白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております
「われは聖霊、 聖なる公教会、諸聖人の通功、罪の赦しを信じ奉る」。
信経の第十条です。「罪の赦しを信じ奉る」。
「罪の赦し」とは一体何でしょうか。「赦し」または「赦免」、「罪を赦す」というのは「免罪・赦免する」権限・力を指しています。
「罪を赦免する権限」というのは「罪を消す」力です。「罪」というのは「天主に対して人間が犯した侮辱行為」です。罪とは自然法に反し、天主の法に反する行為です。天主に逆らう行為であって天主を否定するような行為です。「罪を赦免する力」というのは、その「天主に対して犯された侮辱行為」を赦す力です。
このように二つの事が罪において包含されているので、「罪の赦し」においても、二つのことあるいは二つの要素が包含されています。
第一は、罪が天主に対しての過ちあるいは過失という要素です。罪とは、天主の名誉・仁義・荘厳さ・全能に対する侮辱行為で、本物の「過ち」であって、一番に言えることは「それが天主に対して犯されている」ということです。
従って、第二に、罪を犯した結果として刑罰を被ることになります。
罪には、必ず二つの側面があるのです。
一方では天主に対して犯された過失・過ちです。
他方では罪を犯した結果から帰結する刑罰です。
殆どの場合、その罪の次第に応じて、その「刑罰」は「償い」あるいは「罰」という形を取ります。以上のことは普遍的なことです。
自然法の次元でもこのようになっています。例えば、一人の子供が何かの悪戯を犯した時、これはまず教師にせよ親にせよ、誰かに対する「罪」(過ち・侮辱)です。当然、父母あるいは教師はその悪戯を赦すことはできます。ところが、その悪戯のために、子供は必ず罰を被る必要があります。このように、天主に対する罪も基本的に同じです。天主に対して罪が犯される度に、一方で、天主に対して犯される過ちがあり、他方では犯された「過ちを償うために」被らなければならない罰もあります。
その罰の程度は、罪の深刻さ次第です。過ちのせいで天主との親密さが失われてしまった時、また、その罪によって天主に完全に背き天主を追い出すようなときに、それに伴う罰は、その過ちの程度に適うものとして、「永劫の罰」となります。というのも、永遠なる天主を追い出した罪なので、それに伴う罰も永遠なのです。
他方、過ちが軽い場合には、それに伴う罰は、「有限の罰」と呼ばれるのですが、「限られている時間」で被る罰という意味です。
「罪を赦す」とは、「犯された過ちを赦す」力です。その「過ち」を赦し、赦免し、完全に取り消す力を言います。天主は「過ちを忘れる」力があります。「過ちを忘れ給う」ことによって、永劫罰も免除されます。
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「罪の赦し」を要約してみます。繰り返すと、あらゆる罪を赦免し、取り消す力です。
天主ご自身は次のように仰せになります。「罪がたとい真紅でも、雪のように白くなる」 。「罪がたとい真紅でも」というのは、「どれほど深刻な罪だったとしても、罪がどれほど重い過ちだったとしても」の意味であり、「雪のように白くなる」ということは「(天主である)私にそれらすべてを完全に赦す力がある」ということです。
預言者イザヤの書には、天主の次のお言葉があります。「その悪を雲のように、その罪を霧のようにふき消した。」
以上、「罪を赦す」力をご紹介しました。
次は、「罪を赦す」権限は誰にあるかという問いです。当然ながら、「罪を赦す」力は、あえて言えば唯一天主のみにあります。なぜでしょうか。天主こそが罪によって侮辱された御方ですから、当然ながら、赦すことができる御方は侮辱された御本人だけだからです。
