ハブ ア ナイス doi!

いつまで続くのかコロナとの戦い。
全て解放されて、もっと、もっと
心から楽しまないとねえ。

初秋の大和富士 2

2015年10月09日 22時47分23秒 | ウォーキング

額井岳の登山は、
十八神社の鳥居をくぐって



境内を左に進んでいくところから始まる。



道は比較的整備されているものの
ところどころにある道標が
雑草に覆われていたな。





水場を過ぎて林道に出ると左折し、
少し林道を歩くと右に



額井岳への登山路がある。



道がぐいちになっていて、
行き止まりのように見えるが
道標を信頼して登っていこう。

この日は平日とあって
十八神社のところから
全く人けはなかったが、
訪れる人はいるようだ。
道のあちこちに登山靴の型がついている。



登山道沿いの生物を眺めてみよう。
この季節はキノコが多いね。





あちこちににょっぽり顔を出している。



そしてdoironくらいの年代になると
気になるのが年金、
木になるのが粘菌
ということで、これは「粘菌」かなあ。



とそんなバカなことを考えながら歩いている時だった。
何気に林の中に視線をやると、
ある景色に背筋が凍りついた。

林の中、木の根元で
誰かがこちらをじっと見ているではないか。
それはうめき声が聞こえてきそうな
青白い顔をした人間の顔だった。
森の中に取り込まれてしまったのか、
表情は悲しい。
後ずさりをしてしまったよ。
それがこれ。



ドヒャーでしょ。

推察するにこれはきっとdoironが知ってる
頭にタオルを巻いて山を走り回っている誰かが、
転んでここに顔を打ち付け
そこに菌が付着したのでしょう。

ほっといて先を急ごう。

おお~、これは秋の化身
うらやましくもたくさんの
固い毛におおわれた
栗ではないか。



実の入っているやつもあったぞ



下から見た山の形で
容易に想像はできたが、
山頂が近づくにつれ
傾斜がきつくなってきた。



ヒーハー、ヒーハーと登り続けて行くと、
やがて登りが緩やかになり、



山頂が見えてきた。



やったあ、大和富士登頂だあ。



山頂にはちょっとした休憩施設がある。



そこで記念写真をパチリ。



そうそうこの山にはUFOが
飛んでくるという都市伝説はないでしょうか。
山頂を眺めまわしてみますと、
無数のクレーターがあるではないか。

これ。



きっと村の人はこんな風に語ってくれるはずです。

「おれぁ、見ただよ。勧請縄を張った翌日、
お山のてっぺんに明るい光るものが
下りてきただ。
おれぁ、てっきり山の神さんが
下りてきたんだと思ったら、UFOだったんだべ」

というようなことではなくて、
これは「アリジゴク」。



ウスバカゲロウの幼虫が、
蟻などの小昆虫を捕まえるために作ったトラップだ。

昔はdoironの地元の神社でも
よく見かけたけど、
この頃はあまり見なくなったな。

見ると、足下が新興住宅街も
真っ青のジゴクだらけだった。

生存競争はキビシーのだ。

休憩所の横には、こんな祠もある。



雨乞いの水神様が祀られているそうだ。
今日は降らせないでね。

ところで、地図をみると
この山にも三角点があるはず。
探してみよう。

もっとも高そうなところに目星をつけて
行ってみると、ありました。
休憩所の陰の目立たないところに
設置されてあった。

これ。



全国で約7万か所ある四等三角点のひとつだ。



地形図に記載された高さは

812.6m。

山頂の板切れに書かれた標高816mと
ちょっと違っている。
そして手持ちの資料には821.6mの表記もある。

思えばこれまでいろんな山に登って来たけど、
山頂にあるこういう山名表示板などの高さ表示が
往々にして微妙に異なるのは何故なんだろう。

そこで国土地理院の三角点について調べてみたら、
山の三角点は必ずしも最高地点とは限らないのだそうだ。

なるほど、道理でまだ周りに高いところがありそうなのに
三角点があるのはそういう事なんやね。

確かに三角点は最高標高にあるとは限らない。

そういえば、GWにご近所の
三角点巡りをしたときにもそうだったもんね。
三角点はあくまで水平位置を決めるもの、
山の標高のためではないのだ。

なのでこれでいいのだと続く。


初秋の大和富士 1

2015年10月08日 21時33分22秒 | ウォーキング

「富士」の語源はいまだに定かではなくて、
「淵」であったり「不死」であったり、
「不二」、「富滋」などあるかと思えば、
アイヌ語の「火」を意味する
「フチ」という説まであって実に様々だ。

