外の物を取り入れることに、日本人以上に貪欲な民族は他にいない。抵抗なく、新しいものを取り入れ、いつの間にか、自分のものにし、そして、新たな物を創造していくすばらしさが日本人にはあると思う。
例えば、ウィスキー、ワインと言ったもの、はじめは全く真似事で作られ、到底、本場物にはかなわないと言われていたが、今や、世界の名品にも上げられるようなものがどんどん作られているではないか!他にも、周りを見渡すと、そこらじゅうに世界を凌駕した物がたくさん散らばっていてあふれている。今では定番のラーメン、カレーライス、餃子等々、元は外国人のものを取り入れて真似から始まった食べ物だ。しかし、今も、進化し続けているではないか!
事は食べ物に限らない。ありとあらゆるものが日本に取り入れられ、そして、進化し、新たな物に返信しているではないか!これは、とても、凄いことだと思う。いったん取り入れたものは日本人に合うように、作り変えて、いつの間にか、日本独自の物にしてしまっている。
古代において、日本独自の文字というものをもたなかったが、漢字を取り入れて使用していたが、その中で、中国が持つ様々な文化を取り入れ、日本の物にしてきている。そのうち、ひらがな、カタガナを作り出し、発音をそのまま標記できるようにしている。ひらがなとカタガナの使い分けも、とても微妙で、カタガナは、外国語を完全ではないにしても、そのまま標記し、日本の語彙の中に加えてしまっている。明治以降、アルファベットも加わり、多様性を増したと言えよう。
思想についても、同様なことが言える。古来、論語しかり、仏教しかり、儒教しかり、キリスト教しかり、イスラム教しかり、何でも取り入れ、受容し、いつの間にか、生活の中に浸透している。しかし、そのどれにも染まってしまうということがない。これは、とても不思議なことなのだ。この辺は、西洋人にはとても理解しがたいことなのだろう。まあ、いい加減といえば、とてもいい加減で、1つの宗教や哲学に染まった人にはとても理解できないことだろう。良く日本人は、Yes/Noをはっきり言わないと批判され、最近は、日本人自身も、それを自覚し、そうしないように努めている人は多いと思う。しかし、根底には、日本人の曖昧さがあるように思う。言い方を変えれば、それは、全てを受け入れて、曖昧さと混沌の世界の中に居て、極めて動物的な感性で物事を選択し、生きているからなのではないだろうか?