白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております
前回まで私たちの主イエズス・キリストの人生をご紹介しました。これから、信経の次の信条に移りたいと思います。聖霊に関する信条、第八条です。「われは聖霊を信じ奉る」。
第一条は、聖父なる天主に関する信条でした。まず、全体的に「天主」とは何か、それから、聖父なる天主とは何か、それから、御創造と被創造世界とは何か、を取り扱いました。
第二条とその次の信条では、三位の第二の位格に関することをご紹介しました。
聖子なる私たちの主はご托身し、地上に降り給い、人間となり給い、我々を救い、我々の罪を贖うために十字架上で死に給うたおかげで、天主と人類の和解が実現し、天門を開け給うたのです。私たちの救済と贖罪のために、十字架上に死に給うたのです。
これから、ある意味で信経の第三部というか、最後の部に入ることになります。この部は第八条で始まります。「われは聖霊を信じ奉る」。
~~
以前にも聖霊についてご紹介したことがあります。聖なる三位一体の玄義をご説明したときに、聖霊についてちょっと触れました。三つの位格でありながら、唯一の天主という玄義。
第八条を機に三位一体について手短く復習してみましょう。聖霊というのは、三位一体の第三位格であるということを改めて思い起こしましょう。
天主は唯一です。言い換えると、天主の本性は一つしかありません。天主の唯一なる本性において、三つの位格があります。聖父(ちち)と聖子(こ)と聖霊(せいれい)との三つの位格です。聖霊は第三の位格です。聖霊は聖父(ちち)と聖子(こ)より劣るところが一つもありません。裏返して言うと、聖霊は聖父と聖子とすべてにおいて等しいのです。その理由は単純で、聖霊が天主だからです。聖父と聖子とも同じく、聖霊はあえて言えば完全なる天主です。聖霊には何も欠けたところがない天主そのものです。聖父と聖子と全く同じく、聖霊は天主のすべての特性と特徴を持っています。
聖父と聖子と同じく聖霊も永遠です。
聖父と聖子と同じく聖霊も全能です。
聖父と聖子と同じく聖霊も限りなく、普遍です。
その他のすべての天主の特性に関しても同じです。
聖父と聖子と同じく聖霊も限りなく善良です。天主聖父について言えることのすべて、また聖子について言えることのすべては、聖霊についても全く同じく言えるのです。聖霊は聖父と聖子と等しいからです。
第三の位格ですが、すべてのことにおいて、天主なる聖霊は、天主なる聖父と天主なる聖子とまったく等しいからです。
聖父と聖子と聖霊を区別する唯一のことは、「聖父と聖子より発する」ということだけです。
聖なる三位一体の玄義をご紹介した時、説明した通りです。
聖父はご自分を知ります。聖父はご自分を知ることによって、「智慧」「御言葉」という第二の位格を生みます。聖なる三位一体の第二の位格である「御言葉」は聖父のすべてを語っておられます。それほど完璧に聖父のことを語っておられているので、「聖父より発生した」ということ以外に、すべてにおいて聖父と全く等しく、同じです。ですから、聖子において聖父はご自分を完全に知り、完璧にご自分を認めるのです。聖父と聖子はすべてにおいて等しいので、聖子において聖父は完全にご自分を認め、従って、限りなく完全な愛で聖子を愛します。
同じく、聖子は限りなく完全な愛で聖父を愛します。この愛こそ第三位格というペルソナで、あえていえば聖父と聖子から「湧く」のです。これが聖霊です。聖霊は聖父と聖子との愛そのものです。従って、聖霊は、あえて言えば全く共同という形で、聖父と聖子より発するのです。天主において、聖霊が「御愛」と呼ばれているのは、まさに聖父と聖子との間の相互の愛より発するからです。聖霊が「聖」と呼ばれているのは天主だからです。天主のすべてにおいて全く等しいから「聖」霊といいます。つまり聖父が聖なるように、聖子が聖なるように、聖霊は「聖なるもの」です。