それは「富士」への憧れや畏敬、
宗教心など人々が富士に抱く思いが
いろんな形であることを物語っている。

今年になってから「富士」にいくつか登った。

といっても日本の最高峰、
あの霊峰富士ではなくて、
日本各地に散らばるご当地富士だ。

「紀州富士」といわれる龍門岳、



「近江富士」といわれる三上山、



「泉州富士」といわれる小富士山。



そして今回はその流れで、
「大和富士」といわれる額井岳に登ってきた。

富士といわれる山は
「八」の字になっていることが多く、
山頂直下ともなると急な登りが続くことが多い。

この山の姿もそんな感じで
下から見上げると、
ポコンと空に突き出たようになっている。

それは一日秋晴れが見込まれる
気持ちのいい日だった。

自宅から車で南阪奈、国道165号
を経るコースで榛原へと向かった。

南阪奈は当麻寺にある
義父さんの墓参りなどで
最近よく利用する自動車道だ。



その道路で、朝もやでかすむ畝傍山を眺めながら、



終点まで行って、国道165号を東進し、
初瀬も越えて行く。

ああ、この道も懐かしい。

トライアスロンのバイク練習で
青山高原や伊勢に行ったときも
この道を通っていった。

いくつも起伏を越え、
谷を渡りひとこぎひとこぎ
強くなっていく自分を感じていたものだ。

一日180キロも全然苦痛じゃなかったなあ。



初瀬は「はせ」と読む。

そうあの西国三十三カ所の霊場である
長谷寺の「はせ」で、
三重県松阪へとつながる
初瀬街道の起点となっている。

そこを過ぎてから、
車を山麓の道へとすすめて行く。

おお、目の前に本日の目的地

「額井岳」

が姿を現した。



ピークが二つ連なる山容は
二上山を思わせる。

事前に奈良の山友に聞いてあった
登山口の「十八(いそは)神社」に車を停めた。



ここから観る景色は素晴らしかった。



初秋の山麓の向こうに榛原の町が広がり、
その向こうに青々とした宇陀の山々の
稜線が連なり、奥の吉野の山々の稜線と重なっている。

まだまだ未知の山が多く、
楽しみは限りない。

さてここは「十八神社」である。



まるで地方に残る銀行の名前のようだ。

いわれを調べてみたが、
なぜ「十八」なのか、
そしてなぜ「いそは」なのかはわからなかった。

三室戸寺にも「十八神社」があるが、
こちらは三人の祭神と15の神様を
合祀したところからついた名前
とか言われている。

また関東には三十八神社もあって、
「三」は祭神の数で
「十八」は神様に敬意をあらわすための数字だとか。

とまあ、そんな具合にいろいろ説はあるけど、
この大和富士の山麓に
ひっそりとたたずむ「十八神社」の
いわれはよくわからなかった。

ただ、産土神としての信仰は厚く、
本殿は20年に一度遷宮されるという。

この本殿は2011年に造営されたもの。



彩色がひときわ鮮やかであった。

またこの額井の村には「勧請縄」という風習がある。
十八神社の祭事のひとつで、
村人たちが糾った縄を
長い注連縄にして村に吊るし、
村の安寧と五穀豊穣を
祈願するというものだそうだ。

