ハブ ア ナイス doi!

いつまで続くのかコロナとの戦い。
全て解放されて、もっと、もっと
心から楽しまないとねえ。

熊野古道大辺路突入5

2018年09月20日 21時13分13秒 | ウォーキング

櫟原神社は旧諏訪神社、
梅田神社、厳島神社、岩崎神社の
4社を合祀した神社。



その名前からこの周辺には櫟すなわち
クヌギやイチイが生えていたんですかねえ。

道標からしばらく歩いていきますと、
参道が左手に見えてきます。
坂道を登っていくと本殿です。



そこにはまず「庚申さん」の
お堂があります。



この辺りは庚申信仰が盛んですね。
熊楠はインドの神が化身したもの
と言っておりますが、
確かにその姿を見ると
ちょっと異国人風ですねえ。

そしてこの納札所は大きな
クスノキで出来ています。



本殿でお参りしていますと、
そこに祭神がかかれています。



合祀された神社ですから
祭神は多いです。
その中の一つに「若一皇子権現」
とあります。
これもやはり熊野三山に絡んでおり、
「若一」は「にゃくいち」と読むようで、
最近は天照大神とかぶっている
ことが多いようです。

そういえば手前にあった大潟神社も
「若一王子神社」といわれていましたね。



この辺りはやはり熊野信仰と
ジンワリと絡んでいます。

この櫟原神社の辺りで、
今回歩くコースの中間地点くらいになります。

神社を出て大辺路の案内に
沿って進んでいきます。



このあたりはまた田園地帯に
なってきましたねえ。



お米も実って頭をしっかり下げています。

稲刈りももうすぐですねえ。

ちょっと何となく滑稽な
飛び出し小僧を見ながら歩いていきますと、



交通量の多い道と交差していきます。

お店の看板を見るとなんか
見た記憶があります。



地図で確認してみますと、
この道を横切って進んでいきますと
中辺路へと進んでいくようで、
これまで何度も通ったことのある道です。

ああ、そうかああの時は気が付かなかったけど、
中辺路の行きかえりに車で
大辺路を横切っていたんですねえ。

そんな道と交差してなおも
まっすぐ進んでいきますと、



魚のひもの作成現場に出ていきます。
その先の店先の若い人に聞くと、
今干してあるのはアユだそうです。



ふ~ん、アユてそのまま焼いて
食べるのかと思ったけど
こんな干物もあるんですねえ。



富田川に向かって進んでいきますと、
うわ~ここの橋は潜水橋です。
名前は山王橋と言います。

橋面が堤防より低くて
大水が流れてきたら橋もながされます。
四万十川みたいですねえ。




橋面のところに立って記念写真。
ここが今回のメインの場所かなあ。



この写真で四国に言ってきました
っていえるかもねえ。

そしてこれは渡り終えてから
後ろを振り向いて撮った写真です。



いやあなかなかいい景色じゃないですか。
ネットで見てみると2011年頃の
台風で流されたようですねえ。
これがなかったら地域の人は
とても不便をするでしょう。

誰か自転車でもこないかなあ
と思ってみていましたが
来ませんでしたねえ。
普段はそんなに通行量が多くないと
思います。
自転車じゃ乗ったまますれ違えんでしょう。

橋を渡って堤防の道路に出たら
右折して川を下る方向に歩いていきます。

川沿いの道の端っこを
車に注意しながら歩いていきますが、
う~んなんかこの辺は口熊野マラソンで
走ったような気がしますねえ。
違うかなあ。



この辺りを歩いている頃は
かなり暑くなってきました。
このあたりは影もほとんどなく、
最後の夏休みにふさわしく
汗まみれになっていましたよ。

途中大きな木の日陰がひとつありました。



ここで少し休憩です。
いいところにある地蔵さんですねえ。



この辺りで川の向こうに
岩崎神社とかあるのですが、
まあ山王橋が崩れてて
川を渡れないときには
そちらを訪ねなさいということですかねえ。

さあて前方に大辺路の道案内が
見えてきました。



ここを左折して、田園地帯を歩きつつ
厳島神社の方へむかいましょう。



この辺りで持っているお茶も
残り少なくなってきました。
自販機があれば購入しましょう。

やがて左側にこんもりした
神社の山が見えてきました。



厳島神社です。

続く


熊野古道大辺路突入4

2018年09月19日 20時42分05秒 | ウォーキング

空海の痕跡はあちこちに残っています。
熊野古道には爪書き地蔵や
弘法井戸などおびただしい話があります。

先日歩いた斑鳩にも数多くありましたし、
神社仏閣を訪ねた旅では
ほんとうに彼が出てこない方が
少ないくらいです。

実際、doironが住んでいる街にも
弘法大師のお寺があります。
火事で一度燃えましたが、
本尊だけは無傷で残っていたという
伝説があるのです。

めったに軒先なんか写真にとらないのに、
今回、民家の軒先にあったという
弘法井戸に思わずカメラが
向いてしまったのも、
彼の導きがあったのかもしれません。

それにしてもこの辺りで、
弘法井戸を探していたのですが、
なんとパチンコ屋の名前が
「パチンコ工房」で、



陶器屋の名前が「なんとなく工房」



だったりして、弘法と工房かあ
となんか変な感じでした。

さて、弘法井戸の次の見どころは
「糠塚」というところです。
糠塚とはだいたい古墳に対して
よく言われる言葉なんですが、
ここではぬかるんでいたから
という説が有力だという話があります。



