このブログを書こうと思ったのは、次の新聞記事を読んだからです。
●「さようなら保育園 詩に刻む」太田泉生、朝日新聞、2016年2月16日
民営化で近く取り壊される東京都狛江市の市立和泉保育園で13日、保護者らが開いた手づくりのお別れの会があった。「鉄腕アトム」などの作詞で知られる詩人の谷川俊太郎さん(84)と、絵本作家の大友康夫さん(69)が出席。園児が大友さんと一緒に園舎に絵を描き、谷川さんは園児の絵に詩をつけた。同園は来年4月、川崎市の社会福祉法人運営の私立園として生まれ変わる。
数々の谷川作品に親しんできた園児の保護者たちが谷川さんの話をぜひ聞きたいと打診し、快諾を得た。大友さんは孫が同園に通っている。子どもたちは大友さんと一緒に園舎に好きな絵を描き、慣れ親しんだ園舎との別れを惜しんだ。
大友さんとの対談で谷川さんは「詩はメッセージがあるとつまらない。道ばたの花と同じように美しい日本語の塊としてただ存在するのがいい」。詩の読み聞かせについて母親らに問われ、「読み聞かせというと上から下に向けるみたい。声に出して読みたい、子どもと一緒に楽しみたいと思ったら、読んだらいいと思う」と語りかけた。(以下、略)
谷川俊太郎さんの「読み聞かせというと上から下に向けるみたい。」ということばが腑に落ちました。そうだよな、と改めて共感したのです。
1972年に小学校の教師生活を開始した私は、当時当たり前のように読み聞かせということばを使っていました。教育現場に流布された教育用語でした。ところが、2001年に出版された平凡社の別冊太陽『読み語り絵本100』を手にしたときの衝撃は忘れられません。なにより、「読み聞かせ」から「読み語り」のことばの持つ新鮮さに心引かれたのです。確かに、「読み聞かせ」ではなくて「読み語り」だよなと思ったものです。子どもに一方的に読み聞かせるのではなく、しっかり自分の肉声で物語を語っていくのが教育実践だと思ったのです。演劇教育のメインテーマはまさに<語ること>なのですから。
『読み語り絵本100』の表紙は小さな女の子が集中して話を聞いている写真です。これがとても印象的で、素敵なのです。そして特集の50名ほどの語り手の一人が谷川さんでした。
それにしても、「読み聞かせ」「読み語り」とは誰が言い出したことばなのでしょうか。パソコンで検索していると、ラボ教育センターのサイトにたどりつきました。そこには「ゆみねーさんの日記」が紹介され、「ことばの力って凄い。同じ行為をさしているのに、このことばに込められた想いは違うものになっている…。こどもたちに物語をシェアするときは『読み語り』でありたいと思います。」と書かれていました。そういえば、私もラボ教育センターのワークショップでは「読み聞かせ」と「読み語り」の相違については話をさせていただくことが多いのです。
そしてサイトには次の文章が引用されてました。
●「読みきかせ」から「読みがたり」ヘの発展を願って
「読みきかせ」ということばが市民権をもつようになったのは、いつ頃からでしょうか。わたしの所属している日本文学教育連盟が、東京都小金井市で開いた第五回文学教育研究全国集会(1962年8月)で、わたしは「文学教育としての読み聞かせ法」という報告をしました。ですから、その頃のわたしの頭の中には、このことばがあったわけですが、まだまだ一般的にはなじみの薄いことばでした。
その頃から、たとえ少数にしても、読みきかせで子どもたちに詩や、絵本、童話、物語のおもしろさを味わわせているという保母、教師がいて、しかもそれをおしすすめ、広めていこうとしていました。
今日、「読みきかせ」は、町会で催す講座の候補にあげられるほどになりましたが、わたしは、ここ数年来、このことばに若干の疑問をもつようになりました。疑問というより子どもたちに本を読む行為としては、いささか不適切なことばではないかと思うようになりました。
というのは、「読みきかせ」──つまり本を読んであげる、読んで聞かせるという行為には、やや押しつけがましさがありはしないか、読んでやるからちゃんと聞きなさいという意識がありはしないか、たとえ無意識にしても、そのような感じはないかと思うのです。