そしてもうひとつ興味深かったのが
この十八神社の手洗い鉢の水が、
今から登る額井岳の中腹に湧く
水をひいているという事。



額井地区の産土神にふさわしく、
ここには山と一体となった
信仰が息づいているということやね。

しーんと静まり返った山麓の村に、
人々の祈りのように
初秋の陽光が降り注いでいましたとさ。



燦々と続く。


地元で起こった三つの事件

2015年10月07日 21時11分26秒 | 最近の出来事

今年も祭りの季節がやってきた。

9月に入ってから、
総会の開催、献灯台の設置、
詰所の開設、ブレーキテストと順調にこなし、
先の日曜日に試験曳も無事に終えた。

doironは今年も世話人の会長として、
他町との交流、人の手配など
バタバタと忙しかったな。

今はもうほぼ役割も終えて、
あとは本番を迎えるのみとなっている。

試験曳の前日は試験曳前夜祭。

詰所の横の広場でBBQをしながら
ワイワイと盛り上がる。
そこからが本格的な祭りの始まりなのだ。

次の土日の本番が終わるまで、
地元にどっぷりつかることになる。

そんな中でいろんな地元話が勃発したので、
ちょっと紹介しよう。

まずは「賽銭ドロボー」。

それは試験曳前夜祭の夜だった。
世話人の年寄り連中は早々に引き上げたのだが、
若頭の連中たちは遅くまで飲んで騒いでいたようだ。
午前二時頃に、酒を飲めないメンバーが
車で他のメンバー二人を送るべく、
車を停めてあった神社に行った時だ。

奥の本殿の辺りでガタゴト音がしていたので行ってみると、
初老の男が賽銭箱をひっくり返していたそうだ。

過去何度か賽銭ドロボー事件があったので、
ピンときた三人はそーっと近づき
声をかけたそうだ。

周りを屈強の男三人に囲まれて、
逃げる事もできず観念したようなので、
警察に電話をした。

警察が来るまで話を聞くと、
どうやら常習犯だったらしく、
ここも何度か来たことがあると言ってたそうだ。

やがて、警察と神主が駆けつけ
無事犯人は警察に連行となった。

と、ここまではよかったのだが、
その三人も事情聴取で
警察まで同行させられることになったのだ。

それが午前二時半くらいだった。

それから酔ってフラフラの二人と
運転手一人、そして神主も警察に
午前7時くらいまで警察に缶詰だったそうだ。

「しまいにゃ、早く帰宅したいあまり
『すみません、僕がやりました』
と言いそうになった」と後日語っていた。

神主は神主で、「これまであった被害額は?」
と聞かれて切れそうになったそうだ。

そりゃそうだろう、
賽銭がいくら入っているかなんて
開けてみなけりゃわからんもんな。

結局3人と神主は午前7時過ぎに解放。

その日の試験曳はヘロヘロだった。

最初は200円余りのさい銭を盗まなきゃならん
犯人の境遇に同情もしていたようだが、
フラフラになるにつれ
だんだん怒りが込み上げてきたと言っていたぞ。

そして次の話は「防犯ベル」。

昨日の早朝、ある家の防犯ベルが

「ジリリリリーン」

と静かな村中に響き渡った。

何事かと思って、doironを含めて
何人かが駆けつけたところ、
家人が出てきて、
「誤操作をして止め方がわからんねん」
と釈明した。
駆けつけた一人はゴルフクラブを持っていた。

家に何かあったんなら大変やけど、
それなら大事ないということで、
みんな引き上げたのだが・・・
いつまでたっても鳴りやまず、
通学時間になるとその家の前に
子どもが集まり始めたではないか。