この付近には朝来大沼が広がり、
降雨で沼水が道を浸すと
通行不能になったというところから
つけられたという説があるようですが、
これもはっきりしていません。

東北や滋賀県など各地に
糠塚という地名があるようですが、
それぞれ理由がありそうです。

弘法井戸の地域を抜けて歩ていきますと、
右手に小山が見えてきます。
これが糠塚です。

なんかよく読めない石碑や山頂に
お洞がありました。
何となく平地にポッコリと
見晴らしのいいところでしたねえ。



ここからしばらくは国道を
歩いて進んでいくと、
道路はJRの朝来の駅のところで
高架になっていきます。



うわー、この歩道のない効果を
渡っていくのかと思ったら、
どうも側道を歩いていくような
標識が立っています。

ああ、よかったです。

車の安全を小学校で講習しているので、
こんなところを歩いて車にはねられたら
「あのおっさんアホやなあ」
と言われそうです。

下道を歩いていきますと前に
大きな階段が見えてきました。
電車の線路を超える歩道橋ですが、
とても頑丈そうです。



登ろうとすると前から
女子高生が降りてきますが、
いいですねえこういう田舎の若い子は、
きっちりと「こんにちは」と
あいさつしていきはります。



歩道橋の上から見ますと、
JRも単線、こんなマンふたを持つ
上富田町を進んでいきます。



大辺路の看板に沿って進んでいきますと、
あ、ここの家は変わった野菜を
植えてはりますねえ。
真っ赤なピーマン、



そしてこんな
変わった色のなすびです。



あ、このなすびの名前はわかりますよ。

きっと「ボケナス」でしょう。

そしてこんな和歌山の安全犬
「きしゅう君」の石の案内も
ありますねえ。



電柱にはよく張られていますが、
こんな石のは初めてです。

え~「きしゅう君」は和歌山県警察の
マスコットキャラクターです。
独身だそうですが、それ以上のことは
個人保護のため言えないとのことです。
こうして街中を進んでいきますと、
ああでかい熊野古道の道標がありました。



