白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております
使徒信経の第十一条です。「肉身のよみがえりを信じ奉る」。
「肉身のよみがえりを信じ奉る」。この信条の意味は一体何でしょうか。
世の終わりに、すべての身体がよみがえり、もう一度霊魂との一致が回復されるという意味です。これが「肉身のよみがえり」です。ここでいう「肉身」は「身体」のことです。つまり、死んだときに埋葬するその「身体」、灰の水曜日の典礼で言われるごとく腐敗して塵に帰る「身体」が、世の終わりの日にはよみがえるということです。灰の水曜日の際、信徒たちに灰をかけ、次の言葉が言われます。「人よ、おぼえよ、汝は塵であって、また塵にかえるであろう」。
そして、この塵にかえる運命をもつ「身体」が 世の終わりによみがえるということです。これは、カトリック信仰の一つの信ずべき教義です。この信条は古(いにしえ)より聖伝によって断言され続け、聖書においても明言されています。
旧約聖書にはヨブの次の言葉があります。「私を守るものは生きておられ、仇打つものは塵の上に立ち上がるのだと知る。皮膚がこのようにきれぎれになっても、私はこの肉で天主をながめるだろう」 。
以上のように、旧約聖書においても肉身のよみがえりは断言されています。また、マカバイの書下には次のことばもあります。世の創造者なる天主である「世の王は、天主の法のために死んだ我々を永遠の生命の中によみがえらせてくださる」 。
また新約聖書において、「墓にいる人々がみなそのみ声の呼びかけを聞き、墓を出る時が来る。善を行った人は命のために、悪を行った人は永遠の罰のためによみがえる」 。
また私たちの主イエズス・キリストご自身も「肉身のよみがえり」という真理を断言しました。「私の肉を食べ私の血を飲む者は、永遠の命を有し、終わりの日にその人々を私は復活させる」 と仰せになります。
思い出しましょう。確かに、肉身のよみがえりという信条は、我々にとって認めがたいかもしれないし、大自然の法則などに確かに反するような事柄です。だから、私たちの主がラザロの墓の前にいらっしゃったときのことを思い出しましょう。
ラザロは死にました。本当に死に、聖書はその死を強調しています。ラザロの姉妹たちは、ラザロについて「主よ、四日も経っていますから臭くなっています」 と言いました。これは死体が腐敗しだしたということです。その悪しき腐臭がラザロの死とその身体の腐敗を明白に語るところです。
そこで、私たちの主はラザロの二人の姉妹と一緒に墓の前にいらっしゃいます。そして、私たちの主はラザロの姉妹たちにこう仰せになります。
「あなたの兄弟はよみがえるだろう」 と。イエズス・キリストは終わりの日の肉身のよみがえりのことを仰せになっていたのですが、姉妹のマルタは次のように答えます。
「彼も終わりの日、復活の時によみがえることを知っています」 と。ということは、その時、既に肉身のよみがえりは信じられていたということです。
つづいて、私たちの主はラザロの復活という奇跡をおこない、その復活によって、肉身のよみがえりは可能であるということを証明します。
そして、第四ラテラノ公会議は「世の終わりの日の肉身のよみがえり」という信条を改めて教義として断言し、真理として断言しました。
「肉身のよみがえり」の証拠として、以上のように見てきた神学上の理由の上に、理性で考えてもいくつかの理由を加えることは可能です。便宜上の理由に過ぎないのですが。厳密には「信条を裏づける絶対な証拠」とはならないけれど、理解するための助けとなります。
霊魂と身体という二つのものは単に結びついている異なる実体ではありません。いえ、身体と霊魂は一致していて、一つの全体をなしています。我々は結局「一」なるものであって、霊魂と身体からなっている「一つの全体」です。ある意味で、人間の霊魂は身体を欲しがっているのです。
また、「肉身のよみがえり」という信条は、理性的な信条といわれるに相応しいものです。というのも、この地上においては、我々は必ず自分の身体を道具にして働きを遂げる存在だからです。かならず身体を通じて行動するからです。霊魂でやり遂げる行為でさえ、身体をも用いて成します。我々の身体は善悪問わず、すべての行為の道具となっています。従って、その意味でも世の終わりに、我々の道具だった身体が、我々の栄光あるいは永劫の罰どれにしても、それを被るということは非常に相応しいことです。これらは有益な理由です。