従って、「罪を赦す力」は天主のものです。そこで、私たちの主イエズス・キリストも「罪を赦す力」を持つというべきです。先ず「天主として」イエズス・キリストはその力を持つのですが、それは分かりやすいですね。私たちの主は、聖なる三位一体の第二の位格であって、「天主」であるからです。主は、「Deus de Deo」「天主よりの天主」だからです。これは、聖なる三位一体の玄義です。天主としてのイエズス・キリストは「罪を赦す力」を持ちます。
キリストは聖ヨハネ福音において次のように仰せになります。「父のされることを子も同様にする」 。「私のものはみなあなた(父)のもの」 と。
次に、「人間」としても主イエズス・キリストは「罪を赦す力」を持つと言うべきです。イエズス・キリストは使徒たちに次のように仰せになります。「『人の子が地上で罪を赦す力を持っていることを知らせるために…』と言って、中風の人に向かい、『起きて、床をとって家に帰れ』と言われた」 。
ここでは、私たちの主は明白に「人間として」「罪を赦す力」を持っていると断言なさいます。それが御父から譲られた権限だから、イエズス・キリストはそれを持つのです。
最後に、私たちの主は「罪を赦す力」を持つ三つ目の「資格」があります。我々人類の贖い者であるからです。勿論人間としてですが、「贖い主」として「罪を赦す力」を持っています。人間として、イエズス・キリストは十字架上に架けられて死に給うたことにより我々を贖ってくださり、我々の霊魂を悪魔から奪い返したので、我々の霊魂を勝ち取った「征服権」を持っておられます。救い主として、ご自分の血を流されたことによって取得された権限でもあります。主は、我々の罪を赦す権限を取得されたからです。
丁度、洗礼者聖ヨハネが私たちの主を「メシア」として初めて指すときに「世の罪を取り除く天主の子羊を見よ」 といっています。「Ecce agnus Dei」「天主の子羊を見よ」と。子羊というのは、まさに十字架上に贖罪者として屠(ほふ)られる生贄ということです。洗礼者聖ヨハネは「世の罪を取り除く天主の子羊を見よ」 というのです。
従って、私たちの主は、天主としても人間としても贖い者としても、「罪を赦す」すべての力を持つのです。その通りで、イエズス・キリストは一生の間にいつも罪を実際に赦し続けました。福音を読むと明白です。
例えば聖マリア・マグダレナは自分の犯したすべての罪が赦されました。またほかにも多くの人々の罪がイエズス・キリストによって赦されました。例えば姦淫の女性とか。「私もあなたを罰しない。行け、これからはもう罪を犯さぬように」 とイエズス・キリストは仰せになります。
次に、私たちの主は「罪を赦す」力をお持ちなので、その権限を委任しました。使徒たちに委任された権限として、公教会にも委任された権限です。
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復活後、イエズス・キリストは使徒たちに次のように仰せになります。「聖霊を受けよ。あなたたちが罪を赦す人にはその罪が赦され、あなたたちが罪を赦さぬ人は赦されない」 と。
これは、信仰の真理であって、我々が信じるべき信条です。罪を赦す権限が公教会に譲られたということは信じるべき教えです。トレント公会議の第14総会には、次の命題があります。
「救い主によるこれらの御言葉」つまり「聖霊を受けよ。あなたたちが罪を赦す人にはその罪が赦され、あなたたちが罪を赦さぬ人は赦されない」 という「御言葉」のことです。「救い主によるこれらの御言葉は 最初からいつも公教会が受け入れ続けてきたとおりに『告解の秘跡』における『罪を赦すあるいは罪を赦さぬ権限である』としてある。その御言葉を受け入れない者は排斥されよ」と。
従って、公教会が私たちの主から「罪を赦す権限」を頂いたという真理を信じるべきです。この権限は絶対であり、普遍的です。あらゆる罪が赦されえます。