右大辺ち 左中へちと刻まれており、
紀三井寺への案内もあります。



側面を見ますと去年の三月に
作られたようで、新しいですねえ。

じゃそれでは記念写真を
とっておきましょう。



あ、背後の掲示板に続きの
案内の紙が貼られていますよ。



櫟原神社への案内と熊野古道大辺路に対する
和歌山推奨ルートの案内図です。

ではこの案内に沿って
進んでいくことにしましょう。

続く


熊野古道大辺路突入3

2018年09月18日 20時40分42秒 | ウォーキング

なぜ神社の名前が「大潟」なのか、
これも調べてみましたが
わかりませんでした。



もしかしたら、さっきの広い川が



海に注ぐ前に大きな干潟を
作っていたのかもしれませんねえ。

この大潟神社に入っていきますと、
右手に本殿に登っていく
階段が続いています。
その階段の入り口のところに
こんな碑があります。



「安政津波の碑」です。

右側には津波の高さが刻まれています。



調べたら標高7m。
ウヒャー、こんなところまで
押し寄せたんですねえ。
でもその上にはさらに驚きの碑が・・・。

なんとそこには「宝永津波の碑」があります。



安政より150年くらい前ですねえ。
高さは13m以上で、ここまで



津波が来たらもう町は全滅だったでしょうねえ。

でもねえ、周期的に考えたら
次の津波はというと、まさに
今くらいですねえ。警戒しないとねえ。



そんな石碑を見ながら
本殿に出ていきます。

そこの高さはこんな感じ。
まあここまで来たら
津波も大丈夫でしょう。



さあ、ではお参りをしたら
山を下りて大辺路をまた
進んでいきましょう。

道はここから山の方に
登っていきます。



う~ん、結構な急坂。



きっとこの後の台風21号の時には
倒木で通れなくなったかもしれませんね。
どんどん上がっていきますと
道は国道の上を超えていきます。



山道ですねえ。
道にはトカゲなんかも数多くいます。



そして出てくるのが道わけ地蔵ですね。



中をのぞいてみますと、
地蔵さんが二人います。



向かって右側の地蔵さんの背が
道標になっていますよ。

「右ハ大へち道」
「左ハ熊野道」と刻まれています。

周りは静かな山なので、
昔の人は結構たよりにしていたんでしょう。
こんな看板もありますよ。



なんかほんとに猫おやじみたいな人が
経営してそうなお店ですねえ。

道にはこんなヤマユリが咲き、



黄色いカラスウリも実っています。



鳴いている蝉もツクツクボウシでしたねえ。
夏は終わり秋がジンワリと
広がり始めています。

山道を下っていきますと、
にぎやかな場所に出ていきます。
こんなヒシがいっぱいはびこっている
その池の横に峠の高地蔵が祀られています。



もともとは手前の山の峠に
あった地蔵なんだそうですが、
かなり登っていかなくてはならなかったので、
今はこうして低いところに
移動させているそうです。



う~ん、峠の高地蔵だからなあ、
ちょっと微妙な移動ですねえ。

広い広場の奥にお堂があり、
見た感じ変わった彫り物が見えていましたが、
全貌はわかりません。



周りにはこんな石も積まれていました。



その先で道はなんか見覚えのある道ですねえ。
ああそうかあ、中辺路を歩きに行くときに
車でよく通った道ですねえ。



この道を左折して進んでいきましょう。

左折して右側を歩いていましたが、
この時反対側の道路沿いに
峠の大師堂がありました。

道の向こう側やしなあ、
中身はなんかよくわかりません。
車の通行が多くて、なかなか渡れません。



道の向かい側から写真を撮っておきました。

大師堂だから弘法大師でも
祀ってあるんでしょうねえ。
この辺り弘法大師とは
何か関係があるようで、
この先に弘法大師が彫ったという
弘法井戸があると資料には出ています。

どこかなあ、とか思いながら
探しましたが見つかりません。
何か立て看板でもあるのかなあ
と思いましたが何も見つかりませんでした。

もしかしてこんな家の庭にある
井戸がそうかなあとか思い、
写真をこっそりとっておきましたが、
これがヒットしましたねえ。



あとでネット見てみたら
民家の軒先にあるこの井戸が
どうやら「弘法井戸」なんだそうです。



まああちこちキョロキョロする眼が
役に立ちましたねえ。

あの斑鳩で見た弘法大師の彫った
500番目の井戸である
「在原業平姿見の井戸」と
どちらが古いかなあ、
なあんて考えてしまいます。

続く


熊野古道大辺路突入2

2018年09月17日 21時09分03秒 | ウォーキング

最初にこの神社にお参りするつもりだったので、
この日は神社の納経帳を持ってきていました。

なので社務所で記載してもらうことに。

若いお兄さんが写経所にいますので、
納経帳を渡すとプラスチックの
引換券を渡してくれ、
これで交換しますというではありませんか。

他の客は一人もいなかったのにね。
仕方なく、納経書を預けて、
神社のお参りをしていきましょう。

そうしてしばらくしてから
社務所に人の姿が見えたので、
納経書を受け取りに行きました。

おお~ここの朱印には赤白の
鳥のハンコが押されてましたね。



受け取り時に若いお兄さんが
いろいろ話をしてくれました。

「歩きに行くんですか?」
と聞くので「大辺路を歩きに行きます」
と答えると
「ああ夏はいろんな人間が遊びに
来てるから気を付けないとねえ。
海岸を歩くときは海水浴の客も
いっぱいいるしねえ」
とアドバイスしてきはります。

いやあ、大辺路でも海辺近くを
歩くのはもっとずっと先やろ
とか思いながら話を聞いておきました。

まあ注意して歩いてくださいよ、
とのことでしょう。
それよりお兄ちゃん、
つけてる眼鏡をもう少し
整備してくださいよって
感じでしたけどねえ。

まあアドバイスありがとうございます。

ああ、ここではこんな朱印帳
なんかも販売しているんですね。



確か前に来た時はなかったと
思うんやけどなあ。
最近はこんな神社の御朱印を集める
「神女」も増えているかもしれませんねえ。
いろいろと親切にしていただいた
親切兄さんのいる神社でした。

