年1回ぐらいの発行になるのでしょうか、先日、立教大学共生社会研究センターニューズレター「PRISM(プリズム)」(A5版4ページ)16号が届きました。、巻頭言は平野泉さん(立教大学共生社会研究センター・アーキビスト)の「さまざまな人の、さまざまな表現を伝え続ける-投稿誌・同人誌の魅力」、見開きには4人の雑誌編集者のそれぞれの雑誌発行の経緯、内容、発行趣旨などが書かれています。最終ページは立教大学共生社会研究センターの案内といったところです。
そもそも私たち夫婦とこのセンターの関わりは70年代、教師家業をスタートし、ミニコミ夫婦共同誌「啓」(ひらく、息子の名前)を発行し始めた頃に始まります。妻はたばこの煙に耐えきれず嫌煙権運動に関わり、間接的に住民図書館の丸山尚さんを知るようになります。住民図書館は全国のミニコミを集め住民運動の情報提供役を果たしてきました。
この住民図書館にはさまざまなミニコミが送られてきたようです。つたない私たちの「啓」も喜んで迎えてくれました。その全貌は私の知る限り、3冊の丸山さんの著作を通して知ることができます。光栄なことに、いずれの本でも「啓」を紹介していただいています。
・『ニューメディアの幻想』現代書館、1985年5月
・『ミニコミ戦後史』三一書房、1985年7月
・『〔ミニコミ〕の同時代史』平凡社、1985年10月
住民図書館は赤字経営が続き、当時から東京都内を転々としていました。最終的に落ち着いたのが埼玉大学の共生社会研究センターでした。私も埼玉大で非常勤講師をしていたときに一度立ち寄ったことがありました。現在はこの共生社会研究センターが立教大学に移っているのです。
冒頭で紹介した平野泉さんは「啓」のリーメンシュナイダーに関する記事に関心を寄せていただき、緑との交流が始まりました。緑の写真集の第1巻『祈りの彫刻-リーメンシュナイダーを歩く』に掲載されている巻頭のドイツ人写真家ヨハネス・ペッチュの挨拶文をドイツ語から日本語に翻訳してくださいました。日本の住民運動の貴重な資料を保管・紹介してくださる日々のお仕事に敬意を表したいと思います。
*参考、『ミニコミの論理』田村紀雄編著、学陽書房、1976年
◆【沈思実行】運動と遊びの精神 鎌田 慧
『世直し石鹸』『なめんなよ飴』(笑劇の川柳作家)
コロナ禍のせいで、大きな集会や大規模なデモを実施できなかった。
この間、自公がさらに結託して悪政恣(ほしいまま)、歯止めを
かけられなかった。
リモート会議やリモート集会などに封じ込められ、大衆運動の
熱気を示すことができなかったのが残念だ。
集会とデモは、たがいの想いとその熱とを重ねあわせ、次の行動への
エネルギーを充電する行為。非暴力直接行動だが、小規模でしか
できなかったのだ。
さらにいえば、首都の東京都は道路交通法や都条例などで、デモに
対する規制が厳しく、警察は横4列、前後を小集団に分断して、デモを
コマ切れにしてちいさく見せている(ちいきによってはさらに厳しい)。
政府や都の、集会やデモの規制は許せない横暴だが、その一方で、
堅苦しく、パターン化した集会やデモのつくりを大胆に変え、若い人
たちも入れる形にすることが問われている。
永田町の経産省前テント広場や首相官邸前行動などの脱原発集会に、
おむすびのような笑顔であらわれる、小柄な豆タンク、元気溢れる
乱鬼龍さん(70歳)は、自称「笑劇の川柳作家」だ。
「手と足をもいだ丸太にしてかへし」
戦争の悲惨を五七五に刻んだ鶴彬(つるあきら)の名句はよく知られて
いる。
このように川柳は発想を転換させ、硬直しがちな運動を揉みほぐす。
「原発推進あとは野となれ山となれ」
作者の乱鬼龍さんは、川柳を武器に運動にユーモアを、とテント広場
集会で句会をひらいている。
総選挙の前に彼は「洗剤一隅の大チャンス」と書いたマンガ入りの
『世直し石鹸』を配って歩いた。
『なめんなよ飴』というのもある。 自公政治への怒りの表現だ。
自費で洗剤や飴を購入して、友人の漫画家に風刺絵を書いてもらった
小袋に入れて配った。
腐敗政治に歌で抵抗した、明治、大正期の添田唖蝉坊(そえだ
あぜんぼう)の仕事が思い出される。