また、他にテルトウリアノという教父の書いたものには、「肉身のよみがえり」の信条を支えるために、大自然から引き出された幾つかの論拠が差し出だされています。
こういった論拠は、上の論拠より大きくないかもしれませんが、大自然においてでさえ「肉身のよみがえり」という真実の「影」あるいは「前兆」を垣間見えているというような論拠です。引用しましょう。
「世の終わりの日に身体のよみがえりがあるという真実を、天主は聖書において啓示し給う以前に、創造された大自然においても織り込んだ。」
次に彼は幾つの例を取り上げます。有名なのは「冬」という事例。「冬」は自然の死のようなものであって、春になると自然が復活するということ。
また、毛虫が自分の墓を紡いでそれに入って、蝶として復活するようなこと。
麦の種も土地に植えられたら種として死んで、麦の穂として復活するようなこと。
以上は幾つかの象徴であって、前兆ではありますが、大自然においても織り込まれている現象であって、少なくとも「肉身のよみがえり」の可能性を語っています。
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「肉身のよみがえり」という信条は近代になって、真正面からではなくても、実際の行いにおいて否定されるようになりました。これは世界中の国々で「火葬」という様式を、フリーメーソンが普及させましたが、それはこの信条を否定するためです。「火葬」により、「身体がよみがえることは不可能だ」と思わせようとします。火葬で身体が塵と化し、そのまま「身体が復活する」ことが無理不可能なようにみえるからです。
それに対して何と答えるべきでしょうか。第一に、天主は全知全能である存在です。塵になったからといっても、天主にとってそのことは重要なことではなく、人間的な制限によって天主の全能は制限されるものではありません。いやむしろ、「身体を塵にさせた」からといって、天主が身体を復活させえないという発想自体が、侮辱的なものであることは想像にかたくありません。天主には「石」をも叫ばせるほどの力があるわけですから 。
次に、天主は塵になったところにおいても、身体のそれらの要素を回復できます。また、さらに声をあげて注意すべきこともあります。よみがえっていく「身体」は、特定の霊魂の特定の身体です。つまり、前に申し上げたように、身体と霊魂は区別出来ても別々のものではありません。哲学上の用語をあえて使えば、身体と霊魂が合わせられて、それが一つだけの「実体」を成します。一人の人間は、「霊魂と身体」からなる「実体」です。このようにして、現在われわれの身体を構成している一つ一つの原子とは限らないとしても、天主は相応しい原子をとって、「私の」身体をよみがえらせます。
重要なのはその特定の霊魂のその特定の身体のまま、ということです。「新しい身体」ではなく、個人としての固有の「私の身体」がよみがえるのです。これは非常に注意すべき点です。
我々の身体は我々の霊魂と別のものではないのです。だから、特定の霊魂に結び付いている我々の特定の身体というのは、その霊魂だけの唯一の身体なのです。「私の身体」という時に、やっぱり「私」が入っているから、「自分の霊魂なる私」をもさすのです。
だから「肉身のよみがえり」という信条は、当然、天主にとって何らの不可能なことはありません。
逆に言うと、身体が塵となるからといって、元の原子も散らされるからといって、天主がその特定の身体を復活できないということを信じるのは結局物質主義的な発想です。いえ、違います。人々の身体は、単なる「物質」ではありません。
「霊魂によって生きている肉体」です。
人間は、世の終わりの日に、自分の身体を取り戻します。しかし、どういった状態で取りもどすのでしょうか。それは、完全な状態で、しっかりと四肢をもって取り戻します。この世で達することのできない本物の完全さという状態で。
通常は「完全な年齢で」復活すると言われています。その上、霊魂は自分の特性を身体に完全に及ぼします。ここで言う特性とは、霊魂の状態ですね。
