白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
天主とは何でしょう?
天主は存在する。これを信じ、同時に知っているということは、前回に見た通りです。次の問いは、天主は何であるか、です。この問いは、かなり難題で、微妙です。というのも、天主とは宇宙の上の存在ですから、私たちを限りなく超える存在だからです。
それでは、天主はなんでしょうか。
公教要理によると、この問いへの答えはこうです。
天主は純粋な霊である。
限りなく完全である。
創造者である。
あらゆる物事を司る者である。
天主は純粋な霊です。この「霊」とは、要するに、天主には体がないという意味に他なりません。
天主は、無形です。天主は、非物質的な実体です。天主には構成可能な物体を持たないのです。霊です。天主は、私たちとは違って、体がないので、私たちには天主が目に見えず、嗅覚することも、触ることも、味覚することもできません。人間の感覚が、天主を把握することができないのです。
しかしながら、感覚で天主を捉えることができないからといって、天主が存在しないのではありません。
根拠はこうです。天主の作品は常に私たちの目の前にあって、それを私たちは見ています。天主の作品のおかげで、私たちは天主の存在を知ります。画を見る人が、その画に必ず画家がいると知っていると同じように、大自然を観賞する人は、大自然の制作者がいることを知っています。
ところで、画を見ても、その画家が見えるとは限りません。聞こえないし、もしかしたら既に死んでいるかもしれません。しかし、それでも、作品が残っています。制作者が見えなくても、聞こえなくても、触れなくても、彼が存在することを、作品が残っているおかげで、当然知っているわけです。そうでなければ、無理です。少なくとも、画の制作者が存在したことを知ります。
天主に関しても、同じです。ただし、違いがあります。それは天主が存在したとは言えないということです。天主が、今でも存在し続けているということです。また別の機会にお話ししますが、もし天主が、今、もう存在していなかったのなら、天主が必然な者でなくなるので、天主でなくなるわけです。それなら、前回の証明が成り立たない、少なくても悪循環で、エビが自分の尾を噛むようなことになってしまいます。
言い換えると、天主が存在する証拠は、宇宙がまだ存在しているからです。天主が、すべてのモノの存在を維持するからです。
しかしながら、天主は霊ですから、目に見えない。
~~
因みに、天主は霊だからこそ死ねない存在なのです。人間は死ぬべき存在です。死の原因は、人間が体を持っているからです。体が、構成物なので、分解して、もとに戻っていくからです。その分解が、人間が呼ぶ「死」です。物理的なすべてのモノには、分解への傾向が必ずあります。そのような分解は、必ず衰退です。
しかしながら、天主はすべてのモノを司る存在ですから、天主には衰退がありません。したがって、霊である天主は物体ではないと言えます。天主は、物体ではなく、物質でない。物質を持つよりも、物質を持たない方が、より完全な状態です。物質を持たなかいからこそ、人間より天主が完全なのです。体を持つからこそ、人間は不完全なのです。
しかしながら、体を持たないからと言って、天主が存在しないことはありません。人間は、目で理性を見たことはないし、意志を見たこともありません。意志を見た人がいるでしょうか?生命を見たと言える人がいるでしょうか?いませんね。これらの事実が見えることはありません。非物理的なわけですから。でも、理性・意志・生命などが存在することはどうしてもみんな知っています。
たとえば、人間同士が話し合って、理解し合うこと自体は、理性がある証拠となるでしょう。でも、理性とは、どこにあるのでしょうか。
医者が、手術して、頭を開けるときに、理性を見ているでしょうか。当然、見たことはありません。しかし、それでも、理性はあります。
外科医が手術する時に、患者の意志を見ているでしょうか。見たことはないのです。しかし、それでも誰も知っていることです。意志がそこにあると。実際に存在するが、非物質的なのです。
人間が概念や理念を扱うことは言うまでもありません。それでも、体が、時々理念や概念を妨げることも皆が経験しています。それで、時に、考えようと思っても、難しい時があります。まさに、体によってこそ、ある種の不完全さがもたらされている証拠になります。人間の非物質的部分への妨げという不完全さです。
それに対して、天主は完全ですから、あらゆるものの上にましますので、すべての物事の創造者で、司り主ですから、純粋な霊と言えます。
天主には体がない。それは、天主の完全さです。
より旨く言ってみるとすると、天主には体がないだけではなく、天主とは、天主ご自身にとって、自らの「ある(存在)」なのです。これは、前回に説明したところです。
天主が、自分自身にとっての自らの必然的な存在です。天主とは、存在そのものです。
しかも、天主自身が、モーセの前に現れて、こう言いました。モーセが「天主の御名が聞かれたら、何と答えればよいでしょうか」と天主に聞き出してみると、天主がこう答えました。「我は、有りて在るものである。」
不思議な言葉ですけど、この言葉を通じて、天主が自分自身にとっての存在であることをおしゃっている。言い換えると、自分自身の自らの存在理由であると。
~~