あゝわからないわからない/遊んでてお金のふえる人/かせいでも
かせいでも食えぬ人/何がなんだかわからない。
運動に遊びの精神を注入する、柔軟な精神が必要だ。
(2021年11月3日週刊「新社会」【沈思実行】より)
そもそも私たち夫婦とこのセンターの関わりは70年代、教師家業をスタートし、ミニコミ夫婦共同誌「啓」(ひらく、息子の名前)を発行し始めた頃に始まります。妻はたばこの煙に耐えきれず嫌煙権運動に関わり、間接的に住民図書館の丸山尚さんを知るようになります。住民図書館は全国のミニコミを集め住民運動の情報提供役を果たしてきました。
この住民図書館にはさまざまなミニコミが送られてきたようです。つたない私たちの「啓」も喜んで迎えてくれました。その全貌は私の知る限り、3冊の丸山さんの著作を通して知ることができます。光栄なことに、いずれの本でも「啓」を紹介していただいています。
・『ニューメディアの幻想』現代書館、1985年5月
・『ミニコミ戦後史』三一書房、1985年7月
・『〔ミニコミ〕の同時代史』平凡社、1985年10月
住民図書館は赤字経営が続き、当時から東京都内を転々としていました。最終的に落ち着いたのが埼玉大学の共生社会研究センターでした。私も埼玉大で非常勤講師をしていたときに一度立ち寄ったことがありました。現在はこの共生社会研究センターが立教大学に移っているのです。
冒頭で紹介した平野泉さんは「啓」のリーメンシュナイダーに関する記事に関心を寄せていただき、緑との交流が始まりました。緑の写真集の第1巻『祈りの彫刻-リーメンシュナイダーを歩く』に掲載されている巻頭のドイツ人写真家ヨハネス・ペッチュの挨拶文をドイツ語から日本語に翻訳してくださいました。日本の住民運動の貴重な資料を保管・紹介してくださる日々のお仕事に敬意を表したいと思います。
*参考、『ミニコミの論理』田村紀雄編著、学陽書房、1976年
◆【沈思実行】運動と遊びの精神 鎌田 慧
『世直し石鹸』『なめんなよ飴』(笑劇の川柳作家)
コロナ禍のせいで、大きな集会や大規模なデモを実施できなかった。
この間、自公がさらに結託して悪政恣(ほしいまま)、歯止めを
かけられなかった。
リモート会議やリモート集会などに封じ込められ、大衆運動の
熱気を示すことができなかったのが残念だ。
集会とデモは、たがいの想いとその熱とを重ねあわせ、次の行動への
エネルギーを充電する行為。非暴力直接行動だが、小規模でしか
できなかったのだ。
さらにいえば、首都の東京都は道路交通法や都条例などで、デモに
対する規制が厳しく、警察は横4列、前後を小集団に分断して、デモを
コマ切れにしてちいさく見せている(ちいきによってはさらに厳しい)。
政府や都の、集会やデモの規制は許せない横暴だが、その一方で、
堅苦しく、パターン化した集会やデモのつくりを大胆に変え、若い人
たちも入れる形にすることが問われている。
永田町の経産省前テント広場や首相官邸前行動などの脱原発集会に、
おむすびのような笑顔であらわれる、小柄な豆タンク、元気溢れる
乱鬼龍さん(70歳)は、自称「笑劇の川柳作家」だ。
「手と足をもいだ丸太にしてかへし」
戦争の悲惨を五七五に刻んだ鶴彬(つるあきら)の名句はよく知られて
いる。
このように川柳は発想を転換させ、硬直しがちな運動を揉みほぐす。
「原発推進あとは野となれ山となれ」
作者の乱鬼龍さんは、川柳を武器に運動にユーモアを、とテント広場
集会で句会をひらいている。
総選挙の前に彼は「洗剤一隅の大チャンス」と書いたマンガ入りの
『世直し石鹸』を配って歩いた。
『なめんなよ飴』というのもある。 自公政治への怒りの表現だ。
自費で洗剤や飴を購入して、友人の漫画家に風刺絵を書いてもらった
小袋に入れて配った。
腐敗政治に歌で抵抗した、明治、大正期の添田唖蝉坊(そえだ
あぜんぼう)の仕事が思い出される。
あゝわからないわからない/遊んでてお金のふえる人/かせいでも
かせいでも食えぬ人/何がなんだかわからない。
運動に遊びの精神を注入する、柔軟な精神が必要だ。
(2021年11月3日週刊「新社会」【沈思実行】より)