感謝の気持ち、自分の応え方・・・
地元の災害ボランティアに参加
一人でも多くのお手伝いが必要とされています・・
安平町早来の消防署裏にあるサッカー場に着陸した自衛隊のヘリコプター
4機が着陸するもすぐに離陸して飛び立った・・・(訓練かも?)
★ 感謝の気持ち・・・
主な被災地となった「厚真町」「安平町」「むかわ町」の復旧状況は毎日テレビなどで報道されている。
その中で未だ停電だったり断水が続いている地域もあり避難所生活を余儀なくされている住民も多い。
昨日(9/18)時点で、地元安平町に関し、電気はほぼ100%通電し断水は約85%が復旧したと
報じられた。また、避難所に避難されている方は260名と報告された。
(9/18 安平町災害ボランティアセンターでの発表です)
まさかの台風、まさかの地震でわが街が被災地になるなんて・・と誰が思ったことだろうか。
「天災は忘れた頃にやって来る」と良く言われるが、これは災害に対する戒めなんだと改めて知る。
この言葉は、当時を代表する物理学者・防災学者の寺田寅彦(1878~1935)氏が残した警句で
防災・減災の重要性を読み解くとされている。(ただし、諸説あるようだ・・)
9月1日を「防災の日」とされたのも今から93年前(1923年9月1日)に発生した関東大震災を
忘れないために設けられたそうだ。
普段から「防災の日」だとか「天災は・・・」なんて事考えもしない平和で平穏な日々を過ごしている。
恥ずかしながら頭の片隅に天災とか災害は「他人事」ととしか思っていなかった事は否めない。
いざ自分が経験すると天災の怖さを語り、自分を戒め、人に謝意を表したりする。
ケガもせず命に関わる危機を感じたのは揺れの大きかった本震の時だけだったが、物が壊れ
家が傷つく程度で治まりなんとか二週間が過ぎようとしている。
6日から何通ものメールや電話が届く、これにはマスコミ報道の影響は大きいだろう。
それでもやっぱりお見舞いの言葉は嬉しいもので、心強く力になるものだと感謝の一言である。
出来るだけメールに応え、電話に応対もして謝意を伝えようと思っているが、それだけでは
何かが足りないと日々思うようになった。
★ 山計画の中止・・・
千歳在住のHIROさんと以前から山の計画を立てていた。
それが9/18だったが、震災の影響を気遣ってか、山計画を中止して「災害ボランティア」に参加して
みたいと提案して来た。
もちろん私が計画通り「山」に行きたいと言えばボランティアの話は白紙になったかも知れないし
同じ町内に存在する避難者の事や個々に後片付けが出来ずに困っている人の事もまた「他人事」と
処理してしまったかも知れない。
身近な人が「災害ボランティア」に参加したい・・・と聞き、「えっ!」と思いながら
忘れかけた「感謝の意」を再び思い起こすキッカケになった。
「じゃ~私もボランティアに参加します・・」と返事をするのに時間は掛からなかった。
山計画を中止し、ボランティア参加の登録をした次第だった。
9/19 2日目の災害ボランティア班が一緒だったメンバーたちです(ボランティアセンター前にて)
★ 初めての災害ボランティア・・・
ネットで事前登録と災害保険に加入することが条件だった。
手続きを済ませ当日決められた時間にボランティアセンターに集合する。
HIROさんがわが家まで迎いに来てHIROさんの車で出掛けた。必要な持ち物、昼食もすべて自前で
用意するのは当たり前の事。
ボランティアの内容も様々で、自分が出来そうな内容に登録する。
専門技術も資格も無い私に出来る事は、災害ごみになってしまった個々の家の後片付けが主な仕事。
作業前にセンターのオリエンテーションを受けた後、リーダーを選出し作業班を作る。
初日は、14班必要とされそれぞれ5名の班となった。もちろん同じ班にHIROさんと手を挙げた。
全国から多くのボランティアが集まっていた。
特に週末の希望者が多く、平日は少ないのが現状と言う。
それでも毎日200名前後は必要とされていて、一人でも多くのボランティアが必要ですと呼び掛け
ていたのが印象だった。
センターで行った全戸訪問ボランティアで「手助けが必要です」という家をデータ化する。
住所、名前、電話、地図などの必要事項が示された用紙に基づき各班が自分たちの車で現地まで
移動する。家主とご挨拶してボランティアの作業についてしっかりと打ち合わせを済ませ作業に
入る仕組みだった。
主に二階にあるタンスや棚、壊れたテレビ、ステレオ、イス、テーブル、食器などを降ろす作業
や散乱した物置の片付けなども多かった。
ほとんどの家が男手が無い高齢者の家で二階から物を降ろせず震災当時のまま散乱した状態も
あった。ゴミにしていいものと残して置きたいもの、思い出のものも捨てられず悩む家主もいる。
丁寧に対応して被災者の気持ちを大切に少しずつ整理していくのもボランティアに求められた。
私自身も被災したが、夫婦二人でも後片付けは二日でほぼ終了した。
出たゴミも家の前に積み上げ、断水しても必要な水は給水所から必要な分だけ給水していた。
足りない食材があれば車で買い求める事も出来たし、それが当たり前と不便を感じていなかったが
「そうではない・・・」とつくづく痛感させられた状況を知る。
私が出来る「感謝の気持ち」は、もっと困っている方々のお手伝いをする・・と言う形で
応えるのも私なりの答えなんだと思った。その答えには、正解も不正解も無い。
単に自己満足と言ってしまえばそれで終わるかも知れないが、それはそれで一つの答えでいい。
二日目は、昨日の反省点が反映されより多くのお宅を回る事が出来た。
インフラが復旧しても本当に困っている方々はほんの身近に多かったと知る。
これからも出来る事に関わって行こう・・・そう思っている。
地元の災害ボランティアに参加
一人でも多くのお手伝いが必要とされています・・
安平町早来の消防署裏にあるサッカー場に着陸した自衛隊のヘリコプター
4機が着陸するもすぐに離陸して飛び立った・・・(訓練かも?)