さあ、doironは相変わらず
プラプラ歩く「歩きおっさん」です。
大辺路の続きを歩いていきましょう。
神社の北側の道を進んでいきます。



こんな道標が建っていますよ。
支柱の下の方には「大辺路」の
文字入りなので、しばらくは
こんな感じの案内になるのでしょうね。

そして、こんな大水害100年の
記念碑が立っています。



石の上部のところまで
水に浸かったという感じですねえ。

消防団の作った記念碑のようです。

そしてその先で導き地蔵に
見送られて登っていくのが



「礫坂(つぶりさか)」といわれる坂道です。




いやあ、名前通りだとなんか
とてもしんどそうな・・
つぶれそうな・・・そんな感じの傾斜です。



そのいわれはと調べてみましたが、
これも特に記載を見つけることは
できませんでした。

漢字通りの名前だとすると、
「礫」と小さな石のある坂なので、
そういう整備がされていた
のかもしれませんね。

で、この辺りは、ちょうど高校生の
通学時間帯で大量の自転車が
doironを追い越していきました。

中には高給なロードバイクに
乗ってる高校生もいたなあ。
自転車部とかそういう生徒かもしれません。

コルナゴでカーボンリムの付いた
高給そうなやつでしたなあ。

そして、こんなところに
MUSIUMとかありますよ。



ここで音楽大会とかあるのかなあ
と思ったら、なんとこういう名前の
パチンコ屋さんでした。



う~ん、まるで公共施設と
間違えてしまいますなあ。

すぐ近くに海が見えるほどの



場所を進んでいきますと、
紀伊新庄駅の近くにさしかかります。
この辺りから熊野古道は
海から少し離れたところを
進んでいきますね。



「名喜里」という何かいわれの
ありそうなところから、
こういう川沿いを進んでいきますと、
大潟神社へのこんな標識があります。



なんかこの辺りは地名のいわれが
それぞれありそうですねえ。

この神社も元は熊野古道沿いに
「若一王子社」としてありました。



若一王子という名前は各地に
存在しますねえ。
藤代王子や出立王子も
そう呼ばれてました。

どこが本殿なのかわかりませんが、
こういう名前で社が
分祀されていたんでしょうねえ。

それが山頂に移されたときに
「大潟神社」という名前にされたそうです。



続く


熊野古道大辺路突入1

2018年09月16日 21時37分00秒 | ウォーキング

8月も間もなく終わる、
そんな時期のことでした。

ああ、今年の夏は海に行かなかったなあ。
今年の夏の思い出と言えば、
孫ができたこと、絵の展示会をしたことと、
そして地元市広報の仕事を
することになったことかなあ。

まあ孫と言っても会ったのは
1度だけなんですが、
最近は息子が毎日のように
写真を撮ってきて送ってくるのを
楽しみにしているのです。



先日はテレビ電話で
呼びかけたりもしたなあ。

孫孝行も姿が変わるものです。

広報の仕事は昔を思い出して
機嫌よくやってます。
あの時できなかったこんなことを
気軽な立場になったのでしてみようか、
なんて思いをふくらましながら
楽しんでいるのです。

描いた絵が売れたり、展示会をしたり、



以前は地元の新聞紙、今は市の
広報の仕事と全然本格的ではないのですが、
それなりにクリエイターとしては
実績を積んでいるといっても
いいかもしれません。

まあ何ももう実績をネタにして
どんどんやっていこうというような
気はないのですが、
趣味的にしてもそれなりに
まあまあ充実していますよねえ。

まあそんな今年の夏だったのですが、
あと足りないものと言えば
やっぱり歩いて動き回る遊びやなあ。

夏の大好きなdoironとしては
しっかりと遊ばないとねえ。

だったらさあ8月末に、
今年最後の夏休みを経験してみようかと
思い立ち、熊野古道の大辺路を
歩きに泊りで遊びに行くことにしたのです。

大辺路は熊野までの残っている経路で
海沿いに紀伊半島を歩いていくコース。



スタートは紀伊田辺から
南向いて歩いていくので
スタート地点が遠いんだよね。
なので平日の夜に車で出発し、
朝早くから大辺路を歩くという方法を
とるのもいいなあと考えたのだ。

まあ、どこでも寝れるdoironにとっては
こういう夜更かしは軽いものだしね。
高速道路、みなべのサービスエリアで
こっそり持ち込んだビールを
飲みながら朝までぐっすり寝たよ。

う~ん、いい夏休みの夜じゃあ、
あーりませんか。

しかも翌日はいいお天気で、
予想していたよりも暑くなりそう。
でもまあ今年最後の夏休みですから、
しっかりと歩くことにして、
もう六時くらいには出発して
30分後に紀伊田辺の有料駐車場に到着です。

以前も何回かとめたことのある駐車場です。

あ、そうかあ、ここで寝るのも
いいかもしれませんね。
でも自販機ないしなあ。

さあ、では久しぶりに熊野古道に
出発しましょう。

今日は19キロくらいを歩く予定です。
まずは紀伊田辺の駅に行き、



地図とか資料を見ようと思いましたが、
朝早いので観光案内所はまだ開いていません。

仕方ないので手持ち資料に基づいて
大辺路を歩いていくことにしました。

ナビを入れてまずは
「闘鶏神社」を目指します。

駅前の商店街もまだ閉まったままですねえ。



ここはアオイ通りというそうです。
道案内なんかもしっかりつけていますねえ。



こういう表式に沿って



左折していきますと、
正面の方に闘鶏神社の鳥居が見えてきました。



この神社の由来はこうです。

弁慶の父親である「湛増」は



白の鳥7羽と赤の鳥7羽を戦わせて、
白が勝ったので源氏の見方をすることになり、
ここから熊野水軍で弁慶とともに
源平の戦いに臨んだという歴史から来ています。

いやあ日本の歴史って
こういうなんてことのない
争いで決まっていったりしたんですねえ。

そしてこの神社は中辺路と大辺路の
合間にあり、熊野の別宮的な存在
でもあるので、ここにお参りして
熊野まで行かずに参拝していて
引き返したという人もいたそうですよ。



