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人生の終わりに必ず起こる「3つ」のこと 【公教要理】第六十九講

2019年10月22日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理-第六十九講 永遠の命-①



信経の第十二条そして最後の条です。「永遠の命を信じ奉る」
永遠の命とは、一体何でしょうか。
現世での命ではなく、今の命が終わった後に続く命のことです。誰でも知っているように、この世での命は、いずれ終わります。例外なく、すべての人々にとってこの世での命には必ず終わりが来ます。
そこで、「永遠の命」とは現世の命が終わった後に続く命のことです。来世の命です。なぜそれが「永遠」と言われる命であるか、というと、終わりなく何時までも続く命だからです。それは果てしない限りのない永遠の命です。

一体なぜそういうことがあり得るのでしょうか。それは、我々の霊魂が不滅だからです。
霊魂は純粋に霊的なものです。「霊的な存在」だは、何を意味するのでしょうか。霊魂は「肉体的な存在」ではないということ、非物質的ということです。それが霊的な存在です。

霊的な存在とは、時空の外に行為することができます。我々の霊魂は、時間を超えて時を移動できるます。というのも、思考する時には、霊魂は時間の制限から解放されているからです。
我々の霊魂は「概念」を知り、理解し、垣間見ることが可能ですが、「概念」というのは普遍的なものです。

例えば、「人間」という概念は時間を超越し、空間を超越し、物質を超越する概念です。
従って、我々の霊魂は、時空を超越する行為を成し、その活躍を可能にしています。霊魂は時空の中に閉じ込められず、拘束されず、時空によって制限されていません。こうして、我々の霊魂は霊的なのみならず、さらに不滅な存在です。
なぜかというと、霊魂は以上のような霊的な永遠の行為を成すことができるからです。これらの行為を可能にする本性が必然的に備わっているからです。なぜかというと、我々が成す行為は、我々が持つ本性の帰結だからです。

このように、霊魂は「永遠」という性格の「行為」が可能ですから、時空の外に行為が可能ですから、我々の霊魂の本性には「永遠」という要素が必然的に備わっていることを意味しています。

従って、人間の霊魂には終わりのない命が備わっています。霊魂には現世の後に永遠の命が待っています。
「永遠の命」とは、そういう意味です。死後の霊魂は引き続き、永遠の命を生き続けます。正しい人の場合、至福の命とも呼ばれている永遠の命です。悪人、つまり罪人の場合、苦悩の命と呼ばれる永遠の命です。

以上は永遠の命のご説明でした。
神学上、「終末論」と呼ばれます。[「四終」あるいは「万民四末」とも言います。]
「終末論」というのは、我々の人生の終わりの日に、臨終のときに起こる最期の出来事(終末)次第で、我々の永遠の運命が決まる、という教えです。言い換えると、我々の永遠の命がどうなるかが決まる最終的な「事柄」が終末です。最終の結末、終末です。それでもう終わりです。決定的です。三つのことが起こると、すべての霊魂は、あえて言えば「終わりなき命」の状態に固定されるかのようです。

これらの三つの出来事を言います。第一は「死」という出来事。
第二は「私審判」です。我々の霊魂が天主によって裁かれることです。
第三に、審判による判決の執行(天国と地獄)です。[第三の天国と地獄とを二つ数えて、四終と言う。]
以上の三つの出来事は「最終の結末」を成すのですが、この三つの出来事こそが、我々の霊魂を永遠の運命に決定します。至福の命になるか、それとも残念ながら、悪人の場合、苦悩の命になるかどちらかを、です。

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「終末論」の第一の出来事は「死」です。
人々は皆死ぬべき存在です。「死」というのは一体何でしょうか。「死」とは「霊魂」と「身体」との分離です。これは悲痛な分裂です。以前にも申し上げたように、我々の身体と霊魂が、一つの実体を成すということを説明した通りです。霊魂と身体は別々の二つの存在ではありません。何か二つのものが傍に並んでいるのでもなく、また容器の中に納まっているかのように身体の中に霊魂が閉じ込められているのでもありません。