聖霊を「霊」と言うのは、ラテン語で「霊」の語源は「Spiritus」ですが、「息吹」という意味で、まさに人間の限られた力で「愛」を表現できるような最高の言葉としての「霊・息吹(Spiritus)」だから、「聖霊」と呼ばれています。聖なる三位一体においての聖霊の別称号は「御愛」とも呼ばれています。
要するに、聖霊は聖父と聖子より発するのです。
ところで聖霊の発出に関して、残念ながら諸誤謬が言われたことがあります。
まず、紀元後四世紀のマセドニウスによる誤謬で、聖霊の天主性を否定しました。マセドニウスによると、聖霊は天主ではないとし、何らかの天主の流出のようなものだと主張していて、これは天主ではないとする誤謬です。この誤謬は、381年のコンスタンティノポリス公会議によって、排斥されました。このコンスタンティノポリス公会議の際に、聖霊の天主性は明白に再断言されました。
時代が下って聖霊についてのもう一つの誤謬が広まりました。正教会とも呼ばれているギリシア離教教会によるものですが、聖霊は、聖父よりしか発しないという誤謬です。聖父と聖子とより聖霊が発するというのを認めないという誤謬です。ギリシア離教教会にとって、聖霊は聖父よりしか発しないということで、四世紀のニケア公会議の時に固まった信経より「filioque「フィリオ・クエ」」という言葉を取り消してしまったのです。ミサ聖祭の流れの中に唱えている信経ですが、「filioque」とは「○○と聖子より」という意味です。
聖霊が「聖父と聖子より発する」という信経の信条から「と聖子より」が否定されたのです。要するに、ギリシア離教教会では聖子よりの聖霊の発生を否定してしまう誤謬を訴えています。
~~
以上、位格としての聖霊についてご紹介しました。
これから聖霊の特別の使命についてご紹介しましょう。特別の使命とは、簡単に言うと、聖霊に「便宜上帰属」する使命ということですが、厳密に言うと当然ながら、聖父と聖子との御働きでもあります。
聖なる三位一体の玄義をご紹介した時に説明した通り、「ad extra」つまり三位一体の「外で」のすべての働き・御業(みわざ)は、常に三つの位格に共同の働きです。
例えば、全世界の創造という御業を聖父なる天主に帰属することは一般ですが、全能なる聖父というイメージが強く、またすべての発生などは聖父なる天主から生じることから転じて、宇宙の創造を聖父に帰属するのは普通です。が、厳密に言うと、天主なる聖父も天主なる聖子も天主なる聖霊も同じく共同で宇宙を創造したのです。存在しているすべての物事を創造したのは共同に働く三つの位格、つまり天主なのです。
聖父に帰属する創造と同じように、一般的に、聖霊には聖化の御働きを帰属させます。なぜかというと、信徒たちの霊魂における聖化の御働きは、聖霊を特徴づける「愛」あるいは「御憐れみ」による御働きだからです。
聖化は慣習的に聖霊に帰属する特別の使命です。聖化を定義すると、人が愛徳を増せば増すほど聖化されていきます。そして、私たちの霊魂における「神聖さ」の程度は、私たちの心に染みた「愛徳」の程度に他なりません。三位一体において聖霊は「御愛」であり、また「愛・カリタス」そのものなのだということから転じて、慣習的に、聖霊に霊魂における「聖化の御働き」を帰属させます。
それから、「聖霊の使命(ミッシオ)」もあります。あえて言えば、聖霊は「送られた・遣わされた」ということです。因みに語源で言うと、ミッシオmissioは「派遣(はけん)」という意味ですが、聖霊は地上において特に二度にわたって示されたことがあります。
一度目は、私たちの主イエズス・キリストの洗礼の時でした。白鳩という形で現れ給いました。
二度目は、聖霊降臨の日に、使徒たちの前に「火の炎」という形で現れ給いました。
