エピローグ

終楽日に向かう日々を、新鮮な感動と限りない憧憬をもって綴る
四季それぞれの徒然の記。

雨の一日

2009年10月26日 | 日記
今日は台風の影響で一日雨が降り続いた。
いまも降っている。

小雨の時、ぼくは髪結いにいき夕方からは黒湯の温泉に浸かった。
いま帰宅したところである。

雨の一日は体の疲れを癒すチャンスである。
ゆったりとした一日を過ごしたいものだ。

自分を改めて見つめなおすのである。




              実在を問う


         湧き上がる光線がときめき
         ぼくは光線の眩しさにおののいた

         ぼくはいまどこにいるのか
         それすら分からない

         存在と実在の狭間で
         ぼくはぼくの形を捉えきれないのだ
         テーゼは彼岸の彼方へと過ぎ去り
         アンチテーゼは四分五裂となって散華した

         止揚の手がかりは限りなく雲散無消した
         人はこれを絶望と呼んだ

         絶望は希望の未来永劫に渡る抹消である
         復活はあり得ないのであって
         そこには漆黒の闇が無辺に横たわっている

         絶望の川は彼岸がなければ存在しえない
         絶望とはあらゆる希望の纖滅であり
         あらゆる可能性の全否定である

         一個の無辺が誕生するまでは
         何億光年も飛び続け
         元素の誕生を希求するのだ
         ひとは太古
         元素であったのだから

         そうプラチナのような輝度と堅牢さが
         時空を越えて活き続けたのだ
         漆黒の闇から
         ぼくは生還する
         ぼくは新たな活きる術を体得しつつある
         ぼくはとうとうと流麗に生きる

         ぼくはやがて実在の岸辺に立つのである






ぼくはいま結構寂しさにまみれている。
雨は、人の本質を鋭く見せてくれるからである

雨は寂しく楽しい。




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ホトケノザが咲いている・・・不思議!

2009年10月26日 | 日記
昨日、雨の上がった午後公園を散策したのである。
コンクリート製の大型固定式プランターで「ホトケノザ」が咲いていたのだ。



そもそも論で言えば、3月から9月が開花時期なのである。
山野草だ。

それが、都会の公園で咲いている。
不思議だけれど、なんだか嬉しい。

ぼくは脳天気だが、暖冬の先ぶれとして受け止めた。



ホトケノザだけではない。
スミレが咲いていたのである。

なんだか春と間違いそうである。



石段のところに手作りのこんな看板が出ていた。
優しい看板である。



確かに、何箇所かに葉が顔を出している。
柔らかで新鮮な緑色である。



そして、この花が咲いていた。
可憐である。

ヴィオレッタである。
スミレの花は、古今東西歌になっている。
イタリア歌曲にも何曲かある。

日本でも宝塚歌劇団が歌っている。

スミレ・・・放っておけない花である。

石段の上の池にアオサギが来ていた。



生き物に触れると気持ちがポッと暖かくなる。
心が穏やかになっていく。

時間がゆったりと流れるのである。




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キバナトケイソウの花

2009年10月25日 | 日記
キバナトケイソウは可憐である。



この蕊(しべ)を見て、スペインの宣教師たちは「パッション・フラワー」と名付けたのであった。



小さな・・・それでいて確固とした自己主張がある。





            キバナトケイソウ


       そんなにも可憐な姿を黄色のドレスに包まれて
       確固として
       空間を切り裂いて咲き続ける
       その実在感が羨望(せんぼう)されるのだ

       土を体現して咲き続ける生命力が
       旺盛な力が
       鮮やかな色彩となってこの世界を席捲(せっけん)し続ける

       キバナトケイソウよ
       いたいけな童(わらべ)の心持を見失うな
       咲き続け
       この世に生き続けるのだ




キバナトケイソウは、今日4輪開いてくれた。
とても嬉しかった。




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秋へ!

2009年10月25日 | 日記
いまだからこそ詩を・・・そういった季節でもある。




            秋へ!


     いまぼくたちの存在するこの3次元の世界は
     グラデーションに揺れている
     季節の色彩がグラデーションを奏でているのである

     多角的重層的にあらゆる存在、森羅万象全てが
     グラデーションに染め上げられているのだ

     季節の節目という巨大な穴が
     森羅万象を呑み込んでいく

     季節の移行はそっと包み込んでやらないと
     脆(もろ)く簡単に壊れてしまう
     胸に優しく抱え込んで
     豊かな乳房で育てていくのである

     人の体温が何よりも大切であって
     人肌の温もりこそが
     移行する季節の母である

     グラデーションで移行する三次元からの
     季節の変転は四次元へと変化していく
     すると
     たちまちにして人は散華するのである
     瑣末な願望は森羅万象とともに渦に巻き込まれていく

     渦は次元を超え
     季節を完成させるのである





宇宙の彼方へと飛翔したい。
翔け昇って行きたい・・・のである。




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時計草は深い~!

2009年10月25日 | 日記
時計草は深い~のである。
このブログでぼくのプロフィールの花は時計草である。
着実に年齢を重ね、時間を刻むようにとのぼくの思いを籠めてこの花にしたのである。

昨日ぼくはキバナトケイソウを買った。
まに黄色の花の時計草であり、形も面白いのである。



これである。
可愛らしい花である。

そしてもう一鉢、ベニバナトケイソウもその花やさんにあった。



赤い鮮やかな花である。



一般的にはこの花が時計草だと思っている。
調べた結果、時計草には様々な花があり種類も豊富だと知ったのである。







これらも時計草の花である。

時計草の英名は、パッション・フラワーである。
パッション・フルーツと同じ科で、原産地はブラジルである。

時計草の花の後は、楕円形の実がなる。
食べられないけれど、フルーツなのである。

ところで「パッション」の原典は、キリストの受難のそれである。

雄しべの花柱をキリストに,副花冠を後光にたとえたものなのである。
パッションは普通名詞の passion = 激情 ではなく, the Passion = キリストの受難 のことであるとされているのである。
南アメリカを旅行中のスペインの宣教師たちが発見したときの印象から名付けられたものだということだ。

時計草には、美しくも荘厳な物語が秘められているのだ。
深い~のである。



大好物のパッション・フルーツ・・・心して頂きたいものである。
「果物時計草」の実がパッション・フルーツなのである。

ところで、パッションと言えばメル・ギブソンの映画である。



深いブルーの瞳が魅力的なスターである。

監督第3作目にして自らのパッション(情熱)の全てをフィルムに焼きつけたこの作品は、キリストの人生、死、復活の意味を、圧倒的な映像の力で語りかけてくる。

おそらく、世界中で最も有名なキリストの最後。
その12時間が描かれているのである。
イバラの冠をかぶらされ、重い十字架の横木を背負い、ゴルゴダの丘で両手両足を釘打ちされた十字架刑の事実を、ここまで忠実に映画化したものはない。
想像を絶する痛み、苦しみの後の奇跡の復活が活写されているのだ。



その凄惨さゆえに全米ではR指定となり、ローマ法王をも巻き込んでの論争に発展した。
公開前にもかかわらず、世界中のメディアが連日報道したのをご記憶の方も多いだろう。


時計草。
ただ単に鑑賞しているだけではなく、その由来を知ると花が一段と興味深くなってくるではないか!




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R指定とは・・・レイティングシステム(rating system)のこと。
        映画鑑賞の際にその映画を見ることが出来る年齢制限の枠、及びその規定。

        欧米を始め、多くの国で規定されており、日本では映画倫理規定(通称 映倫規定、えいりんきてい)が用いられる。