しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
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朝の露 <天地創造の前から>

2024-09-13 | エペソ書
「神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。」(エペソ1:5新改訳)

私たちがキリストの救いにあずかったのは、たんなる偶然(ぐうぜん)や一時的な思いつきでなく、世界が創造されるはるか以前から神の愛によるご計画に盛(も)られていたことだ、と使徒パウロは断言する。▼救われる以前、私は自分の生きていることにどれほどの意味があるのか、すべては偶然(ぐうぜん)の産物ではないかと、しらけ切った人生観をもっていた。そこから希望に満ちた生き方など生まれるはずもなく、肉欲の充足(じゅうそく)だけを求める自堕落(じだらく)な毎日が続いたのは当然だったといえよう。▼ところがキリストによる救いにあずかってみると、永遠の昔から神のご計画のうちに予定されていたのが自分の生涯なのだとわかり、あふれる喜びと感謝に、生き方が一変してしまった。永遠の神は、やがて来る神の国に、私を愛する子として迎えようとしておられる、そのためにすべてのことが相働(あいはたら)いて益となるよう導いておられるのだ。このように思うと、あまりの幸せに言葉が出ないほどである。

①罪に満てる世界 そこに住む世人に 命得よと イエスは血潮流しませり
②罪は海のごとく わが心おおえど 神はさらに強き 恵みもて救えり
③誰ぞ我の罪を ことごとく洗うは 見よ血潮は汝を 雪よりも白くせん
④妙に奇しき愛を 限りなき恵みを 今ぞ誰も受けよ ためらわずそのまま
 ああ恵み! 計り知れぬ恵み ああ恵み! 我にさえおよべり
                                                 <新聖歌343 詞:Julia H.Johnston,1849-1919>   

朝の露 エペソ書5章 <感謝>

2015-01-09 | エペソ書

シンビジューム「いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい。」(20新改訳)

昔、イスラエル人は感謝のいけにえを神殿に持ってくるよう命じられていた。それは罪、全焼、罪過などのいけにえと同じように大切なものとされていたからである。

キリスト者にとり、神殿とは自分のからだであり、共におられる主イエスのことであるのは、いうまでもない。だから私たちは、いつでもどこでも、感謝というすばらしいいけにえをささげることができる。だが、「いつでも、すべてのことについて」感謝できるかというと、簡単ではない。それは私たちがなかなか謙遜にならないからだ。すなわち自分の心が高ぶり、自己中心であればあるほど、感謝の姿勢は遠ざかってしまうのである。

だからいつも十字架のもとに行こう。深く静まり、神の子が天の位を捨て、いかに低い所まで下って来られたかを見つめ、頭が垂れるまで跪(ひざまず)きたい。そうすれば、ご聖霊の力によって水が低い所に下るように、感謝が流れ込んで来るにちがいない。