家人はさらに慌てて
「何にもないよ。故障やで」
と説明していたな。

結局防犯ベルの電源を
何とか落として解決したが、
なんとまあ人騒がせなことである。

悲しいかなもうこの家の防犯ベルは、
防犯の役割を果たさんだろう。

三つ目は試験曳。

今年はdoironを含め喪中の人が多く、
その人たちはだんじりに触ることができないので、
他の自治会の人に交代要員として
前に乗ってもらうことになった。

ところがその年配の人は
だんじりに乗るのは初めてだったらしく、
やり回しで思わず落ちそうになり、
大いに照れていた。

だんじりを下りてから、
照れ隠しで

「シートベルトをつけてくれ」

と叫んで大笑いをしたというお話でした。

まだまだお腹を抱えて笑うこともいっぱいあったが、
以上とりあえず、地元ならではの3つのお話でした。


伊丹に行ってみ 4

2015年10月06日 21時28分24秒 | ウォーキング

缶詰を開けようとしたら、
プルリングだけポロリと取れてしまった。



げげ~なのだ

非常食として長い間置いてあったからだ。

あきらめてそのまましまおうとしても、
小さな穴が開いてしまったので、
リュックに再収納することもできない。

さあてどうするdoiron。

いやいや、安心してください。
持ってますよ。

リュックにはこんなこともあろうかと
ナイフセットが入っています。

使えそうな刃を引っ張り出して、
ほらこの通り。



無事に昼食を済ませて、
さあ続きを歩こう。



公園内のこの歌碑には
少しだけ説明がある。



金槐和歌集から抜粋した
藤原定家の歌だそうだ。

おお~定家といえば、
あの後鳥羽上皇の熊野詣に同行し、
熊野御幸記なる日記をしたためたお人ではないか。
その日記の登場シーンは
何度も熊野古道歩きの
訪ねどころとなった。

なんか思わぬところで
友達にあったような気分だ。

公園の出口には、
飛び出し坊やが無残な姿で立っていたぞ。



飛び出すとこうなるよという
ある意味警告を含んだ看板だ。

緑道はまだまだ続いている。



こ、これは、気根?



調べてみると、ヌマスギという樹木は
こんな風によく気根を出すそうだ。

周りにそんな木があったかなあって感じ。

やがて大きな池に出た。



この池の名前がわかる人はいますか。
はいそこの赤ちゃんを抱いて手をあげている女の人。



「瑞ヶ池(みずがいけ)」です。

ピンポーン、正解です。

すみません、岸辺の銅像に手伝ってもらった
しょうもない小芝居でした。

ここには「トリムランニングコース」が整備されている。





でも、最近よく聞くこの「トリム」てなんだろう?

で、さっそく調べてみると

「トリム」とは「均整のとれた状態」を表すことから
「健康増進」といった意味を含んでいるそうだ。

実際にはトリムランの大会もあり、
これはある一定の距離を
自分で走れるタイムを設定して申告し、
それにいちばん近いタイムで走った人がエラい。
という大会だったりします。

自分の体力に合わせて走るという意味では、
先日開催された三時間走も
トリムランのひとつの形かもしれませんな。

池の周りに整備された公園の中には
あの東北大震災で有名になった

「三春滝桜」



の子孫も植えられていた。



100年もすれば「伊丹滝桜」になったりしてね。

公園で水分補給と水分放出をして、



次に天神川沿いの道を目指して
しばらく住宅地を歩いた。

住宅地の畑にはこんな看板があった。



「ドロボーはたけに入るな」だって。
そうなんだよな。
近所で畑をやってる友達も、
平気で畑の作物を取っていく奴がおるねん
と嘆いていたなあ。

信じられんことするよなあ。

ちなみに、八百屋の店先で
大根を盗むのと、
畑の大根を無断で引っこ抜くのとでは、
後者の方が罪が重いんだそうだ。
とそんな憤りを抱えつつ少し歩いていくと、
天神川に出た。