私たちの主イエズス・キリストの昇天の後に、使徒たちがチェナクルムにいました。私たちの主が天に昇り給った後、聖母マリアと一緒に十日間ぐらいチェナクルムに泊まっていました。そして、聖霊降臨の日の午前九時ごろ、「天から激しい風が吹いてくるような音がきこえ」 ました。その騒音は町のどこにも広く聞こえたと思われ、多くの人々がチェナクルムの近くに集まりました。それから、「彼ら(使徒たちと聖母)の座っていた家に満ち、火のような舌が現れ、分かれておのおのの上に止まった」 。つまり、この場面は聖霊が使徒たちの霊魂に注ぎ、霊魂を占領するということを示します。
また、「火のような舌」というのは、使徒たちはいきなり「諸国民の諸言語が話せるようになった」という賜物を指します。また、「火のように」、火が光をもたらすように、聖霊も霊魂において光をもたらして、霊魂を照らすという意味もあります。
または、火のように、火が燃やすように、聖霊によって霊魂が燃え出して、その愛がどうしても広まろうと伝って、愛によって周辺にある霊魂たちを燃やし尽くそうとするという意味もあります。
聖霊降臨の日に、「心を変えた」という意味で、聖霊は使徒たちの霊魂を回心させました。聖霊に燃やし尽くされて、使徒たちも世界中を歩きだして伝道してきました。
以上、聖霊の地上でのご出現をご紹介しました。
それから、聖霊の働きは聖霊降臨以降からずっと続いています。
いまでも公教会においてこそ、聖霊の働きが続いています。だから、聖霊についての信条の次は、公教会についての信条に続くことになります。というのも、繰り返しますが、「聖霊に帰属する」だけですが、聖霊こそが公教会を導くからです。聖霊こそが公教会を守るのです。聖霊の御働きのお陰でこそ、布教できるようになり、公教会が保全なる信仰を世界中に宣教して広めていきます。
また、霊魂たちの聖化のためにイエズス・キリストによって用意された諸秘跡を授けることによって、公教会は保全なる信仰を世界中に宣教して広めていきます。
聖霊には「七つの賜物」も帰属します。聖霊の七つの賜物は次の通りです。
上智、聰明、賢慮、剛毅、知識、孝愛、天主への敬畏です。これを聖霊の賜物といいます。
七つの賜物というのは恩寵と愛徳が天主によって注がれているたびに義人に一緒に与えられる賜物です。つまり、ある人が聖寵の状態にある間、自分の霊魂が聖霊の賜物を享受しているのです。
聖霊の賜物というのは、聖寵の状態にある霊魂に注がれた超自然の良い状態あるいは良い習慣です。こういった超自然の良き習慣のお陰で、義人(つまり聖寵の状態にある者・義化された者)の霊魂が完成化していきます。聖霊の賜物による完成化というお陰で、聖霊の「息吹」あるいは聖霊の「霊感」を霊魂が受け得るようになります。
聖霊の賜物を例える時、船の帆を取り上げることが多くあります。聖霊の賜物は、船の帆のようなもので、風を受けうる装置に喩えられ、風を受ける帆で船が動きます。現代風にこの喩えを改めていってみると、聖霊の賜物はアンテナのようなものですね。このアンテナという装置のお陰で、聖霊からの「受信」ができるようになります。
同じように、「帆」のように、また「アンテナ」のように、聖寵の状態にある時、聖霊の賜物は霊魂に装置されています。勿論、比喩にすぎませんが、イメージが分かりやすいですね。
つまり、七つの賜物は霊魂の良い状態・性質のようもので、これらの良い性質を働かせることによって、霊魂が聖霊の「息吹」を受け得る状態にさせるのです。聖霊の息吹を受けるというのは、「風が帆に当たって船が風の流れへ動き出すように」聖霊によって導かれて動きだすのです。実に「聖なる人生」、あるいは「聖人として生きる」というのは、まさに、聖霊の導きのままに行動するということです。つまり、霊魂にとって「聖なる生き方」というのは、聖霊の完全なる支配の下に自分を置くということです。そして、聖霊による霊魂への支配は、「七つの賜物」を通じてこそ実現しているのです。
