エピローグ

終楽日に向かう日々を、新鮮な感動と限りない憧憬をもって綴る
四季それぞれの徒然の記。

杜鵑・・・ホトトギス

2015年10月11日 | ポエム
杜鵑は、別に子規とも書く。
子規と書いて、ホトトギスと読む。

この季節は、子規の忌日でもある。
子規忌は実は9月19日である。
糸瓜忌(ヘチマキ)とも獺祭忌(ダッサイキ)とも呼称する。

とまれ、この季節は杜鵑が咲き初む候ではある。



季語としては、誠に美しく語感に響く。
かてて加えて、感動の心に共鳴するのである。







「床しさの証は不要ホトトギス」







ぼくの好きな季節の花であって、語感に共鳴する花であるのだ。



この花は、みっちりと花が着かないのが良い。
いまごろ咲いている杜鵑は、台湾ホトトギスである。

けれども、ほっこりする花である。



      荒 野人


水引草

2015年10月09日 | ポエム
水引、である。
祝儀ごと、不祝儀ごとを問わず目にする。

或る意味で、敬虔な物質的な祈りの作法であるのだろう。



しかし、健康だった頃に水引を目にすると「ドキッ」としたものだった。
祝い事であれ、無作法な事であれ「辛い」からである。

生きる事に夢中な時代、それは時代とコミュニティにとっての潤滑油でもあった。
それは、今でもそうなのだ。







「水引草風のゆくえの定まらず」







このスラッとした、スレンダー美人。
何故に水引と称するのか。



意味不明である。
けれど、彼岸に引く結界には良く似合う。



       荒 野人

結界石

2015年10月04日 | ポエム
この世とあの世とを分つ一線。
そこに引かれているのが「結界」である。

ここに結界があるぞ!と知らしめる役割がその石に託されている。



ここは、寺院の入口である。
この結界石は、以前にはもう少し深い場所に置かれていたのだけれど・・・。

いまでは門扉の真下に置かれている。
時間の流れだろうか、石を結わえてある縄が風雨に晒されて黒ずんでいた。







「天高し結界石の置きどころ」







けれど、この置かれた石の意味が分からない人が多くなっている。
訪なう人の声もしない。

この寺院に住まう僧侶たちは、一体全体いかなる生活を営んでいるのであろうか。
それこそ意味も無く知りたい。



       荒 野人

空と雲と

2015年10月03日 | ポエム
空を見上げるに、しくは無い。
今だからこそ、見上げる事が有意義でもある。

雲は正しく天才である。



鱗であったり、鯖の縞模様であったり・・・。
かと思えば、こんにゃく版に引っ掻いたような選が現われたりする。



こうした雲を総称して「羊雲」と言う場合もある。
鱗雲、あるいは鯖雲は秋の季語となっている。

羊雲は、季語ではないのである。
句に詠む場合、随分と表現幅が狭いのである。







「羊雲数える午後のカフェテラス」







ある一日、ぼくはオープンなカフェで時間を遣り過ごしたのであった。



これは、羊雲と表現しても良いだろう。
どちらにせよ、受け止める人の感性が大きいと思うのである。



        荒 野人

学校田

2015年10月02日 | ポエム
学校田の刈り入れが始まっている、
児童たちが「お田植え」をして「草取り」をして丹誠込めて水田を育んで来た。
児童の心がこもった学校田である。

ぼくの家の周囲は、元々水田が広がっていた。
水田を造成した「宅地」である。

だから路地が狭い。
路地は畦道だったラインである。

「稲刈り」という行為は、懐かしい。
ぼくの生家も「田んぼ」をやっていたからである。
家族が一年食べるだけのお米は作っていたのであった。
付随して、野菜も自給自足であった。

さて、本題に戻る。
学校田である。
複数の学校の児童たちの汗の賜物である。
収穫の秋は、美しい。







「不揃いの稲刈りの跡学校田」







不揃いの刈り入れ跡に、思わず笑ってしまった。
「片エクボ」である。



       荒 野人