ここからは川べりの道が続くはずである。

この川は適度に自然を残していて
好感のもてる川だ。



これは都会にはちょっと珍しいワレモコウ。



季節的にバラの咲いていない
バラ園の横を抜けて、



ひたすら川をさかのぼって行く。

ここまで来ると、伊丹空港を飛び立った飛行機も
かなり上空を飛ぶようになる。



やがて川を離れて、
目指すは阪急山本駅だ。

あ、忘れてた。

伊丹のマンふたはこれ。



市の鳥がカモなのに
なぜか白鳥がメインに描かれている。

そして宝塚は
スミレの花咲く頃~
でおなじみのスミレだった。



都会の中の伊丹の散歩道。
都市部にあってなかなか気持ちのいい道が続いていたぞ。
伊丹のイメージが変わったなあ。

こんなコースを歩いた。



後にグーグルの写真で確認すると、
歩いたコース沿いに緑の帯ができていたな。

山本駅から阪急に乗り、



川西能勢口で降りて



JR川西池田に乗り換えて



再びJR伊丹駅へと戻り、
無事に「伊丹に行ってみ」
終わり。


伊丹に行ってみ 3

2015年10月05日 21時19分11秒 | ウォーキング

緑道に入ると、景色と雰囲気は一変した。



緑に囲まれた道を進んでいくと、
やがて左にたくさんの緑を見ながら、
いつの間にか標高を稼いだらしく、
右に伊丹や豊中の町が見渡せる
山麓の道のようになってくる。

この道沿いにはところどころに
こんな道標や



歌碑が設置されている。





歌碑は説明がほとんどないので、
何が書いてあるのかさっぱりわからなかったなあ。

途中にこんな案内があった。



そうかあ、あの現代日本の黎明期に
外交で活躍した白洲次郎は伊丹に住んでいたのか。

年譜を見ると、大正11年に
父文平が建てたここ伊丹の4万坪の屋敷に住み始めた。

正子との結婚もこの伊丹で婚姻届を出した。

東京で仕事をするようになっても、
屋敷は残されたままで
昭和14年頃にはまだそのまま残っていたそうだ。

その後売却され徐々に解体されていき
今に至っている。

写真はその屋敷があったあたりを
撮ってみたもの。



全然わかりませんな。

スンマソ。

マルバルコウや



ヒヨドリジョウゴ、



ヤブミョウガ、



萩の花



が咲く道を進んでいくと、

お、これはタラヨウの木だ。



葉の裏にとがったもので字を書くと、
徐々にその文字が黒く浮かび上がってくるという
「葉書」の由来となった木で、
岸和田中央公園にもあったな。

山麓のこの道は車も入れないし、
時折ジョガーが通り過ぎてゆく
本当に気持ちのいい道だ。

ねこも気持ちよさそうに昼寝をしているぞ。



ところどころにこんなあずまやもある。



ただこの季節、
ゆっくり座っていると蚊が襲ってくるのがいやだねえ。

血を吸うのはメスだけ。
命尽きる前に血をいっぱい吸って
無事に卵をたくさん産まなきゃみたいに
必死なんだそうだ。

ふたつ目のあずま屋の先が



「伊丹坂」。



西国街道の難所といわれた坂なんだが、



いやいやなかなかではあるが、
これで「難所」なのかなあ。



西国街道という京都から下関へと至る長~い道には
もっと難所がたくさんあるだろうて。

そうそう、親父の告別式の時に
久しぶりにお会いした親戚の方は
最近この「西国街道」を歩いておられると言ってたな。

今頃はどこまで歩かれているんだろう。

さすがにdoironとよく似たDNAを
持っておられるなあと
お話をお聞きしながら思っていたもんだ。

doironもいつかこの坂を上る日がくるのだろうかね。

その伊丹坂を横切って
道標を見ながらなおも進んでいくと、



国道171号に出るので
しばらくその大きな車道の歩道を歩く。



そして次の信号で右折し



緑ヶ丘体育館の駐車場を抜けて、



今度は緑ヶ丘公園へと入って行くコースが



美しい日本の歩きたくなる道なのだ。

ここが「下池」で池面に浮かぶ亭(ちん)が、



中国佛山市から友好都市締結5周年の
記念に贈られた「賞月亭」。

中国や韓国ドラマのロケに使えそうな場所やね。

ただしロケに使う時に注意しないといけないよ。

小さな写真なのでわかりにくいけど、
この写真の中に中国や韓国には
絶対にないものがチラッと写っている。

冬ならもっと目立つだろう。

何かわかるかな?