でもdoironは行きます~。
頑張ってここから歩いていきましょう。

続く


斑鳩と台風21号の余波

2018年09月15日 21時21分44秒 | 最近の出来事

今日は小ネタを二つ。

斑鳩の帰り道、何かお土産でもと思い
コンビニで地域の物はないかと
探してみました。

え~っと、聖徳太子を印刷した
旧10000円札を500円くらいで
売ってないかなあ、
とか
法隆寺の形をした丸かぶりポンセン
とかないかなあとか探したのですが、
これというのがありません。

まあ今回は土産は置いとくか、
と思ったその時です。
こんな焼きそばを見つけました。



ペヤングの激辛焼きそばです。
始めて見ましたので、
これは是非買いです。
本日のお土産として持って帰りました。

「う~ん、僕は実はこんなに
激辛な遊びをしてるんだよ」
という無言の提示です。

え?激甘じゃないのか、
と言われてもそうかもしれませんが・・・。

で、翌日、雨模様のいつもの
つつましい昼飯にこれを
添えてみることにしました。



見た目はさほどからそうではありません。
でもねえちょっと入れ物の内側に
こびりついたソースの跡を見てください。
からそうでしょう。

しかし、とはいえコンビニで売ってる
くらいですから、大したことはないでしょう。

一口食べてみましょう。

と顔を近づけてみると、
ゴホゴホッ、う~んちょっと
においから、からそうやねえ。
頑張ってみるかな。

モグモグ・・・・・
・・・・・・

ウヒャー、辛い。

こんなのを市販してていいのか。
口の中が大火事やぞ。
消火器はどこだあ。
水をくれ~。
そんな感じで食べましたよ。

ミセスはもうにおいを
嗅いだだけでギブアップです。

しかし、doironは僕の歩きは
こんな感じだぜと偉そうに言った手前
食べないわけにはいきません。

へへへとぼさぼさの髪の毛を
逆立てながら行きましたね。

うん、これは辛かったねえ~
と半分笑いながら言いましたが、

ミセスいわく
「もうぼさぼさの髪の毛も
どんどん抜けていってるみたいだし、
おでこに滝のように汗が流れているよ。」

いやあ、これはもう全く大変でした。
こんなのがあるんですねえ。
お店で見かけたらあなたも
是非チャレンジしてみてください。

ふたつめの小ネタは台風21号です。

台風による大荒れもようやく
落ち着き始めたころです。



神社もこんなに片付きました。

でもその後月曜日の朝に
すごい雨が降りましたよねえ。

その時は少し外に用事で出かけていたのですが
ミセスからメールが来ました。

「雨漏り、発見!」とのこと。

え~そうなんかあ。
軒先だけだったら行けるだろうと
安心していたのですが、
雨が割れた瓦の隙間から
しみ込んだんでしょうねえ。

これはシートを手配しなくては、
と思っていたら、さらに3か所ほど
漏れているのも発見!とのこと。

家に帰ってから調べてみると、
二階の屋根ではなく、
その下の一階の屋根からの水盛のようです。

雨上がりに排水を見てみると、
こんなふうに瓦の土が流れ出しています。



まあ、普通の屋根でも雨漏りするくらいの
強烈な雨だったのですが、
中もこんな感じでじわっと漏れています。



これは大変だと修理にかかります。

屋根が渇いてから上に上がってこわごわ作業。

土嚢も近所のマージャン友達にいただきました。
あとはねえ端っこを屋根の梁にひっかけて
と作業しようと思ったのですが、
これは無理でしたね。
なんか屋根に寝転んで作業していると、
胸の下で「バリっ」とか響くんで、
結局土嚢にひもを巻き付けて
抑えのようにして固定です。

まあ、屋根屋さんの修理が始まるまで
これで様子見ることにしましょう。



ジムの床も雨で湿っているし、
いやあ、台風の影響はまだまだ残っていますねえ。

夏の終わりの小ネタ二つでした。


斑鳩はいかが?5

2018年09月14日 20時58分01秒 | ウォーキング

この斑鳩町役場のそばには



「継子地蔵」

といわれる地蔵さんがあります。



昔、継子として親にいじめられている
子どもがいました。
この地蔵がご飯を食べたら
おまえにもたくさんご飯を
食べさせてあげるといわれ
いじめられていたのですが、
あるときこの地蔵さんが
ご飯を食べたそうで、
それを知った継子が子を
いじめなくなったという
話があるそうです。

