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三位一体について(中) 【公教要理】 第十講

2019年01月12日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。

公教要理-第十講  三位一体について(中)


前回の通り、三位一体とは、唯一の天主でありながら三つの位格があるという玄義です。

この玄義を深めるために、言葉の意味をより良く把握する必要があります。
天主において、本性が一つで位格が三つと言い、本性と位格という言葉を使います。

本性とは何でしょうか?本性とは、或る存在 を定義づける要素です。いわば本質です。一方、位格は異なります。位格とは、ある存在の本質ではなくて、ある本性ではたらく主体 です。
人間に応用すると、区別を理解しやすいと思います。
人間として、すべての人々は同じ本性を持っています。
でも人(ペルソナ )として、皆が異なります。一般的に言うと、皆一人一人は、違う人格をもっています。一太郎と二太郎と三太郎と四太郎は、同じ人間でも、違う人です。同じ本性において、違うペルソナです。

以上の例は、位格と本性の区別を理解するために役立ちます。位格は、作用する主体で、つまり「行為しているそれ」それをやったのは「誰?」と問う時の答え(例えば「一太郎」)で、これが位格です。
一方、本性とは「定義」で、或る存在の本質です。「何か」と問う時の答え(例えば「人間性」)が、本性です。

天主において一つの本性と三つの位格があると言います。人間の場合をみると、皆同じ本性を持っているのに、違う人なので、天主の場合も同じと思うかもしれません。でも違います。唯一の天主と言いますから。一方、一太郎と二太郎と三太郎と四太郎は、本性は一緒ですが、四人います。違う四人の人間たちがいます。「人間」で本性のことも語るからです。

一方、天主において、三つの位格、つまり聖父(ちち)と聖子(こ)と聖霊(せいれい)があるという時に、天主は三つとは言いません。それは異端です。天主は唯一ですから。三つの位格はあっても、同じ唯一の天主なのです。三つの位格は、同じ本性において自存しています。ある意味で、同じ本性においてこそ実在します。この三つの位格は、絶対に切り外せません。

離れたイメージに過ぎませんが、例えてみると、もし違う三人が、同じ肉体を共有することは可能だとしたら、似たような感じです。その三人は、同じ人間として現れるが、違う人格でいるようなことです。

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また、他の例を挙げてみます。勿論、天主の真実から遠く離れた例に過ぎませんが。大自然においても似たような現象があります。おそらく、一番ピンと来る例は、クローバーでしょう。クローバーには三つの葉がありますね。しかし、一つのクローバーだけです。また、手は指五つありますが、手は一つです。そして、手のやっているすべてのことは、指もやっています。ところが、五つの指は異なります。
類推してみると、天主においても、同じようです。三つの位格がありますが、同じ本性においてあります。

三つの位格は、同じ本性consubstantiellesです。  一方で、天主において、本性は一つで、その同じ本性において、三つの位格が自存している(subsistent)のです。一つの天主でありながら、三つの位格です。これが三位一体の玄義です。

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三つの位格とは、聖(ち)父(ち)と聖子(こ)と聖霊(せいれい)からなります。聖父は何の位格からも発することはありません
聖子は、聖父より発します。要するに、聖子は、聖父にその由来があります。ただし、時間においてではなく、永遠においてです。聖子は聖父から知性を通じて生まれたともいいます。類似として、私たちが心の中に言葉を生む時と似ています。概念(コンセプト)と言いますね。つまり、コンセプション(受胎・発生)に連想させますね。

聖父は、自分自身御自らを、有りのままに知っています。限りなく完全な知性の故に、自分を認識する概念が言葉として発生して、それは聖父と全く同じです。絶対的に同じです。
天主は自分自身御自らを知ることによって、言葉が発生し、これが三位一体の第二の位格です。
第二の位格は知性を通じて聖父より発生する位格です。聖子と呼ばれています。また御言葉とも呼ばれています。
聖ヨハネによると、「初めに御言葉があった」とあります。さらに「言葉は天主と共にあった。」つまり、天主と区別できると。つづいて「言葉は天主だった。」同時に天主であるとの意味です。

天主は自分自身御自らを知り、自分が何であるかの言葉を発生し、それはすべてにおいて自己と同一なる言葉です。天主と同じ完全性を持ちます。唯一の違いは、聖子は生まれ、聖父は生むことだけです。第一の発出と言います。聖子は聖父より発します。そこで二重の関係が生じます。聖父は聖子を生みます。「生み出す関係」 generatioです。聖子は聖父より生まれます。「子供という関係」 filiatioです。

その上に、聖父は、聖子を観(み)て、感嘆します。聖子は聖父を見て、御自らを認めます。これは限りない愛の交流となり、思いつけないほどの間柄になる暁に、聖父と聖子の相互の観照から、第三の位格が発します。これが聖霊です。愛とも呼ばれます聖霊は、三位一体においての愛です聖父と聖子との間の愛は聖霊です聖父と聖子との間柄は、限りなく強い故に、聖霊を息吹かせます。(神学用語でspiratio(霊発 )といいます。)要するに、聖霊は、聖父と聖子との間柄より発します。

従って、聖霊は、本当に聖父より発しながら、また同時に本当に聖子よりも発します。両方よりこそ発します。信経にある「フィリオ・クエ」(と聖子より)。聖霊は、霊発 spiratioを通じて発します。霊発(スピラチオ)は、ラテン語の「スピリトゥス」から由来します。スピラチオとは、息吹、炎、霊といった意味があります。愛の炎を表現します。聖霊は、息吹発生を通じて、聖父と聖子と両方から発出します。智慧。愛。聖なる三位一体の三つの位格の間に、完全なる流れがあって、天主は一つとなります。

というのも、愛そのものである聖霊は、限りなく完全です。限りなく完全なる聖父と聖子より発しますから。つまり、すべてにおいて、聖霊は、聖父なる天主と聖子なる天主と全く同じです。聖霊は限りなく天主です。聖子が天主であるように、聖父が天主であるように、聖霊も天主です。聖父と同じく完全であるから、聖子と同じく完全だからです。
唯一の違いは、愛を通じて、両方から発することだけです。

以上に、聖なる三位一体の玄義を紹介しました。私たちを遥かに超える玄義ですが、人間の霊魂に適用される例があります。というのも、人間は天主に象(かたど)って創造されました。従って、人間の霊魂には、知性と愛という能力が備わっています。三位一体は、人間の魂に、ある種の痕跡 を残したといったようなものです。しかしながら、単なる象(かたど)りで、真実から遠く離れています。というのも、私たちが何かを認識する時に、生まれてくる概念は、見ている真実ほどに完全ではないからです。概念の存在すら、見ている真実と違う存在になっていますし。

他方、天主において、天主が御自分に対して持っている概念は、位格を発生するほどで、実在する位格を発します。概念だけではありません。聖父と区別できるものの、すべてにおいて、聖父と同じです。愛と聖霊についても、同じです。

私たちを越えている玄義ですが、天主は善いお方で、御自分の内面を啓示し給いました。人間を御自分の奥底に参与させてくださいました。どれほど愛し給うしるしであるかは明瞭でしょう。御自分の内面を啓示するとは、極まりなく、私たちへの愛の証しです。天主はすべてであるからこそ、御自分だけで充実しているのに、啓示する必要はどこにもなかったのに啓示しました。ところが、御自分の奥底を語ってくださったと同時に、どれほど人間を愛してくださるか、伝わります。自分の奥底を明かすのは、本当に愛している人々にだけだからです
要するに、天主は、御自分を啓示した事実だけで、私たちへの愛は証明されているのです。

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