子どもに童話や物語を読むということは、単なる音声化ではないのではないか、それは語りかけではないのかと思うのです。
かつてわが国には、「昔話を語る」ということばがありました。昔話を語りながら、その話のおもしろさはいうまでもなく、その話をとおして自分を語ることをしてきたのでした。「読みきかせ」という行為は、これと同じではないか、と思うようになりました。そこで最近は「読みがたり」ということばを使っています。
読み手はその作品の単なる伝達者ではない、その作品を十分享受し、自分のものにしたうえで、それを子どもの体と心に語り込む。それが「読みがたり」だと思っています。
「読みきかせ」から「読みがたり」ヘ、子どもへの読みが深まりながら広まっていくことを願っています。
したがって当然のことながら、「読みがたり」は、読み手の創造活動にほかならないと考えます。読みがたりを続けている人なら誰しもが気づくことですが、子どもはいつでも作品世界を豊かに享受するとは限りません。聴く耳を持たないことが時としてあります。
もちろん、作品が子どものそのような状態を解消してくれることもありますが、読み手は、子どもがいまどのような状態でいるか、どのような状況の中にいるかを理解しなければなりません。
「子どもを知る」という想像、創造活動が必要です。
また選んだ作品が子どもに受け入れられるか、心開いて聞いてくれるような作品かどうかという、作品選びの問題があります。ここにも読み手の創造活動があります。
さらに選んだ作品を、そのおもしろさをどう伝えるか。どのように表現すればそれができるのかという表現方法、つまり「読みがたり方」の問題もあります。これも読み手の創造活動です。
「読みがたり」という行為は、子どもを知り、作品を選び、そのおもしろさをいい方法で伝えていくという、読み手のたくさんの思いを包み込んだ創造活動にほかならないと思うのです。
まさに、子どもへの「深い愛」でありましょう。
1997年12月 小松崎 進
小松崎さんのお連れ合いは小松崎多津子さんで、日本演劇教育連盟の夏の集会でお目にかかったことがあり、彼女の脚本「七夕ものがたり」を上演させていただいたことがありました。
さらにサイトには次の文章も紹介されていました。
●小松崎進氏の本の編集者
子どもに本を読んであげることを、一般的にはまだ、「読みきかせ」と言っています。しかしチョット待てよと、「読みがたり」と呼んでいるのが、この本だいすきの会です。
教育学者の中にも、「読みきかせ」に違和感を抱いている方がいると聞いています。
この本だいすきの会は永年、この「読みがたり」という言葉を使っていますが、徐々に市民権を得ているように思います。平凡社の別冊太陽『読み語り絵本100』(2001年)が出たときには、書店で見つけて、内心「オッー」と思いました。この本だいすきの会が直接関わらないところで「読み語り」が、一人歩きしていました。
もともと「読みきかせ」という言葉を使いはじめたのは、私ども高文研ではないかと思います。
1987年に『THE READ-ALOUD HANDBOOK』というアメリカのベストセラーを翻訳出版したとき、日本語のタイトルを『読み聞かせ』としました。
この本は現在でも読み継がれており、この本の「黙読の時間」がヒントになって、「朝の読書」運動に発展し、全国で広がっています。
『読み聞かせ』は言ってみれば、アメリカ版。
そこで日本で、日本の実情に合った実践者、書き手を探していたとき出会ったのが、この本だいすきの会・代表の小松崎進先生でした。
「読みきかせ」から「読みがたり」への発展については、小松崎先生が私どもで出版している『この本だいすき!』、『この絵本読んだら』で、くわしく触れていますので、合わせてお読みいただけたら、幸いです。
山本邦彦
やはり、ラボ教育センター主催の福田誠治(現都留文科大学学長)さんの講演会に参加したとき、その打合会で彼から聞いた話です。福田さんの師でもある大田堯さんから、なぜ「読み語り」ではなく「読み聞かせ」ということばを使っているのかと言われたというのです。そんなことが妙に記憶に残っているのです。