わかったらすごいな。

実は右の林の中にちらっと赤い鳥居が写っているのだ。



鳥居は日本神道独特のもの。
中国や韓国にはないもんね。

池に沿ってぐるりんと回っていくと、



その赤鳥居が現れる。



「緑ヶ丘神社」だ。

この神社の前に広場があり、
どうやらここなら蚊に悩まされることもなさそうなので、
お昼にすることにした。

今日はこれ。



なんと義母さんにいただいた
マツタケごはんのおにぎりと
非常食用に置いてあった缶詰の
消費期限が迫ってきていたので持ってきた。

ところが、さあ食べるぞと
プルリングを引っぱったら、
ポロリンと取れてしまった。



げげ~と焦りつつ続く。


伊丹に行ってみ 2

2015年10月04日 21時17分04秒 | ウォーキング

城跡から東に向かう道にでると、
駅前らしく大きな建物が建ち並んでいる。

これはスーパーなどを含む複合型商業施設。



これは伊丹市立の演劇ホール。



そんな施設を過ぎたところから
広い道に特別な舗装がされた通りが続いていく。



このあたりはしっかり整備されていて、
街灯の柱には
「歴史街道」のシールも貼られてある。



と、その時ある店の植え込みの中に
小さな石が立っているのを発見。

「旧伊丹町」の道路元標だ!



これでこのブログの中で
7つ目の道路元標をゲットしたことになる。

やったあ。

この伊丹郷の発展を支えてきたのが酒造り。

意外にも、灘や伏見などの
良質の水があるというイメージの場所ではなくて、
日本酒の発祥の地はこの伊丹なのだ。

もともと酒は神代の昔からあったとされるが、
伊丹の鴻池郷で大量生産の方法が発明されて
一気に広がっていったといわれている。
その酒は関東に運ばれた。
関東でも酒造りは行われていたが
やはり上方の酒は良質でおいしく
江戸の人々は「下りもの」と呼んで
好んで呑んだという
そんなところから上等でないものを
「くだらない」というようになったのは
有名な話だ。

その鴻池の酒造業で財を成した
「鴻池一族」はその後、
両替商を経て日本一の財閥である
「鴻池財閥」へと発展していったそうだ。

ここはそんな伊丹の観光名所のひとつ



「長寿蔵」。

醸造所と博物館、そしてレストランもある、
お酒の殿堂ともいえる建物だ。

残念ながら、中に入ってみることはしなかった。

いつかあらためて電車で見学に来ようかな。

なおも直進して三軒寺前広場まで行き、



大クスのある法厳寺でUターン。



正善寺の山門では珍しい「蟇股(かえるまた)」を見学。



かつてはこんな彩色が施されていたそうだ。



みやのまえ文化の郷の辺りも散歩してみた。


これは1674年に建てられた
兵庫県内最古の町屋

「旧岡田家住宅・酒蔵」。



今は重要文化財として
昔の酒造りに関する道具や
絵図などを展示している。

杉玉もずいぶんと立派だこと。



そしてこれが「旧石橋家住宅」



こちらは県指定の文化財で、
古い日常生活品の展示や
クラフトショップも設けている。

これらを眺め終わってから、
今度は北を向いて進むことにした。



次に向かったのが「猪名野神社」だ。

途中、こんなホールや



足湯もあったな。



そして、これは面白いなと思ったのが、
「ことば蔵」という市立図書館。



酒蔵などの町屋の蔵が並ぶ中で、
図書館を、言葉がいっぱい収蔵されている
というネーミングをし、
外観もいかにも昔の蔵風に残してあった。



その図書館からすぐのところに
目的の神社の鳥居が建っていた。

これ。



旧平野郷の氏神であり、



宮の前などの地名は
ここにこの神社があることに由来している。

この神社の中にあったのが、

「東の芭蕉・西の鬼貫(おにつら)」
といわれた俳諧師「上島(かみしま)鬼貫」の句碑だ。



鬼貫は伊丹で醸造業者の三男として生まれ、
若くして俳諧の道に進んだといわれている。

代表作が

「にょっぽりと 秋の空なる富士の山」。

名前と同様、にょっぽりとした癖があるね。
(どんな癖や)

この神社に併設して公園があり、
この公園を囲っているのが
かつて惣構えの態をなしていた
有岡城の北の砦にあった土塁の跡。



平野でも平野公園や杭全公園に
土塁や環濠の跡が残っていたっけな。

公園の周りをぐるっと回っていくと、

おお~地面に大量のどんぐりが・・・。



秋やねえ。

そしてその公園の北側から続くのが「伊丹緑道」。

その入り口がこの小さな路地から始まる。



ここまで、有岡城の惣構えの中、
いわゆる伊丹郷の中を歩きつつ
いにしえに思いをはせてきたが、
ここからは都市の中に残る
静かな緑の道をてくてく歩く
第2章の歩きが始まる。