いや、それだけではありません。身体と霊魂の間は互いに完全に浸透し合い、縺れ合い、一つの全体をなしています。そうして、こういった密接な絆を悲痛に分裂するのが「死」です。死のせいで、霊魂が身体を活かすことはできなくなります。そして、身体と霊魂との間に必ず起きる分離、それが「死」と呼ばれるものです。身体と霊魂が分離した後に、世の終わりの日と肉身のよみがえりを待ち、身体はちりに帰ります。霊魂の場合は天主のみ前に出廷します。

身体と霊魂の分離である死は、その上、天下にあるすべての物事の略奪をも意味します。つまり、死ぬ時、霊魂は物質的なあらゆる物事を去り、死によって純粋な霊的な生活に入るのです。地上で所有していた持ち物、また愛していた品物から離れます。地上では積み重ねた富からも、死によって離れます。我々の周りにいる友達、我々の死を嘆く友人たちからも離れます。
「この涙の谷」 である地上を死によって去るのです。永遠の命に入るのです。これが第一の出来事、死です。
「死」は不可避です。また、人間にとって、人生における一番確実な出来事です。我々が何であれ、死ぬことは確実です。他のあらゆる出来事は確実ではないにしても、いずれ私が死ぬということだけは、もっとも確実な出来事です。一人の人がこの世に生まれた瞬間に、必ず死ぬことがもう既に決まっています。
「死ぬために生まれた」ということです。
「死」とは、罪に対する罰です。楽園において、天主はアダムとエワに幾つかの賜物を与えました。「外自然・過自然(praeter-naturalis)」と呼ばれる賜物です。

人間の本性に、さらに有り余る賜物として与えられましたが、こういった「外自然・過自然(praeter-naturalis)」の四つの賜物の内の一つに、不死の賜物がありました。
しかし、アダムが原罪を犯した時、天主の怒りを被り。原罪の一つの罰として「死」を受けました。そして、アダムは人類の頭として罪を犯してしまったので、「負債」を全人類に負わせてしまいました。そして、人類は、原罪による負債を継いだと同時に、当然、その原罪に対する罰をも負うけました。
従って、「死」という罰は、全人類の運命となります。現代でも、我々の人生において織り込まれている「死」は、第一の人間アダムによる罪に対して天主が与えた罰です。我々皆その罰を負わざるを得ず、私たちの主でさえ十字架上に死を経験されたのです。

死ぬのは一回限りです。これは大事なことです。一人一人に一回だけの人生があり、死ぬのは一回限りです。我々の霊魂は一つだけで、その霊魂についている命も一つだけで、従って人生も一回だけであって、死も一回限りです。

だからこそ、あえていえば、「死」という大切な約束をすっぽかすわけにはいきません。死を悪く行うわけにはいかないのです。というのも、死んだ時点では、もう手遅れだからです。もう終わりで、もう二度目がないからです。死んだ時点でもう決定的であって、終わってしまうのです。終わるとは、完成されるという意味であって、決着が付けられるということです。
死んだ時点で、我々の人生は永遠に向けてもう決まります。

たとえれば、試験と似ています。試験が終わって、試験監督が「終わり」と言い出す時と似た感じです。もう試験は終わったのです。答案用紙はそこで「完成」となるのです。悪く完成されたら、点数が少なくなりますね。でも、それでも、「出来上がり」で、しょうがなく完成となるのです。というのは、試験は終わったので、書かれた答案用紙次第で、もう点数が既に決まっているのです。取り返すことは不可能です。死も同じようです。

一人の人が死んだときに、彼の人生が「完成」されます。しいて言えば死んだ後に「点数」の結果を待つだけです。これが「私審判」です。



以上のように、死は確実な出来事です。人生における一番確実な出来事です。しかし、必ず死ぬという確実さに伴い、いつ死ぬか、どのような状態で死ぬか、に関しては、逆に極まりない不確実さがあります。