●「さようなら保育園 詩に刻む」太田泉生、朝日新聞、2016年2月16日
民営化で近く取り壊される東京都狛江市の市立和泉保育園で13日、保護者らが開いた手づくりのお別れの会があった。「鉄腕アトム」などの作詞で知られる詩人の谷川俊太郎さん(84)と、絵本作家の大友康夫さん(69)が出席。園児が大友さんと一緒に園舎に絵を描き、谷川さんは園児の絵に詩をつけた。同園は来年4月、川崎市の社会福祉法人運営の私立園として生まれ変わる。
数々の谷川作品に親しんできた園児の保護者たちが谷川さんの話をぜひ聞きたいと打診し、快諾を得た。大友さんは孫が同園に通っている。子どもたちは大友さんと一緒に園舎に好きな絵を描き、慣れ親しんだ園舎との別れを惜しんだ。
大友さんとの対談で谷川さんは「詩はメッセージがあるとつまらない。道ばたの花と同じように美しい日本語の塊としてただ存在するのがいい」。詩の読み聞かせについて母親らに問われ、「読み聞かせというと上から下に向けるみたい。声に出して読みたい、子どもと一緒に楽しみたいと思ったら、読んだらいいと思う」と語りかけた。(以下、略)
谷川俊太郎さんの「読み聞かせというと上から下に向けるみたい。」ということばが腑に落ちました。そうだよな、と改めて共感したのです。
1972年に小学校の教師生活を開始した私は、当時当たり前のように読み聞かせということばを使っていました。教育現場に流布された教育用語でした。ところが、2001年に出版された平凡社の別冊太陽『読み語り絵本100』を手にしたときの衝撃は忘れられません。なにより、「読み聞かせ」から「読み語り」のことばの持つ新鮮さに心引かれたのです。確かに、「読み聞かせ」ではなくて「読み語り」だよなと思ったものです。子どもに一方的に読み聞かせるのではなく、しっかり自分の肉声で物語を語っていくのが教育実践だと思ったのです。演劇教育のメインテーマはまさに<語ること>なのですから。
『読み語り絵本100』の表紙は小さな女の子が集中して話を聞いている写真です。これがとても印象的で、素敵なのです。そして特集の50名ほどの語り手の一人が谷川さんでした。
それにしても、「読み聞かせ」「読み語り」とは誰が言い出したことばなのでしょうか。パソコンで検索していると、ラボ教育センターのサイトにたどりつきました。そこには「ゆみねーさんの日記」が紹介され、「ことばの力って凄い。同じ行為をさしているのに、このことばに込められた想いは違うものになっている…。こどもたちに物語をシェアするときは『読み語り』でありたいと思います。」と書かれていました。そういえば、私もラボ教育センターのワークショップでは「読み聞かせ」と「読み語り」の相違については話をさせていただくことが多いのです。
そしてサイトには次の文章が引用されてました。
●「読みきかせ」から「読みがたり」ヘの発展を願って
「読みきかせ」ということばが市民権をもつようになったのは、いつ頃からでしょうか。わたしの所属している日本文学教育連盟が、東京都小金井市で開いた第五回文学教育研究全国集会(1962年8月)で、わたしは「文学教育としての読み聞かせ法」という報告をしました。ですから、その頃のわたしの頭の中には、このことばがあったわけですが、まだまだ一般的にはなじみの薄いことばでした。
その頃から、たとえ少数にしても、読みきかせで子どもたちに詩や、絵本、童話、物語のおもしろさを味わわせているという保母、教師がいて、しかもそれをおしすすめ、広めていこうとしていました。
今日、「読みきかせ」は、町会で催す講座の候補にあげられるほどになりましたが、わたしは、ここ数年来、このことばに若干の疑問をもつようになりました。疑問というより子どもたちに本を読む行為としては、いささか不適切なことばではないかと思うようになりました。
というのは、「読みきかせ」──つまり本を読んであげる、読んで聞かせるという行為には、やや押しつけがましさがありはしないか、読んでやるからちゃんと聞きなさいという意識がありはしないか、たとえ無意識にしても、そのような感じはないかと思うのです。