天主は、自分自身自らによってしか存在しない。天主が、天主の自らの存在です。これは、天主の本質なのです。天主は、この上なく、存在そのものです。「天主という本体の中に、天主という基体の内に、すべてのモノが存在する」のではないのです。汎神論ではない。つまり、皆、天主の内に存在して、天主の一部であるような存在ではない。それなら、一種の汎神論になってしまう。いずれにせよ、人間は、自分が天主の一部であるという認識は、そもそも、感じない。しかも、もし、私たちが天主の一部であったら、天主が不完全となってしまう。つまり、私たちが、天主の一部であるか、天主からの流出であるなら、天主が不完全になってしまう。というのも、もしもそうだったら、天主が、被創造物に必然的に繋がっているということになってしまう。要するに、天主の必然性の全部が、天主にはないということになってしまう。つまり、天主には何か欠けるところがあって、ある不完全さを持つことになってします。
いや、天主が自分自身の存在の自らの理由です。存在そのものです。確かに、すべてのモノが、天主という存在によってこそ、存在しているわけです。しかしながら、すべてのモノが、存在たる天主によってこそあるにせよ、天主ではないし、天主にはなりえない。
天主が、自分自身にとって、自ら存在理由であるということを表す言葉があります。ラテン語から派生した言葉です。典型的な神学用語ですが、「アセイタス(自立存在性)」といいます。アセイタスとは、ラテン語の ”a se” に由来して、「自分によって」という意味です。天主は、自分によってのみ存在する、ということです。
人間は、自分によって存在していないのです。私たちの周りにあるモノで、自分によって存在しているモノは一つもない。私たちの存在は、他者から頂いているわけです。
これをラテン語で「ab alio アブ・アリオ」と言います。他者から私たちが来ている。他者から、私たちが存在を引き継いでいる。過去にも現在にも、私たちが、存在において依存している。私たちが、自分自身の存在を司る主ではない。否応なし、人間の存在は、現に他者に依存するのです。
しかし、天主は違います。天主は、自分自身の第一と必然的な原因ですから、自分自身によってしか存在を受けていない。「ア・セ」として、存在する。つまり、自分によってのみ存在する。それで、ラテン語で、「アセイタス(自立存在性)」という造語で、この事実を指し示します。典型的な神学用語です。天主が、自分自身の中に、自分自身の存在理由を持つことをいう。また、「アセイタス」という言葉が、天主を表現するために、中心概念となってくると言えます。
「アセイタス」、つまり、天主は、自分に寄ってのみ存在する。自立存在性です。天主の本質は、有りて在るということです。したがって、存在を与えることは、天主に属するのです。
公教要理-第三講 天主とは何であるか
天主とは何でしょう?
天主は存在する。これを信じ、同時に知っているということは、前回に見た通りです。次の問いは、天主は何であるか、です。この問いは、かなり難題で、微妙です。というのも、天主とは宇宙の上の存在ですから、私たちを限りなく超える存在だからです。
それでは、天主はなんでしょうか。
公教要理によると、この問いへの答えはこうです。
天主は純粋な霊である。
限りなく完全である。
創造者である。
あらゆる物事を司る者である。
天主は純粋な霊です。この「霊」とは、要するに、天主には体がないという意味に他なりません。
天主は、無形です。天主は、非物質的な実体です。天主には構成可能な物体を持たないのです。霊です。天主は、私たちとは違って、体がないので、私たちには天主が目に見えず、嗅覚することも、触ることも、味覚することもできません。人間の感覚が、天主を把握することができないのです。
しかしながら、感覚で天主を捉えることができないからといって、天主が存在しないのではありません。
根拠はこうです。天主の作品は常に私たちの目の前にあって、それを私たちは見ています。天主の作品のおかげで、私たちは天主の存在を知ります。画を見る人が、その画に必ず画家がいると知っていると同じように、大自然を観賞する人は、大自然の制作者がいることを知っています。
ところで、画を見ても、その画家が見えるとは限りません。聞こえないし、もしかしたら既に死んでいるかもしれません。しかし、それでも、作品が残っています。制作者が見えなくても、聞こえなくても、触れなくても、彼が存在することを、作品が残っているおかげで、当然知っているわけです。そうでなければ、無理です。少なくとも、画の制作者が存在したことを知ります。
天主に関しても、同じです。ただし、違いがあります。それは天主が存在したとは言えないということです。天主が、今でも存在し続けているということです。また別の機会にお話ししますが、もし天主が、今、もう存在していなかったのなら、天主が必然な者でなくなるので、天主でなくなるわけです。それなら、前回の証明が成り立たない、少なくても悪循環で、エビが自分の尾を噛むようなことになってしまいます。
言い換えると、天主が存在する証拠は、宇宙がまだ存在しているからです。天主が、すべてのモノの存在を維持するからです。
しかしながら、天主は霊ですから、目に見えない。
~~
因みに、天主は霊だからこそ死ねない存在なのです。人間は死ぬべき存在です。死の原因は、人間が体を持っているからです。体が、構成物なので、分解して、もとに戻っていくからです。その分解が、人間が呼ぶ「死」です。物理的なすべてのモノには、分解への傾向が必ずあります。そのような分解は、必ず衰退です。