伊丹のイメージががらりと変わることうけあい。

その道は「美しい日本の歩きたくなるみち500選」
にも選ばれているのだ。

どれどれと入って行く



というところで続く。


伊丹に行ってみ 1

2015年10月03日 21時35分51秒 | ウォーキング

さて、人生、出会いあり別れありと
いろいろあります。
人生無常です。
doironも無常です。
相変わらず歩き続けます。

平野に続いて、伊丹を歩いてきた。

平野は周囲を濠と土塁で囲んだ自治都市で、
平野郷と呼ばれていたが、
伊丹の中心部は、
戦国時代に惣構えの有岡城と
その城下町を同じく濠と土塁で囲んだ
伊丹郷を形成していたという関連があったので、
見に行くことにしたのだ。

伊丹といえば、大阪国際空港がまず思い浮かぶ。

かつての大空港のあった街で、
航空法による制限のために
高いビルはないけど、
人がいっぱい住んでいる住宅地
というイメージだった。

だけど、行ってみると驚くほど緑が多く、
歩行に適した静かな道が
延々と続いている町だったので
イメージが大きく変わった歩行となった。

そんな「伊丹に行ってみ」のお話の
ハジマリハジマリです。



阪神高速をビューンと車で走って、
JR福知山線の伊丹の駅前の
市営駐車場に車を入れたのは午前10時30分。
ナビをセットしてそっさく歩き始めた。

これが伊丹駅で、



そのすぐ駅前にあるのが「有岡城跡」。



平成5年に史跡公園として整備され
現在に至っている。
ではその城跡を早速見にこう。

駅前とあって、バリアフリーに配慮がなされた
こんな屋外エレベーターを登っていくと、



駅のメイン玄関の前に



ちょっとした広場が設けられている。
ここに有岡城の説明があった。



フムフムフム。

もともとここには伊丹城があったんやね。

そこへ荒木宗重がやってきたと・・・
んで「有岡城」に改名した、
といったことが書かれてあった。

「惣構え」についても簡単に書かれてあり、
荒木が敗走し、城はなくなっても
町屋が残ったそうだ。

この濠で囲まれた“伊丹郷”は
江戸後期には酒造業の繁栄と共に
発展していったことが書かれてあった。

その広場の片隅に、
「藤」が植えられてある。



そう、あの官兵衛がこの有岡城に幽閉されている時に、
獄窓からみた藤の花の見事さから
後に自分の家紋を「藤」にしたという話がある。

諸説あって、何が本当なのかよくわからないけど、
官兵衛と藤は切り離せないということで、
大河ドラマ開始直前に
伊丹市がここに官兵衛ゆかりの
姫路城の藤の子孫樹を植えたものだそうだ。

その藤を眺めてから、
北側にあるもう一つの史跡跡に向かった。



ここには、城の建物の礎石や



井戸の跡なんかも残されていた。





このあたり酒造りが盛んだったことからも、
猪名川の水だけでなく
湧水も豊富だったんやろな。

その史跡の周りには土塁の跡、



石垣も残されており、



その石垣には蓮の花などが刻まれた
仏像の台座のようなものも使われていた。



この石のことについて書かれた案内が
どこにもなかったのが不思議でござるな。

この有岡城の主である村重は、
戦国の優秀な軍師官兵衛を幽閉しただけでなく、
信長方に追い詰められて
家族を残してひとり逃走した
という汚名を着せられることが多い。

これを見かねた市民が、
村重をかばいだてすべく少し前から立ち上がり、
様々な資料を探し出しては
「実はそうじゃないんだよ」
と村重擁護の活動をしているようだ。

この日も有岡城跡の現場には
一人の女性が詰めておられて、
「これを是非読んでほしい」と言って、
数枚のコピーを配っていた。

それには村重を擁護する考えが
したためられるとともに、
それを証明する資料が見つかったことを告げる
新聞記事の写しまで添えられてあるではないか。

郷土愛というのかな、
それは大切なことだけど、
ちょっと見ていてひいてしまったな。

そんな伊丹郷の核心地をあとにして、
それではここから、
郷の侍町、町屋を抜けて
濠や土塁の跡の残る北の砦方向へと
向かって行こう。

わっせわっせと続く。


ご冥福を

2015年10月02日 19時33分51秒 | マラソン

本日、ランニングチームのおひとりの
悲しい、悲しい告別式でした。

doironがレースに出なくなってから
どんどん頭角を現してきた人でした。
走ることをとても楽しんでいる人でした。
現役の頃にもし一緒にレースに出ていたら
きっと火花を散らしていたでしょうね。