子どもに童話や物語を読むということは、単なる音声化ではないのではないか、それは語りかけではないのかと思うのです。
かつてわが国には、「昔話を語る」ということばがありました。昔話を語りながら、その話のおもしろさはいうまでもなく、その話をとおして自分を語ることをしてきたのでした。「読みきかせ」という行為は、これと同じではないか、と思うようになりました。そこで最近は「読みがたり」ということばを使っています。
読み手はその作品の単なる伝達者ではない、その作品を十分享受し、自分のものにしたうえで、それを子どもの体と心に語り込む。それが「読みがたり」だと思っています。
「読みきかせ」から「読みがたり」ヘ、子どもへの読みが深まりながら広まっていくことを願っています。
したがって当然のことながら、「読みがたり」は、読み手の創造活動にほかならないと考えます。読みがたりを続けている人なら誰しもが気づくことですが、子どもはいつでも作品世界を豊かに享受するとは限りません。聴く耳を持たないことが時としてあります。
もちろん、作品が子どものそのような状態を解消してくれることもありますが、読み手は、子どもがいまどのような状態でいるか、どのような状況の中にいるかを理解しなければなりません。
「子どもを知る」という想像、創造活動が必要です。
また選んだ作品が子どもに受け入れられるか、心開いて聞いてくれるような作品かどうかという、作品選びの問題があります。ここにも読み手の創造活動があります。
さらに選んだ作品を、そのおもしろさをどう伝えるか。どのように表現すればそれができるのかという表現方法、つまり「読みがたり方」の問題もあります。これも読み手の創造活動です。
「読みがたり」という行為は、子どもを知り、作品を選び、そのおもしろさをいい方法で伝えていくという、読み手のたくさんの思いを包み込んだ創造活動にほかならないと思うのです。
まさに、子どもへの「深い愛」でありましょう。
1997年12月 小松崎 進
小松崎さんのお連れ合いは小松崎多津子さんで、日本演劇教育連盟の夏の集会でお目にかかったことがあり、彼女の脚本「七夕ものがたり」を上演させていただいたことがありました。
さらにサイトには次の文章も紹介されていました。
●小松崎進氏の本の編集者
子どもに本を読んであげることを、一般的にはまだ、「読みきかせ」と言っています。しかしチョット待てよと、「読みがたり」と呼んでいるのが、この本だいすきの会です。
教育学者の中にも、「読みきかせ」に違和感を抱いている方がいると聞いています。
この本だいすきの会は永年、この「読みがたり」という言葉を使っていますが、徐々に市民権を得ているように思います。平凡社の別冊太陽『読み語り絵本100』(2001年)が出たときには、書店で見つけて、内心「オッー」と思いました。この本だいすきの会が直接関わらないところで「読み語り」が、一人歩きしていました。
もともと「読みきかせ」という言葉を使いはじめたのは、私ども高文研ではないかと思います。
1987年に『THE READ-ALOUD HANDBOOK』というアメリカのベストセラーを翻訳出版したとき、日本語のタイトルを『読み聞かせ』としました。
この本は現在でも読み継がれており、この本の「黙読の時間」がヒントになって、「朝の読書」運動に発展し、全国で広がっています。
『読み聞かせ』は言ってみれば、アメリカ版。
そこで日本で、日本の実情に合った実践者、書き手を探していたとき出会ったのが、この本だいすきの会・代表の小松崎進先生でした。
「読みきかせ」から「読みがたり」への発展については、小松崎先生が私どもで出版している『この本だいすき!』、『この絵本読んだら』で、くわしく触れていますので、合わせてお読みいただけたら、幸いです。
山本邦彦
やはり、ラボ教育センター主催の福田誠治(現都留文科大学学長)さんの講演会に参加したとき、その打合会で彼から聞いた話です。福田さんの師でもある大田堯さんから、なぜ「読み語り」ではなく「読み聞かせ」ということばを使っているのかと言われたというのです。そんなことが妙に記憶に残っているのです。