まず、天主にはその深刻さと重さそしてその数を問わずあらゆる罪を赦せる力をお持ちなので、公教会にその権限が委任された時点において、同じく「必要されている限り罪を何度でも赦すことができ、そしてその罪がどれほど重くても赦すことができる」のです。
主は次のように仰せになります。「あなたたち(使徒たち)が地上でつなぐものはすべて天でもつながれ、地上で解くものはすべて天でも解かれる」 。
「すべて」です。また仰せになりました。
「私は〈七度まで〉(ゆるすことができる)とは言わぬ。〈七度の七十倍まで〉という。」
公教会はすべての罪を赦す権限を持ち、その権限は完全で絶対的で普遍的です。
確かに、時々は公教会によっても「赦せぬ罪」があるという表現を耳にすることがあります。例えば「聖霊に対する罪」とかは「赦せぬ罪」となっています。
このような罪は、「公教会」でさえ「赦す」力がないと言われるかもしれません。実際は違います。「赦す力」がないが理由になっているのではありません。聖霊に反するような罪がなぜ「赦されぬ罪」と言われるかというと、「天主」そして「公教会」などがそういった罪を「赦すことができない」からではないのです。天主は全能であって、すべての罪を赦す力があるし、その権限をそのままに公教会に譲ったので、当然、すべての罪を赦すことが可能です。
なぜ聖霊に反対するよう罪が「赦されぬ罪」と言われるのかというと、こういった罪が犯されている時の罪人の状態が、赦しを得ることが可能な状態ではないことを意味するからです。
この意味において「赦されぬ罪」なのです。だから私たちの主は「あなたたちが罪を赦さぬ人は赦されない」と仰せになります。この言葉を正しく理解しましょう。これがあるからといって、「聖職者」が気まぐれやその時の感情で赦しても赦さなくても良いというような自由を持つのではありません。全く違います。
なぜ「赦す」時も「赦さぬ」時もあるのかというと、それは罪人(つみびと)の状態次第によるということです。
罪の赦しには、先ず罪人が「罪を犯した」と明かして、自分を告発し、赦しを乞い願いに来る必要があります。罪を赦すには、罪を犯した人がその罪を犯したことを痛悔しないと赦すことができないのです。言い換えると、「悔悛の心」と「罪を償う意志がある」という条件が揃った時に、はじめて本当の意味で「罪を赦すことができる」のです。
だから、以上のような条件、つまり「悔悛と償う意志と」が揃っていない罪人は、天主の赦しを得ることは不可能です。そこで、聖霊に反する罪のような「赦されぬ罪」といわれる多くは、その罪の性質が、「悔悛」あるいは「償う意志」という条件がないことが明白な罪なのです 。こういったような罪は、「頑固に、意図的に罪から出ようとしない」罪です。
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最後に、具体的に言って、公教会はどうやって罪を赦すのでしょうか。
通常の場合、洗礼という秘跡を通じて、公教会が罪を赦します。
洗礼を授かった人は洗礼を受ける以前のすべての罪(分別がついた後からの罪)が赦されます。もちろん、洗礼によってまず原罪という穢れが取り消されます。その上、自分で犯したすべての罪が完全に赦されて、取り消されます。すべての過ちと、すべての刑罰も赦免されます。
洗礼の秘跡の後、イエズス・キリストは「告解の秘跡」あるいは「改悛の秘跡」を制定なさいました。
「告解の秘跡」とは、それを通じて、悔い改める罪人、自分の罪を咎める罪人の罪を司祭が赦す秘跡です。「ああ天主よ、あなたは悔い改め、へりくだる魂を軽んじられない」と詩編50に書いてある通り、霊魂の罪を司祭が赦す秘跡です。というのは、司祭が「私たちの主イエズス・キリストの名において」罪を赦し、悔い改める人のために、罪の過ちから完全に赦免し、永劫罰から免除するからです。
また、臨終にという形ですが、赦される条件が揃っていて、内面的にだけでも悔悛と償う意志のある信徒のために、終油の秘跡にも罪を赦す力があります。