聖霊の七つの賜物の上に、12つの「聖霊の実り」もあります。「聖霊の実り」というのは、簡単に言うと「聖霊と常に生きている」のなら、また、「霊魂が聖霊と一致すればするほど」結ばれる特別の結果とでも言いましょう。
この12つの「聖霊の実り」は、ガラツィア人への手紙の中に記されていて、聖パウロが書き並べています。
愛、喜び、平和、忍耐、温厚、仁慈、善良、寛容、誠実、柔和、節制と純潔との12つの聖霊の実です。
霊魂が聖霊の支配下に置かれている状態だから、結ばれる12つの実りです。
~~
聖霊の賜物と聖霊の実りの上に、聖霊は他の賜物をも与えるのですが、七つの賜物と違って、公教会の時代事情に応じたりして、条件なしの賜物をも与えます。「無償の賜物」と呼ばれています。
「賜物」なら必ず無償だと言われるかもしれませんが、聖霊の「無償の賜物」は「隣人の救いのために」無条件に与えられる賜物なので「無償の賜物」といいます。
つまり、自分の聖化のためにある賜物のではない、ということです。
聖霊の七つの賜物とその実りは自分の聖化のために用意されている賜物で、その賜物によって霊魂が聖霊の感化を受け得るようになり、常に聖霊の導きのまま生きれば生きるほど結果として実りを結びます。その上、それ以外に、聖霊は霊魂に「無償の賜物gratia gratis data」をも与えます。
この「無償の賜物」の特徴というのは賜物が注がれた霊魂自身のために与えられているのではなくて、共通善のために、公教会の善のために、隣人の善のために与えられている「無償の賜物」なのです。ラテン語で「gratia gratis data」というのですが、「賜物」の別名として、「カリスマ」とも呼ばれています。九つあります。
智慧について旨く話す賜物。知識の賜物。治療あるいは病を治す賜物。信仰の賜物。奇跡を起こす能力という賜物。預言の賜物。心の判別の賜物。言語を流暢に話せる賜物。解釈の賜物。
公教会の全歴史を見ても、以上のある賜物はその時代に応じて、ある聖人に与えられて隣人の救いのために、他の霊魂の回心のために、無償に与えられたことが確認できます。
ところが、これらの無償の賜物は、歴史を見ても、聖人自身のためにあるのではありません。例えば、「病を治す」とか「奇跡を起こす」とかは、聖人が治し起こしますが、自分の救済にとって何の価値もありません。何の役も立ちません。隣人の聖化のために、病を治したり奇跡を起こしたりするものです。
例えば、天主の御働きを示すためとか、より単純に、天主が存在するということを証明するためとか、隣人の聖化のために特別に用意されている無償の賜物です。
当然ながら、聖霊を特に礼拝すべきです。天主ですから、礼拝すべきです。
天主なる聖父と天主なる聖子に対する同じ礼拝を聖霊に対しても捧げるべきです。
言い換えると、天主を礼拝するたびに、聖霊をも礼拝しているのです。それでも、私たちの人生において、特別に聖霊に祈ることもありましょう。この世で、この現代で、光がもたらされるように。また、特に現代では「剛毅」という賜物を頂くように。また、たとえば「誠実」でずっといられるように。
自分自身の聖化のために、特別に聖霊に祈ったらよいでしょう。
以上、聖霊に対して祈る意向の幾つかの典型的な例を挙げましたが、ある聖人は「もしも毎日15分だけでも聖霊に祈ることが出来たら、至福に入ることは確実になるだろう」といっていました。つまり、臨終の時まで、信仰における堅忍を確保できて、天国にはいれるというような意味です。
ですから、より頻繁に聖霊に祈るという遷善の決心をいたしましょう。
常にこの地上で働き給う聖霊なのに、比較的に忘れられがちの聖霊ですから、より多く聖霊に祈りましょう。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております
公教要理-第五十七講 聖霊について
前回まで私たちの主イエズス・キリストの人生をご紹介しました。これから、信経の次の信条に移りたいと思います。聖霊に関する信条、第八条です。「われは聖霊を信じ奉る」。
第一条は、聖父なる天主に関する信条でした。まず、全体的に「天主」とは何か、それから、聖父なる天主とは何か、それから、御創造と被創造世界とは何か、を取り扱いました。
第二条とその次の信条では、三位の第二の位格に関することをご紹介しました。
聖子なる私たちの主はご托身し、地上に降り給い、人間となり給い、我々を救い、我々の罪を贖うために十字架上で死に給うたおかげで、天主と人類の和解が実現し、天門を開け給うたのです。私たちの救済と贖罪のために、十字架上に死に給うたのです。
これから、ある意味で信経の第三部というか、最後の部に入ることになります。この部は第八条で始まります。「われは聖霊を信じ奉る」。
~~
以前にも聖霊についてご紹介したことがあります。聖なる三位一体の玄義をご説明したときに、聖霊についてちょっと触れました。三つの位格でありながら、唯一の天主という玄義。
第八条を機に三位一体について手短く復習してみましょう。聖霊というのは、三位一体の第三位格であるということを改めて思い起こしましょう。
天主は唯一です。言い換えると、天主の本性は一つしかありません。天主の唯一なる本性において、三つの位格があります。聖父(ちち)と聖子(こ)と聖霊(せいれい)との三つの位格です。聖霊は第三の位格です。聖霊は聖父(ちち)と聖子(こ)より劣るところが一つもありません。裏返して言うと、聖霊は聖父と聖子とすべてにおいて等しいのです。その理由は単純で、聖霊が天主だからです。聖父と聖子とも同じく、聖霊はあえて言えば完全なる天主です。聖霊には何も欠けたところがない天主そのものです。聖父と聖子と全く同じく、聖霊は天主のすべての特性と特徴を持っています。
聖父と聖子と同じく聖霊も永遠です。
聖父と聖子と同じく聖霊も全能です。
聖父と聖子と同じく聖霊も限りなく、普遍です。
その他のすべての天主の特性に関しても同じです。
聖父と聖子と同じく聖霊も限りなく善良です。天主聖父について言えることのすべて、また聖子について言えることのすべては、聖霊についても全く同じく言えるのです。聖霊は聖父と聖子と等しいからです。
第三の位格ですが、すべてのことにおいて、天主なる聖霊は、天主なる聖父と天主なる聖子とまったく等しいからです。
聖父と聖子と聖霊を区別する唯一のことは、「聖父と聖子より発する」ということだけです。
聖なる三位一体の玄義をご紹介した時、説明した通りです。
聖父はご自分を知ります。聖父はご自分を知ることによって、「智慧」「御言葉」という第二の位格を生みます。聖なる三位一体の第二の位格である「御言葉」は聖父のすべてを語っておられます。それほど完璧に聖父のことを語っておられているので、「聖父より発生した」ということ以外に、すべてにおいて聖父と全く等しく、同じです。ですから、聖子において聖父はご自分を完全に知り、完璧にご自分を認めるのです。聖父と聖子はすべてにおいて等しいので、聖子において聖父は完全にご自分を認め、従って、限りなく完全な愛で聖子を愛します。
同じく、聖子は限りなく完全な愛で聖父を愛します。この愛こそ第三位格というペルソナで、あえていえば聖父と聖子から「湧く」のです。これが聖霊です。聖霊は聖父と聖子との愛そのものです。従って、聖霊は、あえて言えば全く共同という形で、聖父と聖子より発するのです。天主において、聖霊が「御愛」と呼ばれているのは、まさに聖父と聖子との間の相互の愛より発するからです。聖霊が「聖」と呼ばれているのは天主だからです。天主のすべてにおいて全く等しいから「聖」霊といいます。つまり聖父が聖なるように、聖子が聖なるように、聖霊は「聖なるもの」です。