弘法大師が彫ったこの地蔵は、
それから継子地蔵と
いわれているそうです。

そしてその横にあるのが



「在原業平の姿見の井戸」

といわれています。

これはまたちょっと変わった話で、
業平が自分の姿を見た井戸ではなくて、
その井戸の横の木に登っていた業平の姿が
その井戸水に移っており、
彼を追いかけてきた女性が
そのまま井戸に飛び込んだ
というお話があります。

そしてこの井戸は、
なんとこれも弘法大師が彫った井戸で
500番目の井戸だった
という説も残っているようです。

いやあ、業平ももてたんですねえ。

道路から少し内側にあるので
見落とさなくてよかったです。

ここからしばらく交通量の多い
国道25号線を歩き、



斑鳩小学校が見えてきたところで



内側の道に入っていきます。



そして小学校の横の狭い道に
右折して入っていきます。

この道も当麻の安らぎ道です。



学校に沿ってしばらく行くと
前方に小さな山が見えてきました。
もう見るからに古墳ですね。



その名も「斑鳩大塚古墳」。

被葬者が誰なのかは不明なんですが、
斑鳩でも最古級の円墳です。



これまで銅鏡や武器類のようなものも
出てきたそうです。

現在は東側から道がついていて
「忠霊碑」が建てられ、
昔の古墳から少さわられた格好で
残っています。

それからさらに田んぼの中の道を
南下していきますと、
右手の方に森が見えてきます。



それが伊弉冊神社です。

地図では伊弉冊命神社となったりしています。
いずれにしてもいざなぎ神社
あるいはいざなぎのみこと神社
といわれたりします。



ここ斑鳩の最古級の神社で、
重要文化時にもなっているところですね。



その先の細い道を進んでいくと、
この辺りも田園が広がっていますねえ。
道はどんどん南に下っていき、
広い道路に出ていきます。

それを左折して住宅街を進んでいくと、
法隆寺駅のところに出てきます。



さあ、ここから法隆寺の駐車場まで
となると、車の多く通る道路を
こそこそと歩いて
いかなくてはなりません。

でもなあ、この日もまだ暑かったし、
退屈そうな道なので
イヤやなあと思いつつ、
バスの時間を見たら10分くらいで
法隆寺行きのバスが
出そうじゃありませんか。

まあ今回はこれに乗りましょう。

コンビニで冷たいジュースを
一本買って、またすぐに今度は
駅の南側を歩く歩行に
やって来る予定なので、
法隆寺の駅の周りの駐車場も
確認してバスに飛び乗ったよ。

一律どこまで乗っても
190円のコミュニティバスでした。

結局この日歩いたのはこんな感じ。



駅からの二キロくらいはバスなので、
歩いたのは合計10キロくらいでしたねえ。

それにしても暑い暑いとはいえ、
ようやく耐えれるような感じで
こんな歩きもできるように
なってきました。

秋にはどこへ行こうかなあ
などと考えながら、
法隆寺の駐車場から車に乗って
帰っていったdoironなのでした。

おしまい。


斑鳩はいかが?4

2018年09月13日 21時13分08秒 | ウォーキング

この川沿いの公園当りは
竜田城の城跡当りとなります。
初代藩主は片桐且元で
広大な城を築いたそうです。



山の上から眺めた藩の景色は
こんな感じで、この橋の架かる川は
お堀だったかもしれませんね。



公園の中の草むらの道を、
蛇に注意しながら歩いていくと、
下っていく道のところに
出ていきます。
それをさらに南側におりていきますと、
イカルガパークウェイに出ていきます。