くすもとクン
君の無念さが胸をしめつけます。
でもどうか安らかに。
強く、強く
ご冥福をお祈りしています。


古本売却

2015年10月01日 22時43分57秒 | 生活

ジムでバイクに乗りながら読む本は
基本的に図書館で借りるが、
なければ古本屋さんで
200円以下で買う。

そうして大体ひと月に5~6冊を読む。

また旅行や山の案内本もよく買う。
地図はそんな本の中から、
行こうとするところを見つけ出して
コピーして持ち歩くようにしている。

だから地図本は、山歩き、街歩き、
名所旧跡歩き、旅行に分類して
きちんと大切にストックしてあるのだが、
小説などは読んだらどんどん
段ボール箱に入れていく。

あ、もちろんもう一度読みたくなるかも
というような本は、保存してある。

で、一年くらいたつと、
小さい段ボール箱がいくつかたまるので、
それをもう一度古本屋さんに持って行って
売りさばくのだ。

え~っと、このブログの歩きネタも
最近たまりがちなのに
こんなことを書いている場合ではないのですが、
まあ歩きネタばかりだと飽きるでしょ
というdoironの心遣いなのである。
それにネタはたまっても
買い取ってもらえないし

それはさておき、先日くだんの古本屋さんで、
買い取りフェアをしていることを知り、
あわてて段ボール二箱分、
約50冊を持ちこむことにしたのだ。

大半は、その古本屋で買ったものなのだが、
前に店員に訊いた話では
それでも引き取るということだったので、
そうしたわけだ。

カウンターに本を渡して
番号札をもらって店内で待つこと約10分。

自分の番号がコールされたので、
カウンターに行ったらまず

「これらはお値段をつけることができないものです」

といわれたのが約20冊あった。

「じゃ処分してください」

と聞き分けよくお願いしておいた。

「あと残りの分については、
これだけで引き取りとなりますが
よろしいでしょうか」と言いながら
明細を見せてくれた。

見ると、トータルは850円。

当初ほとんどがここで買ったものだから
200円くらいにしかならんだろう
と考えていたので、
フェア中であることを加味しても
上出来の値段ではないか。

でも「うれぴー」とは決して言わないよ。

そりゃあ顔には出てたやろけど・・・

そんな顔で「しゃあないな」
といったところで、説得力はない。

素直に
「はいわかりました。オッケーです」
と答えておいた。

現金を受け取り、家に帰って
明細をつぶさに確かめてみた。

すると、ちゃんと本屋で買ったので
値段がそこそこつくだろうと思っていた
iPhoneやiPadの取説本はなんと1冊¥5。

もう機械のバージョンが古いからかなあ。
でも、需要はあると思うんやけどな。

そしてこの店で買った、
かなり古い文庫やハードカバーも¥5。

うう、悲しい値段だ。

ところが次を見て驚いた。
雑誌に150円もの値段がついている。
しかも3冊。
月間陸上競技やツールドフランスの雑誌だろう。

その他のビーパルなんかにも
70円の値段がついていた。

雑誌は結構いいんだな。

そしてさらに、この店で
100円で買ったであろう文庫にも、
比較的きれいなものには(多分)
40円の値段がついていた。

それを見て思ったね。

これからは100円で買う時でも、
棚に同じものがあるなら
じっくり比較して
少しでもきれいな方を買うことにしようってね。

本来ならゴミとなるべきものに
値段がついて、
しかも部屋がちょっとスッキリした古本売却。

何度か利用をさせてもらっているが、
いやあ、乱読の人間にとっては
とってもありがたい制度であります。