聖霊を「霊」と言うのは、ラテン語で「霊」の語源は「Spiritus」ですが、「息吹」という意味で、まさに人間の限られた力で「愛」を表現できるような最高の言葉としての「霊・息吹(Spiritus)」だから、「聖霊」と呼ばれています。聖なる三位一体においての聖霊の別称号は「御愛」とも呼ばれています。
要するに、聖霊は聖父と聖子より発するのです。
ところで聖霊の発出に関して、残念ながら諸誤謬が言われたことがあります。
まず、紀元後四世紀のマセドニウスによる誤謬で、聖霊の天主性を否定しました。マセドニウスによると、聖霊は天主ではないとし、何らかの天主の流出のようなものだと主張していて、これは天主ではないとする誤謬です。この誤謬は、381年のコンスタンティノポリス公会議によって、排斥されました。このコンスタンティノポリス公会議の際に、聖霊の天主性は明白に再断言されました。
時代が下って聖霊についてのもう一つの誤謬が広まりました。正教会とも呼ばれているギリシア離教教会によるものですが、聖霊は、聖父よりしか発しないという誤謬です。聖父と聖子とより聖霊が発するというのを認めないという誤謬です。ギリシア離教教会にとって、聖霊は聖父よりしか発しないということで、四世紀のニケア公会議の時に固まった信経より「filioque「フィリオ・クエ」」という言葉を取り消してしまったのです。ミサ聖祭の流れの中に唱えている信経ですが、「filioque」とは「○○と聖子より」という意味です。
聖霊が「聖父と聖子より発する」という信経の信条から「と聖子より」が否定されたのです。要するに、ギリシア離教教会では聖子よりの聖霊の発生を否定してしまう誤謬を訴えています。
~~
以上、位格としての聖霊についてご紹介しました。
これから聖霊の特別の使命についてご紹介しましょう。特別の使命とは、簡単に言うと、聖霊に「便宜上帰属」する使命ということですが、厳密に言うと当然ながら、聖父と聖子との御働きでもあります。
聖なる三位一体の玄義をご紹介した時に説明した通り、「ad extra」つまり三位一体の「外で」のすべての働き・御業(みわざ)は、常に三つの位格に共同の働きです。
例えば、全世界の創造という御業を聖父なる天主に帰属することは一般ですが、全能なる聖父というイメージが強く、またすべての発生などは聖父なる天主から生じることから転じて、宇宙の創造を聖父に帰属するのは普通です。が、厳密に言うと、天主なる聖父も天主なる聖子も天主なる聖霊も同じく共同で宇宙を創造したのです。存在しているすべての物事を創造したのは共同に働く三つの位格、つまり天主なのです。
聖父に帰属する創造と同じように、一般的に、聖霊には聖化の御働きを帰属させます。なぜかというと、信徒たちの霊魂における聖化の御働きは、聖霊を特徴づける「愛」あるいは「御憐れみ」による御働きだからです。
聖化は慣習的に聖霊に帰属する特別の使命です。聖化を定義すると、人が愛徳を増せば増すほど聖化されていきます。そして、私たちの霊魂における「神聖さ」の程度は、私たちの心に染みた「愛徳」の程度に他なりません。三位一体において聖霊は「御愛」であり、また「愛・カリタス」そのものなのだということから転じて、慣習的に、聖霊に霊魂における「聖化の御働き」を帰属させます。
それから、「聖霊の使命(ミッシオ)」もあります。あえて言えば、聖霊は「送られた・遣わされた」ということです。因みに語源で言うと、ミッシオmissioは「派遣(はけん)」という意味ですが、聖霊は地上において特に二度にわたって示されたことがあります。
一度目は、私たちの主イエズス・キリストの洗礼の時でした。白鳩という形で現れ給いました。
二度目は、聖霊降臨の日に、使徒たちの前に「火の炎」という形で現れ給いました。