これが「新たつた道」といわれる
国道25号のバイパスです。



今度はそれを東向いて歩いていきましょう。
この辺りは、マンふたも法隆寺ではなく
町の木のくろまつと
町の花サザンカになっていますねえ。



きれいな国道沿いを歩いていますが
ちょっと面白くないので、
いけそうな田舎道を登っていき
村中へと入っていきます。

この辺りは龍田6丁目あたりになります。

しばらく歩いていきますと、
道はまたまた25号のバイパス方面へと
戻っていきます。
どうも道がややこしいですねえ。

で、25号バイパスに再度出たころに
「白山神社」があります。



おお~ここの百度石も
でかくていいですねえ。
百度石コレクションも充実していきます。

さあでは再度25号バイパスを
進んでいきましょう。

この日は暑い日でしたが
道路の木の影は涼しかったですねえ。

一か所でちょっと休憩。
木陰でポンセンを食べたら
うまかったなあ。



なんか奈良公園で日陰で
鹿せんべいを食ってる
シカみたいですなあ。

さあ頑張っていきましょう。

田舎の広い国道を歩いていたら
左手に大きな神社の
森が見えてきました。

あそこがポックリ寺といわれている



「吉田寺」

です。
建物は重要文化財なんで
見ていきましょう。



門をくぐって、暗い境内に
入っていきますと
入り口があります。



ああ~ここは有料ですねえ。

支払い所には誰もいないしなあ、
まあ仕方ないのであきらめましょう。

入ったのは正門じゃなかったようで、
ここから境内の入り口となっている
階段と鳥居をくぐって出ていきます。

すぐに新しい道に出るのですが、
この辺は古いものと新しいものが
混在していますねえ。

古い田んぼがずっと広がっています。

よく見るときれいに区画整理
されているような土地で、
昔の条里制の名残がこの辺りには
残っているといわれています。

まあそういう歴史的なことよりも、
なかなか広々としていいものですねえ。

さあではこの辺りから、
道は斑鳩町の中心地へと
向かって北上していきましょう。

この経路には「当麻街道安らぎの道」
という名がついていますねえ。



法隆寺と當麻寺をむすぶ
信仰の道ということで
ついているらしいのですが、
當麻寺は遠いよなあ。



なぜいきなり當麻寺なんでしょうか。

そういえば最初に見た
藤ノ木古墳に置かれてあった
石棺は二上山の石といわれています。

この辺りの道を使って
ウンコラセと運ばれてきたのですかねえ。

いくつも道標が建っていますから、
昔の道標とかが
残っていたのかもしれません。



途中、こんな管神社なんかも
ありますねえ。



結構境内は管理されているようです。



ここを過ぎたころから
まわりは結構にぎやかになってきます。
斑鳩町役場も見えてきますし、
コンビニもあります。
そういえばもうお昼ですねえ。
先ほど木陰でポンセンを
一枚かじっただけなので、
ここでお昼ごはんとしましょう。

今日はこれだけです。



うう~かなしい。
こうして少しずつダイエットに向けて
頑張っていかないとねえ。

斑鳩町は人口28000人の小さな町。
でも歴史たっぷりでいいところですねえ。
大阪にも近いしなあ。
山も少なくて平坦だし、
高齢者にも意外に住みよい
街なのかもしれませんね。

続く


斑鳩はいかが?3

2018年09月12日 20時41分58秒 | ウォーキング

藤ノ木古墳を後にして、



ではさらに西部の方へと
進んでいきましょう。

田んぼに囲まれた田舎道ですねえ。
いいですねえって、
あまりうちの近所と変わりありません。

この辺の人はずるいというか、
合理的というかすごいんです。

田んぼの中にいてた
ピンクの卵を産むジャンボなタニシ
(スクミリンゴ貝)を
退治しているのですが、
捕まえては道路にまいているのです。



車が踏んでやっつけられるだろう
という判断なんでしょうが、
タイヤ径の細いロードバイクだと
踏んでこけちゃいそうですねえ。
本気で退治するなら、
琵琶湖の外来魚みたいな
回収箱を作らないとなあ。

その名も「やっつけちゃったカイ」
なんてどうでしょうか。

行政対応でやっつけるのなら
いい方法だと思うけどなあ。
まあ中には有料で引き取るという
自治体もあると聞きましたがね。



そうしてたまに地蔵が
あったりする地域を



歩いていきますと、
到着するのが「龍田神社」です。



いやあ、境内の木も
気合が入っていますねえ。
蔦がぐるぐるです。



境内に入っていきますと
「金剛流発祥の地」という
石があります。
これは「空手」ですか?
とおもったら能楽の一流ですね。



もう少し南の「川西町」のあたりに
「結崎流」というのが
発祥してましたねえ。
その石を取材したことがあります。

この辺りはこういう能楽が
熱心だったんでしょうねえ。

そしてここの境内で
一番驚いたのが「百度石」ですねえ。

これまで訪れたお寺や神社で
百度石があれば必ず写真を撮ってきました。

もう200枚近くあるんじゃないかなあ。
かつて「千度石」というのも驚いたし、
特徴のあるのは数々ありましたが、
ここの神社の百度石はすごい迫力でしたね。

これ。



もうこんな百度石なんかだったら
簡単なお願いはできませんね。

「地球に平和が訪れますように」

くらいはいのらないとねえ。

蘇鉄、



クスノキ。



しっかりお参りをして
続きを歩いていきましょう。

この辺り「龍田」は古い家も続く
古くて静かなまちなみです。



古くから万葉集などでも
「龍田」のなまえはよく見られます。
昔から「龍田越え」はここの
龍田を通る道で、先日歩いた
大阪の柏原市高井田に
通じる道を言います。

それだけに交通の要衝
ということは市場町としても
大変発達した場所だったりします。



こんな虫籠窓のある古い家々や
うだつの上がる家を撮影しながら



歩いていると、前から歩いてきた
高齢者がじっと眺めています。

「こんにちは」とあいさつすると
「古い家を撮影しているんやなあ」
と話しかけてきます。
「あ、そうですねえ。
この辺は古い家が多いですねえ」

「そうやねえ。この先のワシの古い家も
良く写真撮っていかはるわあ」
「昔からの家なんですか」
「というてもリフォームして
92年の家なんやけどなあ。
実は孫が結婚してなあ」
お孫さんがいてるんですな。
「ほんで今は倉庫を改良して
そこに住んでるわあ」
とまるでdoironを知り合いのように
話しかけてくるんです。