救われた霊魂の場合、素晴らしい特性ですが、永劫の罰を被った霊魂の場合、「地獄に落ちた霊魂」の特性が体にも及んでしまうのです。
永遠の命を取得した霊魂の場合、永遠の命にある状態の霊魂の「栄光の特性」が身体にも及びます。
霊魂の第一の特性は「受苦不能性」impassibilitasです。天国において霊魂は苦しむことはもはやないので、身体も苦しむことはありません。
第二の特性は「輝き」claritasです。ご復活したイエズス・キリストの栄光の御体の輝き、使徒たちが見たその「輝き」はよみがえる身体にも霊魂から及ぶのです。また、使徒たちはタボル山でイエズス・キリストの御変容の際に「栄光体の輝き」を垣間見ました。
そこで、至福直感の天主の輝きの内に生きる霊魂は、自分の身体にもその輝きを伝えます。「受苦不能性」と「輝き」の次の第三の特性は「敏捷(びんしょう)性」agilitasです。
霊魂は「敏捷性」を身体に及ぼします。「In ictu oculi」(まばたきの瞬間)と言われているように、瞬時に身体が移動できる特性です。
最後に「精敏さ」subtilitasという特性をも身体に及ばします。その特性はイエズス・キリストが最後の晩餐の高間の壁を通り抜けてきたように、障害を通り抜けるのです。
他方で、地獄に落ちる劫罰の霊魂たちは、欠点となる「特性」を身体に及ぼします。
地獄にいる永劫罰の霊魂たちが、永遠に苦しむように、身体も終わらぬ苦しみの状態に落ちます。闇と「歯ぎしり」 のある地獄で、身体も闇に包まれ、感覚にとって恐ろしい多くの醜さを受けます。劫罰を受けた霊魂たちは地獄に閉じ込められ、火によって永遠に苦しめられます。従って、永遠の命を得た栄光の身体と違い、敏捷性もなく、囚われの身となり、拘束されます。
最後に劫罰の身体は、罪によって重くなるかのように非常な鈍重さを受け、一番粗い物質以下の鈍重さを持ちます。
以上は「肉身のよみがえり」という信条でした。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております
公教要理-第六十八講 肉身のよみがえり
使徒信経の第十一条です。「肉身のよみがえりを信じ奉る」。
「肉身のよみがえりを信じ奉る」。この信条の意味は一体何でしょうか。
世の終わりに、すべての身体がよみがえり、もう一度霊魂との一致が回復されるという意味です。これが「肉身のよみがえり」です。ここでいう「肉身」は「身体」のことです。つまり、死んだときに埋葬するその「身体」、灰の水曜日の典礼で言われるごとく腐敗して塵に帰る「身体」が、世の終わりの日にはよみがえるということです。灰の水曜日の際、信徒たちに灰をかけ、次の言葉が言われます。「人よ、おぼえよ、汝は塵であって、また塵にかえるであろう」。
そして、この塵にかえる運命をもつ「身体」が 世の終わりによみがえるということです。これは、カトリック信仰の一つの信ずべき教義です。この信条は古(いにしえ)より聖伝によって断言され続け、聖書においても明言されています。
旧約聖書にはヨブの次の言葉があります。「私を守るものは生きておられ、仇打つものは塵の上に立ち上がるのだと知る。皮膚がこのようにきれぎれになっても、私はこの肉で天主をながめるだろう」 。
以上のように、旧約聖書においても肉身のよみがえりは断言されています。また、マカバイの書下には次のことばもあります。世の創造者なる天主である「世の王は、天主の法のために死んだ我々を永遠の生命の中によみがえらせてくださる」 。
また新約聖書において、「墓にいる人々がみなそのみ声の呼びかけを聞き、墓を出る時が来る。善を行った人は命のために、悪を行った人は永遠の罰のためによみがえる」 。
また私たちの主イエズス・キリストご自身も「肉身のよみがえり」という真理を断言しました。「私の肉を食べ私の血を飲む者は、永遠の命を有し、終わりの日にその人々を私は復活させる」 と仰せになります。
思い出しましょう。確かに、肉身のよみがえりという信条は、我々にとって認めがたいかもしれないし、大自然の法則などに確かに反するような事柄です。だから、私たちの主がラザロの墓の前にいらっしゃったときのことを思い出しましょう。