以上、「罪の赦し」という信条をご紹介しました。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております
公教要理-第六十七講 罪のゆるし
「われは聖霊、 聖なる公教会、諸聖人の通功、罪の赦しを信じ奉る」。
信経の第十条です。「罪の赦しを信じ奉る」。
「罪の赦し」とは一体何でしょうか。「赦し」または「赦免」、「罪を赦す」というのは「免罪・赦免する」権限・力を指しています。
「罪を赦免する権限」というのは「罪を消す」力です。「罪」というのは「天主に対して人間が犯した侮辱行為」です。罪とは自然法に反し、天主の法に反する行為です。天主に逆らう行為であって天主を否定するような行為です。「罪を赦免する力」というのは、その「天主に対して犯された侮辱行為」を赦す力です。
このように二つの事が罪において包含されているので、「罪の赦し」においても、二つのことあるいは二つの要素が包含されています。
第一は、罪が天主に対しての過ちあるいは過失という要素です。罪とは、天主の名誉・仁義・荘厳さ・全能に対する侮辱行為で、本物の「過ち」であって、一番に言えることは「それが天主に対して犯されている」ということです。
従って、第二に、罪を犯した結果として刑罰を被ることになります。
罪には、必ず二つの側面があるのです。
一方では天主に対して犯された過失・過ちです。
他方では罪を犯した結果から帰結する刑罰です。
殆どの場合、その罪の次第に応じて、その「刑罰」は「償い」あるいは「罰」という形を取ります。以上のことは普遍的なことです。
自然法の次元でもこのようになっています。例えば、一人の子供が何かの悪戯を犯した時、これはまず教師にせよ親にせよ、誰かに対する「罪」(過ち・侮辱)です。当然、父母あるいは教師はその悪戯を赦すことはできます。ところが、その悪戯のために、子供は必ず罰を被る必要があります。このように、天主に対する罪も基本的に同じです。天主に対して罪が犯される度に、一方で、天主に対して犯される過ちがあり、他方では犯された「過ちを償うために」被らなければならない罰もあります。
その罰の程度は、罪の深刻さ次第です。過ちのせいで天主との親密さが失われてしまった時、また、その罪によって天主に完全に背き天主を追い出すようなときに、それに伴う罰は、その過ちの程度に適うものとして、「永劫の罰」となります。というのも、永遠なる天主を追い出した罪なので、それに伴う罰も永遠なのです。
他方、過ちが軽い場合には、それに伴う罰は、「有限の罰」と呼ばれるのですが、「限られている時間」で被る罰という意味です。
「罪を赦す」とは、「犯された過ちを赦す」力です。その「過ち」を赦し、赦免し、完全に取り消す力を言います。天主は「過ちを忘れる」力があります。「過ちを忘れ給う」ことによって、永劫罰も免除されます。
~~
「罪の赦し」を要約してみます。繰り返すと、あらゆる罪を赦免し、取り消す力です。
天主ご自身は次のように仰せになります。「罪がたとい真紅でも、雪のように白くなる」 。「罪がたとい真紅でも」というのは、「どれほど深刻な罪だったとしても、罪がどれほど重い過ちだったとしても」の意味であり、「雪のように白くなる」ということは「(天主である)私にそれらすべてを完全に赦す力がある」ということです。
預言者イザヤの書には、天主の次のお言葉があります。「その悪を雲のように、その罪を霧のようにふき消した。」
以上、「罪を赦す」力をご紹介しました。
次は、「罪を赦す」権限は誰にあるかという問いです。当然ながら、「罪を赦す」力は、あえて言えば唯一天主のみにあります。なぜでしょうか。天主こそが罪によって侮辱された御方ですから、当然ながら、赦すことができる御方は侮辱された御本人だけだからです。