★ 感謝の気持ち・・・
主な被災地となった「厚真町」「安平町」「むかわ町」の復旧状況は毎日テレビなどで報道されている。
その中で未だ停電だったり断水が続いている地域もあり避難所生活を余儀なくされている住民も多い。
昨日(9/18)時点で、地元安平町に関し、電気はほぼ100%通電し断水は約85%が復旧したと
報じられた。また、避難所に避難されている方は260名と報告された。
(9/18 安平町災害ボランティアセンターでの発表です)
まさかの台風、まさかの地震でわが街が被災地になるなんて・・と誰が思ったことだろうか。
「天災は忘れた頃にやって来る」と良く言われるが、これは災害に対する戒めなんだと改めて知る。
この言葉は、当時を代表する物理学者・防災学者の寺田寅彦(1878~1935)氏が残した警句で
防災・減災の重要性を読み解くとされている。(ただし、諸説あるようだ・・)
9月1日を「防災の日」とされたのも今から93年前(1923年9月1日)に発生した関東大震災を
忘れないために設けられたそうだ。
普段から「防災の日」だとか「天災は・・・」なんて事考えもしない平和で平穏な日々を過ごしている。
恥ずかしながら頭の片隅に天災とか災害は「他人事」ととしか思っていなかった事は否めない。
いざ自分が経験すると天災の怖さを語り、自分を戒め、人に謝意を表したりする。
ケガもせず命に関わる危機を感じたのは揺れの大きかった本震の時だけだったが、物が壊れ
家が傷つく程度で治まりなんとか二週間が過ぎようとしている。
6日から何通ものメールや電話が届く、これにはマスコミ報道の影響は大きいだろう。
それでもやっぱりお見舞いの言葉は嬉しいもので、心強く力になるものだと感謝の一言である。
出来るだけメールに応え、電話に応対もして謝意を伝えようと思っているが、それだけでは
何かが足りないと日々思うようになった。
★ 山計画の中止・・・
千歳在住のHIROさんと以前から山の計画を立てていた。
それが9/18だったが、震災の影響を気遣ってか、山計画を中止して「災害ボランティア」に参加して
みたいと提案して来た。
もちろん私が計画通り「山」に行きたいと言えばボランティアの話は白紙になったかも知れないし
同じ町内に存在する避難者の事や個々に後片付けが出来ずに困っている人の事もまた「他人事」と
処理してしまったかも知れない。
身近な人が「災害ボランティア」に参加したい・・・と聞き、「えっ!」と思いながら
忘れかけた「感謝の意」を再び思い起こすキッカケになった。
「じゃ~私もボランティアに参加します・・」と返事をするのに時間は掛からなかった。
山計画を中止し、ボランティア参加の登録をした次第だった。
9/19 2日目の災害ボランティア班が一緒だったメンバーたちです(ボランティアセンター前にて)
★ 初めての災害ボランティア・・・
ネットで事前登録と災害保険に加入することが条件だった。
手続きを済ませ当日決められた時間にボランティアセンターに集合する。
HIROさんがわが家まで迎いに来てHIROさんの車で出掛けた。必要な持ち物、昼食もすべて自前で
用意するのは当たり前の事。
ボランティアの内容も様々で、自分が出来そうな内容に登録する。
専門技術も資格も無い私に出来る事は、災害ごみになってしまった個々の家の後片付けが主な仕事。
作業前にセンターのオリエンテーションを受けた後、リーダーを選出し作業班を作る。
初日は、14班必要とされそれぞれ5名の班となった。もちろん同じ班にHIROさんと手を挙げた。
全国から多くのボランティアが集まっていた。
特に週末の希望者が多く、平日は少ないのが現状と言う。
それでも毎日200名前後は必要とされていて、一人でも多くのボランティアが必要ですと呼び掛け
ていたのが印象だった。
センターで行った全戸訪問ボランティアで「手助けが必要です」という家をデータ化する。
住所、名前、電話、地図などの必要事項が示された用紙に基づき各班が自分たちの車で現地まで
移動する。家主とご挨拶してボランティアの作業についてしっかりと打ち合わせを済ませ作業に
入る仕組みだった。
主に二階にあるタンスや棚、壊れたテレビ、ステレオ、イス、テーブル、食器などを降ろす作業
や散乱した物置の片付けなども多かった。
ほとんどの家が男手が無い高齢者の家で二階から物を降ろせず震災当時のまま散乱した状態も
あった。ゴミにしていいものと残して置きたいもの、思い出のものも捨てられず悩む家主もいる。
丁寧に対応して被災者の気持ちを大切に少しずつ整理していくのもボランティアに求められた。
私自身も被災したが、夫婦二人でも後片付けは二日でほぼ終了した。
出たゴミも家の前に積み上げ、断水しても必要な水は給水所から必要な分だけ給水していた。
足りない食材があれば車で買い求める事も出来たし、それが当たり前と不便を感じていなかったが
「そうではない・・・」とつくづく痛感させられた状況を知る。
私が出来る「感謝の気持ち」は、もっと困っている方々のお手伝いをする・・と言う形で
応えるのも私なりの答えなんだと思った。その答えには、正解も不正解も無い。
単に自己満足と言ってしまえばそれで終わるかも知れないが、それはそれで一つの答えでいい。
二日目は、昨日の反省点が反映されより多くのお宅を回る事が出来た。
インフラが復旧しても本当に困っている方々はほんの身近に多かったと知る。
これからも出来る事に関わって行こう・・・そう思っている。