これはまあこの後も話が大変そうなので、
少ししてから
「OOさんですね。
そこの家も撮っておきます」
といい置いておさらばです。

いろいろと話を聞いてもらうのが、
きっと趣味なんでしょうねえ。

その家が多分これです。



フーン、立派なお家ですねえ。
きっと若い時は色々と
苦労されたんでしょうねえ。



今は開けているのかどうか知りませんが、
こんな石鹸屋さんや



田舎の立派なヨロズ店も並んでいましたし、



商店街のはずれでは
杉玉をぶら下げている
こんな酒屋さんもありましたよ。



斑鳩の地酒

「初時雨」



なんかを作ってはりました。



そんな龍田の古い街並みや
商店の通りを抜けて、
竜田川の方の村中へと進んでいきます。





途中こんな狭い道を
通り抜けつつ進んでいきますと、
川沿いに設けられた
公園に出るのです。



この中を抜けていく予定なんですが
「マムシ注意」だそうです。
気を付けていきましょう。



続く


斑鳩はいかが?2

2018年09月11日 21時09分09秒 | ウォーキング

山の中に地蔵のように
こっそり座っていたおじいさんに
「すみません。このあたりに
ウォーナー塔というのがある
と聞いたんですが、知ってはりますか」
と尋ねてみました。

「へ~そんな塔は聞いたことがないなあ。
五重の塔やったら法隆寺の中やけどなあ」

「ああ、そうですかあ。」

「私もここをもう20年くらい
歩いているけど知らんでえ」
といわはります。

「ああそうかあ、じゃあもう草の中に
埋もれているのかなあ。
ありがとう、すみませんでした」
とあきらめました。

それからあちこちと、
この辺りで空き地のようなところを
探し回ってみました。
石段があるのでこの辺りは?
と思ってみますと、草がぼうぼうです。

あれ?でもねえ、
草の中に石が立っているようですよ。
まさかこれが?



と思ってヘビなんか出ませんようにと
近づいていきますと
コンクリートの石の中に
鉄製の換気窓のようなものが
見えますので違うようです。

まあねえいくらなんでもねえ。

それからなおも奥の方に向かって
歩いていき探しましたが見つかりません。

文化財を戦争から守った
といいますが、自分の記念塔は
守られなかったのかなあ。

昔からウォーナーとは
そういう扱いをされてきたんですが、
最近は「彼にはそんな力はなかった」
というような説も出ています。

そんなんで見直されたりしたのかなあ。

これは見つからんなとあきらめ、
先ほどの西大門の方へ戻っていきますと、
おお~右手に見えているじゃないですか。

来るときは少し振り向くように
見ないと見落としてしまいそうな位置です。

さっきの高齢者もここまでは
歩いてこなかったのですねえ。

これがウォーナー塔です。



彼のことを書いた石板も
そこにあったのですが、
読みにくいことこの上なく
パスしてきました。

彼の功績については諸説あるようです。

そしてそのウォーナー塔の右横に
並べてたてられているのが



平子鐸嶺の塔。

法隆寺は日本書紀で
1屋も残すことなく焼失したと書かれ、
それを今の位置に建て替えた
というのが火災後再建節で、
そうではなく同じ場所に建て替えたという
「非再建節」と二つの考え方があった。

今はこの論争は再建節で
決着しているそうですが、
この時に非再建節をとったのが
平子鐸嶺でした。

35歳で病気で亡くなった人だそうですが、
彼の説も多くの人に指示され、
法隆寺の館長はここに塔を据えた
といわれています。

二人とも、文化財を大切にし
その貴重性を訴え続けた人だったそうです。

まあ今のdoironの趣味からしたら
とてもありがたい人だったんですねえ。

さてでは西大門の方に戻ってきましたら
右折して古い街並みの残る
西里の中へと入っていきましょう。



ここは法隆寺を支える大工たちが
多く住んでいました。



こんな小さな地蔵や地蔵のある通りを



てくてく歩き、ようやくたどり着いたのが



藤ノ木古墳で、



ここは未盗掘の墓で金銀の副葬品などが
多数出たところから、被葬者は
聖徳太子の叔父であるとか
天皇であるとかが唱えられているが、
確定はしていないようだ。



この古墳の周りはぐるりと公園になっており、
一周回ってみることにしましょう。



これが古墳の案内板で、
ここには埋められてあったものの
解説がのっています。





古墳の入り口のような通路が
南側にあり、扉は締まって
いましたが小さな窓から中を
のぞいてみると、う~んよく見えません。

この藤ノ木古墳の服装品については
2014年9月26日の
ブログに細かく書ていますので、
そちらを参照してください。

結構草が蜜に生えている
この円墳の周りをまわっていますと、
なんかざわざわという音が、
昔の人々のつぶやき声のように
聞こえてきます。



続く