私たちの主イエズス・キリストの昇天の後に、使徒たちがチェナクルムにいました。私たちの主が天に昇り給った後、聖母マリアと一緒に十日間ぐらいチェナクルムに泊まっていました。そして、聖霊降臨の日の午前九時ごろ、「天から激しい風が吹いてくるような音がきこえ」 ました。その騒音は町のどこにも広く聞こえたと思われ、多くの人々がチェナクルムの近くに集まりました。それから、「彼ら(使徒たちと聖母)の座っていた家に満ち、火のような舌が現れ、分かれておのおのの上に止まった」 。つまり、この場面は聖霊が使徒たちの霊魂に注ぎ、霊魂を占領するということを示します。
また、「火のような舌」というのは、使徒たちはいきなり「諸国民の諸言語が話せるようになった」という賜物を指します。また、「火のように」、火が光をもたらすように、聖霊も霊魂において光をもたらして、霊魂を照らすという意味もあります。
または、火のように、火が燃やすように、聖霊によって霊魂が燃え出して、その愛がどうしても広まろうと伝って、愛によって周辺にある霊魂たちを燃やし尽くそうとするという意味もあります。
聖霊降臨の日に、「心を変えた」という意味で、聖霊は使徒たちの霊魂を回心させました。聖霊に燃やし尽くされて、使徒たちも世界中を歩きだして伝道してきました。
以上、聖霊の地上でのご出現をご紹介しました。
それから、聖霊の働きは聖霊降臨以降からずっと続いています。
いまでも公教会においてこそ、聖霊の働きが続いています。だから、聖霊についての信条の次は、公教会についての信条に続くことになります。というのも、繰り返しますが、「聖霊に帰属する」だけですが、聖霊こそが公教会を導くからです。聖霊こそが公教会を守るのです。聖霊の御働きのお陰でこそ、布教できるようになり、公教会が保全なる信仰を世界中に宣教して広めていきます。
また、霊魂たちの聖化のためにイエズス・キリストによって用意された諸秘跡を授けることによって、公教会は保全なる信仰を世界中に宣教して広めていきます。
聖霊には「七つの賜物」も帰属します。聖霊の七つの賜物は次の通りです。
上智、聰明、賢慮、剛毅、知識、孝愛、天主への敬畏です。これを聖霊の賜物といいます。
七つの賜物というのは恩寵と愛徳が天主によって注がれているたびに義人に一緒に与えられる賜物です。つまり、ある人が聖寵の状態にある間、自分の霊魂が聖霊の賜物を享受しているのです。
聖霊の賜物というのは、聖寵の状態にある霊魂に注がれた超自然の良い状態あるいは良い習慣です。こういった超自然の良き習慣のお陰で、義人(つまり聖寵の状態にある者・義化された者)の霊魂が完成化していきます。聖霊の賜物による完成化というお陰で、聖霊の「息吹」あるいは聖霊の「霊感」を霊魂が受け得るようになります。
聖霊の賜物を例える時、船の帆を取り上げることが多くあります。聖霊の賜物は、船の帆のようなもので、風を受けうる装置に喩えられ、風を受ける帆で船が動きます。現代風にこの喩えを改めていってみると、聖霊の賜物はアンテナのようなものですね。このアンテナという装置のお陰で、聖霊からの「受信」ができるようになります。
同じように、「帆」のように、また「アンテナ」のように、聖寵の状態にある時、聖霊の賜物は霊魂に装置されています。勿論、比喩にすぎませんが、イメージが分かりやすいですね。
つまり、七つの賜物は霊魂の良い状態・性質のようもので、これらの良い性質を働かせることによって、霊魂が聖霊の「息吹」を受け得る状態にさせるのです。聖霊の息吹を受けるというのは、「風が帆に当たって船が風の流れへ動き出すように」聖霊によって導かれて動きだすのです。実に「聖なる人生」、あるいは「聖人として生きる」というのは、まさに、聖霊の導きのままに行動するということです。つまり、霊魂にとって「聖なる生き方」というのは、聖霊の完全なる支配の下に自分を置くということです。そして、聖霊による霊魂への支配は、「七つの賜物」を通じてこそ実現しているのです。
