健康は自分で守る・・・しかないのだろうか?
昨今、医療体制の不備が叫ばれているけれど、寂しい限りである。
かつての市井(しせい)の医療は壊滅したのであろうと思うのである。
とりわけ産婦人科医の不足が言われ、子供を・・・いや未来を産むという敬虔で崇高な行為が不安になってしまっている。
ぼくたちの時代お産婆さんがいて、その手でとりあげられた。
集落には必ずお産婆さんがいたものである。
医者が不足しているわけではない。
現在の医療が根源的に問われているのである。
そんな話を聴く。
意味深いのである。

昨夜、秋の一夜であるがぼくは再度野島先生の講演を拝聴した。
場所は岩盤浴「石の力」である。

野島先生の話は、何回聞いても「目からうろこ」である。
とりわけ昨夜の話は、良かった。
現在の病・・・現在病は栄養障害がその根っこにある。
だから、微量元素を摂ることから健康作りは始まるし、癌、アトピーも治ると胸を張るのだ。
医学というより科学を説く野島先生は、ガリレオ・ガリレイのようである。

ようするに、医学の問題は農業の問題であり、科学の未だ逢着せざる次元をいかに洞察するのかなのである。
ふむ!
難しい。
だがしかし、極めて重要な問題である。
野島先生は微量元素の毒素の無い、チタニュームとバナジュームを集中的に撮る方策を提案している。
阿武隈山系の花崗岩に含まれている微量元素である。

講演の前に仁王立ちになっている野島先生である。
ぼくの水を買うときのキーワードは「バナジューム」である。
なんだかやたら美味い気がするのである。
そして体中に沁み込んでいく感覚を覚えるのは単なる思い込みであろうか?
何事にも「疑問」を持つことの重要性は分かっている。
そして盲信せず、自ら検証する事。
さらに必要なのは自己中にならず、他者の合意を得る努力であるのかも知れない。
森羅万象をコントロール出来ないのだから。
それが科学の根幹である。
と・・・知らねばならない。
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荒野人
昨今、医療体制の不備が叫ばれているけれど、寂しい限りである。
かつての市井(しせい)の医療は壊滅したのであろうと思うのである。
とりわけ産婦人科医の不足が言われ、子供を・・・いや未来を産むという敬虔で崇高な行為が不安になってしまっている。
ぼくたちの時代お産婆さんがいて、その手でとりあげられた。
集落には必ずお産婆さんがいたものである。
医者が不足しているわけではない。
現在の医療が根源的に問われているのである。
そんな話を聴く。
意味深いのである。

昨夜、秋の一夜であるがぼくは再度野島先生の講演を拝聴した。
場所は岩盤浴「石の力」である。

野島先生の話は、何回聞いても「目からうろこ」である。
とりわけ昨夜の話は、良かった。
現在の病・・・現在病は栄養障害がその根っこにある。
だから、微量元素を摂ることから健康作りは始まるし、癌、アトピーも治ると胸を張るのだ。
医学というより科学を説く野島先生は、ガリレオ・ガリレイのようである。

ようするに、医学の問題は農業の問題であり、科学の未だ逢着せざる次元をいかに洞察するのかなのである。
ふむ!
難しい。
だがしかし、極めて重要な問題である。
野島先生は微量元素の毒素の無い、チタニュームとバナジュームを集中的に撮る方策を提案している。
阿武隈山系の花崗岩に含まれている微量元素である。

講演の前に仁王立ちになっている野島先生である。
ぼくの水を買うときのキーワードは「バナジューム」である。
なんだかやたら美味い気がするのである。
そして体中に沁み込んでいく感覚を覚えるのは単なる思い込みであろうか?
何事にも「疑問」を持つことの重要性は分かっている。
そして盲信せず、自ら検証する事。
さらに必要なのは自己中にならず、他者の合意を得る努力であるのかも知れない。
森羅万象をコントロール出来ないのだから。
それが科学の根幹である。
と・・・知らねばならない。

荒野人