従って、「罪を赦す力」は天主のものです。そこで、私たちの主イエズス・キリストも「罪を赦す力」を持つというべきです。先ず「天主として」イエズス・キリストはその力を持つのですが、それは分かりやすいですね。私たちの主は、聖なる三位一体の第二の位格であって、「天主」であるからです。主は、「Deus de Deo」「天主よりの天主」だからです。これは、聖なる三位一体の玄義です。天主としてのイエズス・キリストは「罪を赦す力」を持ちます。
キリストは聖ヨハネ福音において次のように仰せになります。「父のされることを子も同様にする」 。「私のものはみなあなた(父)のもの」 と。
次に、「人間」としても主イエズス・キリストは「罪を赦す力」を持つと言うべきです。イエズス・キリストは使徒たちに次のように仰せになります。「『人の子が地上で罪を赦す力を持っていることを知らせるために…』と言って、中風の人に向かい、『起きて、床をとって家に帰れ』と言われた」 。
ここでは、私たちの主は明白に「人間として」「罪を赦す力」を持っていると断言なさいます。それが御父から譲られた権限だから、イエズス・キリストはそれを持つのです。
最後に、私たちの主は「罪を赦す力」を持つ三つ目の「資格」があります。我々人類の贖い者であるからです。勿論人間としてですが、「贖い主」として「罪を赦す力」を持っています。人間として、イエズス・キリストは十字架上に架けられて死に給うたことにより我々を贖ってくださり、我々の霊魂を悪魔から奪い返したので、我々の霊魂を勝ち取った「征服権」を持っておられます。救い主として、ご自分の血を流されたことによって取得された権限でもあります。主は、我々の罪を赦す権限を取得されたからです。
丁度、洗礼者聖ヨハネが私たちの主を「メシア」として初めて指すときに「世の罪を取り除く天主の子羊を見よ」 といっています。「Ecce agnus Dei」「天主の子羊を見よ」と。子羊というのは、まさに十字架上に贖罪者として屠(ほふ)られる生贄ということです。洗礼者聖ヨハネは「世の罪を取り除く天主の子羊を見よ」 というのです。
従って、私たちの主は、天主としても人間としても贖い者としても、「罪を赦す」すべての力を持つのです。その通りで、イエズス・キリストは一生の間にいつも罪を実際に赦し続けました。福音を読むと明白です。
例えば聖マリア・マグダレナは自分の犯したすべての罪が赦されました。またほかにも多くの人々の罪がイエズス・キリストによって赦されました。例えば姦淫の女性とか。「私もあなたを罰しない。行け、これからはもう罪を犯さぬように」 とイエズス・キリストは仰せになります。
次に、私たちの主は「罪を赦す」力をお持ちなので、その権限を委任しました。使徒たちに委任された権限として、公教会にも委任された権限です。
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復活後、イエズス・キリストは使徒たちに次のように仰せになります。「聖霊を受けよ。あなたたちが罪を赦す人にはその罪が赦され、あなたたちが罪を赦さぬ人は赦されない」 と。
これは、信仰の真理であって、我々が信じるべき信条です。罪を赦す権限が公教会に譲られたということは信じるべき教えです。トレント公会議の第14総会には、次の命題があります。
「救い主によるこれらの御言葉」つまり「聖霊を受けよ。あなたたちが罪を赦す人にはその罪が赦され、あなたたちが罪を赦さぬ人は赦されない」 という「御言葉」のことです。「救い主によるこれらの御言葉は 最初からいつも公教会が受け入れ続けてきたとおりに『告解の秘跡』における『罪を赦すあるいは罪を赦さぬ権限である』としてある。その御言葉を受け入れない者は排斥されよ」と。
従って、公教会が私たちの主から「罪を赦す権限」を頂いたという真理を信じるべきです。この権限は絶対であり、普遍的です。あらゆる罪が赦されえます。
まず、天主にはその深刻さと重さそしてその数を問わずあらゆる罪を赦せる力をお持ちなので、公教会にその権限が委任された時点において、同じく「必要されている限り罪を何度でも赦すことができ、そしてその罪がどれほど重くても赦すことができる」のです。