聖霊の七つの賜物の上に、12つの「聖霊の実り」もあります。「聖霊の実り」というのは、簡単に言うと「聖霊と常に生きている」のなら、また、「霊魂が聖霊と一致すればするほど」結ばれる特別の結果とでも言いましょう。
この12つの「聖霊の実り」は、ガラツィア人への手紙の中に記されていて、聖パウロが書き並べています。
愛、喜び、平和、忍耐、温厚、仁慈、善良、寛容、誠実、柔和、節制と純潔との12つの聖霊の実です。
霊魂が聖霊の支配下に置かれている状態だから、結ばれる12つの実りです。
~~
聖霊の賜物と聖霊の実りの上に、聖霊は他の賜物をも与えるのですが、七つの賜物と違って、公教会の時代事情に応じたりして、条件なしの賜物をも与えます。「無償の賜物」と呼ばれています。
「賜物」なら必ず無償だと言われるかもしれませんが、聖霊の「無償の賜物」は「隣人の救いのために」無条件に与えられる賜物なので「無償の賜物」といいます。
つまり、自分の聖化のためにある賜物のではない、ということです。
聖霊の七つの賜物とその実りは自分の聖化のために用意されている賜物で、その賜物によって霊魂が聖霊の感化を受け得るようになり、常に聖霊の導きのまま生きれば生きるほど結果として実りを結びます。その上、それ以外に、聖霊は霊魂に「無償の賜物gratia gratis data」をも与えます。
この「無償の賜物」の特徴というのは賜物が注がれた霊魂自身のために与えられているのではなくて、共通善のために、公教会の善のために、隣人の善のために与えられている「無償の賜物」なのです。ラテン語で「gratia gratis data」というのですが、「賜物」の別名として、「カリスマ」とも呼ばれています。九つあります。
智慧について旨く話す賜物。知識の賜物。治療あるいは病を治す賜物。信仰の賜物。奇跡を起こす能力という賜物。預言の賜物。心の判別の賜物。言語を流暢に話せる賜物。解釈の賜物。
公教会の全歴史を見ても、以上のある賜物はその時代に応じて、ある聖人に与えられて隣人の救いのために、他の霊魂の回心のために、無償に与えられたことが確認できます。
ところが、これらの無償の賜物は、歴史を見ても、聖人自身のためにあるのではありません。例えば、「病を治す」とか「奇跡を起こす」とかは、聖人が治し起こしますが、自分の救済にとって何の価値もありません。何の役も立ちません。隣人の聖化のために、病を治したり奇跡を起こしたりするものです。
例えば、天主の御働きを示すためとか、より単純に、天主が存在するということを証明するためとか、隣人の聖化のために特別に用意されている無償の賜物です。
当然ながら、聖霊を特に礼拝すべきです。天主ですから、礼拝すべきです。
天主なる聖父と天主なる聖子に対する同じ礼拝を聖霊に対しても捧げるべきです。
言い換えると、天主を礼拝するたびに、聖霊をも礼拝しているのです。それでも、私たちの人生において、特別に聖霊に祈ることもありましょう。この世で、この現代で、光がもたらされるように。また、特に現代では「剛毅」という賜物を頂くように。また、たとえば「誠実」でずっといられるように。
自分自身の聖化のために、特別に聖霊に祈ったらよいでしょう。
以上、聖霊に対して祈る意向の幾つかの典型的な例を挙げましたが、ある聖人は「もしも毎日15分だけでも聖霊に祈ることが出来たら、至福に入ることは確実になるだろう」といっていました。つまり、臨終の時まで、信仰における堅忍を確保できて、天国にはいれるというような意味です。
ですから、より頻繁に聖霊に祈るという遷善の決心をいたしましょう。
常にこの地上で働き給う聖霊なのに、比較的に忘れられがちの聖霊ですから、より多く聖霊に祈りましょう。