憤っている。夫の女性観は、中世の時代遅れのものだとモードは感じていた。


 >>一方、夫の憂鬱症は年を経るごとに悪化し、ユーアンもモードも眠れぬ夜が続いていた。この頃の日誌の書き出しは、前夜ユーアンが眠れたかどうかといった、夫の症状ではじまっている。親しい友人ノラだけには、夫の症状を話し、どうにか、辛い心のはけ口を得ていたようだ。モードは、気持ちを切り替えて少しずつペンを進めていった。書いている間は、過去に戻り「銀の森屋敷」で楽しく過ごすことができた。それでも、書く気力を保つのは容易なことではなかった。夜中に突然起き出す夫を看るために自分も起きなければならず、生活のリズムはくずれていった。モード自身どうにか眠るために、睡眠薬を飲む日々が多くなっていく。

 1934年夏には、一大事が起こった。モードが夫のために購入した青い錠剤が、薬剤師の処方ミスで、実は毒物だったのだ。服用したユーアンは瀕死の状態に陥った。幸い処置が早かったために一命はとりとめたが、村には病気がちのユーアンに対する不信のうわさが広まった。夫の病状に関しては、モードが、「地獄のような日々」と呼ぶ日が続く。死にそうだと訴える夫をなだめすかすのに疲れたモードは「夫が途絶えることなく、うなったり、だらだら話したりしている間、彼のベッド脇に静かに腰かけ、縫い物をした」そうして耐えられなくなると別の部屋に行っては涙を流したのだった。


 >>トロントに越してからも夫の病状は悪化の一途をたどっていた。「今回は神経だけのものではありませんでした――この夏のおよそニケ月間、夫は精神病患者でした。それに、他の症状のひとつなのですが、夫は記憶を完全に失ったのです。どのようなものにせよ、夫を施設に行かせることにはがまんができませんでした。わたしのように夫を理解できる人はだれもいないのですから。何度も何度もたび重なるこうした発病の間中、わたしが看病してきたのですから」

 1903年以来のペンフレンドであるマクミランに1938年になって初めて、夫の病状を書簡で訴えている。もう、この頃には内面に自分の苦悩を抱えきれなくなっていたようだ。リースクデイル時代にはボストンの精神科にかかり、ノーヴァル時代にはグエルフの療養所で過ごしたこともあった夫には、もはやいかなる治療も功を奏さなかった。モードは、薬を選んで数えては、決まった時間に夫にのませたり、ぼんやりベッドに座っている夫に靴下を履かせたり、服を着せたりとかかりっきりになって世話を続けたという。

(「『赤毛のアン』を書きたくなかったモンゴメリ」梶原由佳さん著/青春出版社刊より)


 目まぐるしく忙しい教会行事の他に、夫の世話に子供の世話、それから自身の執筆活動といったこともあります。また、この子供さんというのが、お兄さんがチェスターさん、弟がスチュアートさんとおっしゃるのですが、お兄さんのほうは色々と素行に問題があったようで、そのことでもモンゴメリは随分頭を悩ませていたようです。また、モンゴメリは時代的に二度の世界大戦を経験しており、そのこともまた彼女の神経をボロボロにしました。

 ユーアン・マクドナルド氏とその妻、ルーシー・モード・モンゴメリ・マクドナルドのことで、とにかく個人的に思うのは――「これ以上苦しめと言われても、もう無理だ」という状況を長く経験されて、ようやくご夫妻は昇天されたということでしょうか。

 モンゴメリのように忍耐深い女性が<地獄のような日々>と呼んでいるからには、それは本当に大袈裟でもなんでもなく、文字通りのことだったのでしょう。実際に今この時にも、認知症の家族の介護に追われていたり、家族に鬱病の方を抱えている方などには、モンゴメリの気持ちが痛いほどよくわかるのではないかと思います。

 1942年、モンゴメリは67歳で亡くなり、またその翌年、ユーアンさんもまた妻のあとを追うように永眠されました。

 モンゴメリが手紙の中で自殺を肯定する考え方をしていたことや、ほとんど遺書とも思われる手紙を最後に長年のペンフレンドに出していること、また、もともとは信仰深い女性であったにも関わらず、牧師の妻という立場でありながら(モンゴメリの場合は牧師の妻になってしまったからこそ^^;)、キリスト教の正統的教理から離れて、人は生まれ変わるといった考え方に傾倒するようになっていったモンゴメリ……こうした事柄のピースを当てはめていくと、モンゴメリは自殺だったのではないかと人々が疑いたくなるのもわかる気がします。

 ウィキを読むと、>>『赤毛のアン』原作誕生百周年の年に、孫娘のケイト・マクドナルド・バトラーにより、うつ病による自殺と公表されたとあるのですが、このケイトさんの発表というのが「間違いなくそうだ」という証拠を備えたものであるかどうかといったことがわからないため、出来れば自殺ではなかった……と、個人的にはそう思いたい気持ちが強かったりします

 なんにしても、モンゴメリは読書家で、聖書の他に当然宗教書といったものも読んでいましたから、その中にもしマーリン・キャロザースさんの感謝と賛美の書があったならと、そんなふうに思ったりしました。もちろんマーリンさんはお生まれになったのが1924年でも、『獄中からの讃美』が出版されたのは1970年ですから、まずもって無理ですけれど、マーリンさん的な考え方によって信仰が成長していくのと、ただ厳格にキリスト教の教えを型通りに教えこまれるのとではまるで違うことのように思うので……(^^;)

 ではでは、次回は地獄を信じることが出来なかった詩人、エミリー・ディキンスンのことについて、少し書いてみたいと思いますm(_ _)m

 それではまた~!!



 P.S.この記事と前回の記事だけ読むと、モンゴメリがいかに不幸な女性だったか……というように読めてしまうかもしれないのですが、もちろん彼女の人生にはきらめくばかりの喜びの瞬間が、数え切れないほどたくさんありました。また、牧師のユーアンさんの赴任地では、まわりの方々にとても好かれ、深く慕われていたと言います(ゆえに、モンゴメリがそうした<表面的なつきあい>といったものにどれほど心を砕き内心では疲れていたかなど、察することの出来る人はほとんどいませんでした)。わたしの今回の記事の中では特に、<牧師の妻として>のモンゴメリに焦点を当ててしまったので、そういう意味ではなんだか彼女の人生が不幸だったように見えてしまうかもしれないのですが、モンゴメリがそんな中でもどれほど素晴らしい<生>を生きたかといったことについても、また機会があったら記事にしてみたいと思っていますm(_ _)m





コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 地獄の実在性。 | トップ | 地獄の実在性。-Ⅲ- »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

キリスト教」カテゴリの最新記事