主は次のように仰せになります。「あなたたち(使徒たち)が地上でつなぐものはすべて天でもつながれ、地上で解くものはすべて天でも解かれる」 。
「すべて」です。また仰せになりました。
「私は〈七度まで〉(ゆるすことができる)とは言わぬ。〈七度の七十倍まで〉という。」
公教会はすべての罪を赦す権限を持ち、その権限は完全で絶対的で普遍的です。
確かに、時々は公教会によっても「赦せぬ罪」があるという表現を耳にすることがあります。例えば「聖霊に対する罪」とかは「赦せぬ罪」となっています。
このような罪は、「公教会」でさえ「赦す」力がないと言われるかもしれません。実際は違います。「赦す力」がないが理由になっているのではありません。聖霊に反するような罪がなぜ「赦されぬ罪」と言われるかというと、「天主」そして「公教会」などがそういった罪を「赦すことができない」からではないのです。天主は全能であって、すべての罪を赦す力があるし、その権限をそのままに公教会に譲ったので、当然、すべての罪を赦すことが可能です。
なぜ聖霊に反対するよう罪が「赦されぬ罪」と言われるのかというと、こういった罪が犯されている時の罪人の状態が、赦しを得ることが可能な状態ではないことを意味するからです。
この意味において「赦されぬ罪」なのです。だから私たちの主は「あなたたちが罪を赦さぬ人は赦されない」と仰せになります。この言葉を正しく理解しましょう。これがあるからといって、「聖職者」が気まぐれやその時の感情で赦しても赦さなくても良いというような自由を持つのではありません。全く違います。
なぜ「赦す」時も「赦さぬ」時もあるのかというと、それは罪人(つみびと)の状態次第によるということです。
罪の赦しには、先ず罪人が「罪を犯した」と明かして、自分を告発し、赦しを乞い願いに来る必要があります。罪を赦すには、罪を犯した人がその罪を犯したことを痛悔しないと赦すことができないのです。言い換えると、「悔悛の心」と「罪を償う意志がある」という条件が揃った時に、はじめて本当の意味で「罪を赦すことができる」のです。
だから、以上のような条件、つまり「悔悛と償う意志と」が揃っていない罪人は、天主の赦しを得ることは不可能です。そこで、聖霊に反する罪のような「赦されぬ罪」といわれる多くは、その罪の性質が、「悔悛」あるいは「償う意志」という条件がないことが明白な罪なのです 。こういったような罪は、「頑固に、意図的に罪から出ようとしない」罪です。
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最後に、具体的に言って、公教会はどうやって罪を赦すのでしょうか。
通常の場合、洗礼という秘跡を通じて、公教会が罪を赦します。
洗礼を授かった人は洗礼を受ける以前のすべての罪(分別がついた後からの罪)が赦されます。もちろん、洗礼によってまず原罪という穢れが取り消されます。その上、自分で犯したすべての罪が完全に赦されて、取り消されます。すべての過ちと、すべての刑罰も赦免されます。
洗礼の秘跡の後、イエズス・キリストは「告解の秘跡」あるいは「改悛の秘跡」を制定なさいました。
「告解の秘跡」とは、それを通じて、悔い改める罪人、自分の罪を咎める罪人の罪を司祭が赦す秘跡です。「ああ天主よ、あなたは悔い改め、へりくだる魂を軽んじられない」と詩編50に書いてある通り、霊魂の罪を司祭が赦す秘跡です。というのは、司祭が「私たちの主イエズス・キリストの名において」罪を赦し、悔い改める人のために、罪の過ちから完全に赦免し、永劫罰から免除するからです。
また、臨終にという形ですが、赦される条件が揃っていて、内面的にだけでも悔悛と償う意志のある信徒のために、終油の秘跡にも罪を赦す力があります。
以上、「罪の赦し」という信条をご紹介しました。