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困った、困った、こま犬1

2013年06月09日 20時52分31秒 | ウォーキング

熊野街道Aコースを歩き始めたdoironですが、
多賀橋を越えたところで
早々に立ち寄った神社のことを
書くことになってしまいました。





ジダンブログの中で、
忠岡の菅原神社(「天神社」ともいう)の狛犬が
逆立ちしたり、立ち上がったりと
驚くべき形をしていたことが紹介されており、
その理由について調べてみなさいと
宿題を与えられたからです。



立ち寄った時にはまだ宿題にはなっていなかったので、
何気なく見てきただけだったから、
少し資料を繰って調べてみることにしました。

まず狛犬(こまいぬ)についてです。

狛犬のもともとのルーツは、
インドの仏像の前に
二頭のライオンの像を
置いたことに始まるといわれています。

なにか大切なものを守るのに、
強そうな生き物を配置するという考え方は、
エジプトのスフィンクスなんかにも表れていますね。

そんなライオン、つまり獅子の配置が
中国を経て韓国(高麗=狛(こま))を経て
獅子と狛犬になり、
やがて日本では2頭で1対の狛犬が
配置されるようになったという変遷をたどっていきます。

しかし、東寺の狛犬は二頭とも
獅子であったりもするところから、
明確にこの時代はこれというのではなく、
地方によって姿を替えつつ、
今に至っているといったところでしょう。

その変遷の間に、
いろんなオプションが現れ、
狛犬がわりに犬以外の
猪、狐、鹿、狼などが置かれているところもあるようです。
(それには何か意味がありそうやけどね)

ところで、この話を調べようと思った時に、
まずdoironの氏神さまである
S根神社にも狛犬の確認に行きました。

そこには2対の狛犬が置かれています。

正面鳥居のところにある1対がこれ。



左右はこの通りです

いずれも明治時代の作で、
材料は御影石でしょうか。

そしてこれが本殿前の狛犬で
文政元年、西暦1818年の作です。




多分砂岩で彫られています。

そして、実はS根神社には、
お宝ともいうべき、鎌倉時代の木彫りの狛犬も残っています。

一般に公開されていませんが、
神主に一度直接見せてもらったことがあります。
手のひらに乗るこじんまりとしたサイズで
普通のこま犬のように座った形でした。
昔はこま犬は本殿の中に置かれることが多く
その頃は木彫りだったんだそうですが
外に置かれるようになって
石のこま犬に変わってきたそうです。

このS根神社の他
各地の狛犬を見てみますと、
その姿かたちに
一つのルールのあることがわかります。

いずれも神社内部に向かって
右が少し口を開いた「阿形(あぎょう)」、
左が「吽形(うんぎょう)」になっています。

変遷の多い、最近の狛犬で、
ほぼルールの決まっているのが、
この阿吽(あうん)の配置です。

むかし中国の天子の玉座は南を向いており、
天子に向かって右が東、
左が西でした。
東は日出る方角ということで
そんなところから、山門の仁王も狛犬も
向かって右がより各上の
「阿形」としていたとのことです。

それは、地方によって異なったりはせず、
一定決まっているルールのようです。

ところがそれ以外の、狛犬の形などは
地方によってかなり自由奔放に異なっています。

忠岡のこの天神社の狛犬は

「逆さ狛犬」

と言われる形のものです。

もともと、昔には狛犬とはこんな形じゃなかったんでしょう。

それが、出雲で採れる「来待石」といわれる
柔らかい砂岩を用い、
その加工しやすさから
今にもとびかかろうと構えている
狛犬が作られてから、
狛犬のポーズはそのバリエーションを増やしていきます。

そして石川県の神社の多くで、
今回の天神社に置かれている
逆さ狛犬の形のものが増えていった
といわれています。
最近では九州北部にも
この形のものは散見されるようです。

結局調べてみてわかったのは、
狛犬の姿の変遷にはさほど宗教的な理由はなく、
より強そうに、とかより躍動感のあるように
といった形を求めて変遷してきたように思います。

そういう狛犬の歴史を踏まえたうえで、
次に昔からの宮座の文化を継承している神社として
重要だといわれている
この天神社のことを調べてみました。

まずこの神社の最も大きな特徴というと、
やはり宮座組織で成り立っている神社だということです。

宮座の神社とは、S根神社のような式内社とは異なり、
神職を置かず、地域の集団が
当夜制で管理をしている神社のことを言います。

忠岡町史によりますと、この天神社の起こりは
宮年寄16人衆からなる宮座が結成されたことに
端を発しているそうです。

以後、座入りを果たした人達のみで
この神社が成り立ってきました。

さて、doironがこの神社に行ったときはまだ、
宿題を与えられていなかったので、
その逆さ狛犬の年代を
確認していませんでした。

しかし、これも忠岡町史の写真から見て、
少なくとも平成2年には
今の逆さ狛犬の形になっていたことが伺えます。
では、いつから今の形かというと、
これがわからないのです。



これも「忠岡町史の第1巻 本編」の
中扉の画像に掲載されていました。

これによりますと承応2年、西暦1653年に
地元から寄付された狛犬の形は、
普通の形であったことがわかります。

いつ姿が変わったのか、
それはわかりませんでしたが、
宮座が支配している神社だから、
神職の提案であることはなく、
老朽化した狛犬の新調時には
宮座の皆さんで、
いろいろと考えてこの逆さ狛犬にしたのだと思います。

そう、宗教上の理由というよりは、
宮座の意向を反映することのほうが
大切だったんじゃないかと、そう思うわけです。

その辺の経緯は、
きっと村の長老に訊けば答えはあろうかとは思いますが・・・。

ということで、結局この天神社における、
狛犬の形には、
立っていようが、座っていようが、
ハゲていようが、頭に手ぬぐいまいて
あちこち走り回っていようが、
泉O津に住んでいようが、
ジダンと呼ばれていようが・・・ん?

ま、とにかくあまり深い意味はなさそうです。

答えはきっと過去からの
宮座文化の根源である
氏子の総意の中にあるのでしょう。

と、まあこれはいわば状況証拠に基づく
推察に過ぎません。
そこで、現場百回という刑事ドラマをまねて
さらに推理を固めてみようと
梅雨の晴れ間を縫って
忠岡町内に2カ所ある
天神社めぐりの歩行を敢行しました。

そこで得られた驚きの結論とは?

結果はコマーシャルのあと・・・
じゃなかった。
明日に続く。