だからこそ、あえて言えば人間の人生は悲劇的と言えるでしょう。つまり、だれもが「私が死ぬ」ということを知りながら、「いつ・どこで・どう死ぬか分からない」ままだからです。必ず死します。それは確実です。
ただ、今死ぬか、今日死ぬか、数時間後に死ぬか、明日死ぬか、10年後、20年後、30年後死ぬか、80年後に死ぬか、天主しか知らないことです。我々人間には分からないことです。だからこそ、常にいつも、死を準備しなければならないのです。
また、「死を思う」ことは健全な思いであって、良い思いです。

ある聖人の有名な逸話があります。その聖人は金持ちに出会います。その人は多くの富を持っていましたが、聖人が彼に「これらの富をもって、どうなるでしょうか?」と声をかけました。
金持ちは多くの計画を組んでいたのです。その度に、聖人が「そして、その後は?」と何度も聞きました。
そして「死んだら、どうなるか?」と。
死んだとき、すべてがお終いです。あなたの富と宝物などは、死ねば持っていけないのです。
あなたの富はこの世に残る、しかも、おそらく浪費されるでしょう。あなたの車は死ぬ日の翌日に事故にあい、破壊されるでしょう。

要するに、死んだときに、すべてが止まります。また、いつ死ぬか誰も知りません。死は非常に大事な瞬間です。だからこそ、「死を思う」ことは非常に健全な思いです。
義人は頻繁に死を思いますが、義人にとって死は快い事柄であり、甘美な出来事です。

詩編115には、「Pretiosa in conspectu Domini, mors sanctorum」とあります。「聖人たちの死は、主の御前に尊い」 とあります。なぜでしょうか。
義人は天主のご現存の内に一生を送り、永遠の命を常に視界に入れて生きるので、地上を逐謫の身で、つまり「祖国を追われ追放された」かのように生きています。巡礼者でもありますが、逐謫(追放)された者として、地上で人生を送ります。義人にとって、死というのは、この「追放」の終わりを意味します。義人はすべての希望を天主に 置いたからこそ、義人にとって死は甘美です。

典礼上、死者のミサにおいて、司祭が次の祈祷を唱えます。力強い祈祷でかなり慰めのある言葉です。
「主よ、御身を信じる者の生命は、取り去られるのではなく、変えられるのであり・・・」と。
つまり、義人は人生を去り死にます。地上での命を去り、永遠の命に入るのです。
地上において天主の現存の内に人生を送ってきた義人は、死のとき、天主の現存の内に永遠の命に引き続き生き始めます。
義人にとって、死は、「元后,憐れみ深き御母」という美しい祈りにある「この涙の谷」あるいは「逐謫」から解放されるということを意味します。

「死」のお陰で、ついに天主を観想でき、真の光を浴び、永遠の命を享受することを義人は知っているので、義人に、はどうしても天主のみ前に出たいとう気持ちが強くあります。その願望が強ければ強いほど、死とは快い出来事に見え、幸せな時になります。

諸聖人の人生を見ると、聖人たちは臨終が迫っている時、常に次のように周りの人々を慰めています。「私のことを思って泣かないでください。私は光に入るからです。」

他方、罪人の死は恐ろしく、凄まじいものです。というのも、罪と地上の富などに愛着してしまった罪人は、死ぬと、自分が愛しているすべてを失うと知っているので、彼は死を恐れます。
問題は、こういった罪人が霊的なものに一つも親しんでおらず、超自然な絆を持たないので、死んでも得ることはもう何もないことです。だから、死は、彼にとって悲劇です。総てを失うだけだからです。
「死への思い」というのは、我々にとって、この世で良き人生を送るために、間違いなく一番健全な思いなのです。



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