しかしながら、天主はすべてのモノを司る存在ですから、天主には衰退がありません。したがって、霊である天主は物体ではないと言えます。天主は、物体ではなく、物質でない。物質を持つよりも、物質を持たない方が、より完全な状態です。物質を持たなかいからこそ、人間より天主が完全なのです。体を持つからこそ、人間は不完全なのです。
しかしながら、体を持たないからと言って、天主が存在しないことはありません。人間は、目で理性を見たことはないし、意志を見たこともありません。意志を見た人がいるでしょうか?生命を見たと言える人がいるでしょうか?いませんね。これらの事実が見えることはありません。非物理的なわけですから。でも、理性・意志・生命などが存在することはどうしてもみんな知っています。
たとえば、人間同士が話し合って、理解し合うこと自体は、理性がある証拠となるでしょう。でも、理性とは、どこにあるのでしょうか。
医者が、手術して、頭を開けるときに、理性を見ているでしょうか。当然、見たことはありません。しかし、それでも、理性はあります。
外科医が手術する時に、患者の意志を見ているでしょうか。見たことはないのです。しかし、それでも誰も知っていることです。意志がそこにあると。実際に存在するが、非物質的なのです。
人間が概念や理念を扱うことは言うまでもありません。それでも、体が、時々理念や概念を妨げることも皆が経験しています。それで、時に、考えようと思っても、難しい時があります。まさに、体によってこそ、ある種の不完全さがもたらされている証拠になります。人間の非物質的部分への妨げという不完全さです。
それに対して、天主は完全ですから、あらゆるものの上にましますので、すべての物事の創造者で、司り主ですから、純粋な霊と言えます。
天主には体がない。それは、天主の完全さです。
より旨く言ってみるとすると、天主には体がないだけではなく、天主とは、天主ご自身にとって、自らの「ある(存在)」なのです。これは、前回に説明したところです。
天主が、自分自身にとっての自らの必然的な存在です。天主とは、存在そのものです。
しかも、天主自身が、モーセの前に現れて、こう言いました。モーセが「天主の御名が聞かれたら、何と答えればよいでしょうか」と天主に聞き出してみると、天主がこう答えました。「我は、有りて在るものである。」
不思議な言葉ですけど、この言葉を通じて、天主が自分自身にとっての存在であることをおしゃっている。言い換えると、自分自身の自らの存在理由であると。
~~
天主は、自分自身自らによってしか存在しない。天主が、天主の自らの存在です。これは、天主の本質なのです。天主は、この上なく、存在そのものです。「天主という本体の中に、天主という基体の内に、すべてのモノが存在する」のではないのです。汎神論ではない。つまり、皆、天主の内に存在して、天主の一部であるような存在ではない。それなら、一種の汎神論になってしまう。いずれにせよ、人間は、自分が天主の一部であるという認識は、そもそも、感じない。しかも、もし、私たちが天主の一部であったら、天主が不完全となってしまう。つまり、私たちが、天主の一部であるか、天主からの流出であるなら、天主が不完全になってしまう。というのも、もしもそうだったら、天主が、被創造物に必然的に繋がっているということになってしまう。要するに、天主の必然性の全部が、天主にはないということになってしまう。つまり、天主には何か欠けるところがあって、ある不完全さを持つことになってします。
いや、天主が自分自身の存在の自らの理由です。存在そのものです。確かに、すべてのモノが、天主という存在によってこそ、存在しているわけです。しかしながら、すべてのモノが、存在たる天主によってこそあるにせよ、天主ではないし、天主にはなりえない。
天主が、自分自身にとって、自ら存在理由であるということを表す言葉があります。ラテン語から派生した言葉です。典型的な神学用語ですが、「アセイタス(自立存在性)」といいます。アセイタスとは、ラテン語の ”a se” に由来して、「自分によって」という意味です。天主は、自分によってのみ存在する、ということです。
人間は、自分によって存在していないのです。私たちの周りにあるモノで、自分によって存在しているモノは一つもない。私たちの存在は、他者から頂いているわけです。
これをラテン語で「ab alio アブ・アリオ」と言います。他者から私たちが来ている。他者から、私たちが存在を引き継いでいる。過去にも現在にも、私たちが、存在において依存している。私たちが、自分自身の存在を司る主ではない。否応なし、人間の存在は、現に他者に依存するのです。
しかし、天主は違います。天主は、自分自身の第一と必然的な原因ですから、自分自身によってしか存在を受けていない。「ア・セ」として、存在する。つまり、自分によってのみ存在する。それで、ラテン語で、「アセイタス(自立存在性)」という造語で、この事実を指し示します。典型的な神学用語です。天主が、自分自身の中に、自分自身の存在理由を持つことをいう。また、「アセイタス」という言葉が、天主を表現するために、中心概念となってくると言えます。
「アセイタス」、つまり、天主は、自分に寄ってのみ存在する。自立存在性です。天主の本質は、有りて在るということです。したがって、存在を与えることは、天主に属するのです。