ラザロは死にました。本当に死に、聖書はその死を強調しています。ラザロの姉妹たちは、ラザロについて「主よ、四日も経っていますから臭くなっています」 と言いました。これは死体が腐敗しだしたということです。その悪しき腐臭がラザロの死とその身体の腐敗を明白に語るところです。
そこで、私たちの主はラザロの二人の姉妹と一緒に墓の前にいらっしゃいます。そして、私たちの主はラザロの姉妹たちにこう仰せになります。
「あなたの兄弟はよみがえるだろう」 と。イエズス・キリストは終わりの日の肉身のよみがえりのことを仰せになっていたのですが、姉妹のマルタは次のように答えます。
「彼も終わりの日、復活の時によみがえることを知っています」 と。ということは、その時、既に肉身のよみがえりは信じられていたということです。
つづいて、私たちの主はラザロの復活という奇跡をおこない、その復活によって、肉身のよみがえりは可能であるということを証明します。
そして、第四ラテラノ公会議は「世の終わりの日の肉身のよみがえり」という信条を改めて教義として断言し、真理として断言しました。
「肉身のよみがえり」の証拠として、以上のように見てきた神学上の理由の上に、理性で考えてもいくつかの理由を加えることは可能です。便宜上の理由に過ぎないのですが。厳密には「信条を裏づける絶対な証拠」とはならないけれど、理解するための助けとなります。
霊魂と身体という二つのものは単に結びついている異なる実体ではありません。いえ、身体と霊魂は一致していて、一つの全体をなしています。我々は結局「一」なるものであって、霊魂と身体からなっている「一つの全体」です。ある意味で、人間の霊魂は身体を欲しがっているのです。
また、「肉身のよみがえり」という信条は、理性的な信条といわれるに相応しいものです。というのも、この地上においては、我々は必ず自分の身体を道具にして働きを遂げる存在だからです。かならず身体を通じて行動するからです。霊魂でやり遂げる行為でさえ、身体をも用いて成します。我々の身体は善悪問わず、すべての行為の道具となっています。従って、その意味でも世の終わりに、我々の道具だった身体が、我々の栄光あるいは永劫の罰どれにしても、それを被るということは非常に相応しいことです。これらは有益な理由です。
また、他にテルトウリアノという教父の書いたものには、「肉身のよみがえり」の信条を支えるために、大自然から引き出された幾つかの論拠が差し出だされています。
こういった論拠は、上の論拠より大きくないかもしれませんが、大自然においてでさえ「肉身のよみがえり」という真実の「影」あるいは「前兆」を垣間見えているというような論拠です。引用しましょう。
「世の終わりの日に身体のよみがえりがあるという真実を、天主は聖書において啓示し給う以前に、創造された大自然においても織り込んだ。」
次に彼は幾つの例を取り上げます。有名なのは「冬」という事例。「冬」は自然の死のようなものであって、春になると自然が復活するということ。
また、毛虫が自分の墓を紡いでそれに入って、蝶として復活するようなこと。
麦の種も土地に植えられたら種として死んで、麦の穂として復活するようなこと。
以上は幾つかの象徴であって、前兆ではありますが、大自然においても織り込まれている現象であって、少なくとも「肉身のよみがえり」の可能性を語っています。
~~
「肉身のよみがえり」という信条は近代になって、真正面からではなくても、実際の行いにおいて否定されるようになりました。これは世界中の国々で「火葬」という様式を、フリーメーソンが普及させましたが、それはこの信条を否定するためです。「火葬」により、「身体がよみがえることは不可能だ」と思わせようとします。火葬で身体が塵と化し、そのまま「身体が復活する」ことが無理不可能なようにみえるからです。
それに対して何と答えるべきでしょうか。第一に、天主は全知全能である存在です。塵になったからといっても、天主にとってそのことは重要なことではなく、人間的な制限によって天主の全能は制限されるものではありません。いやむしろ、「身体を塵にさせた」からといって、天主が身体を復活させえないという発想自体が、侮辱的なものであることは想像にかたくありません。天主には「石」をも叫ばせるほどの力があるわけですから 。
次に、天主は塵になったところにおいても、身体のそれらの要素を回復できます。また、さらに声をあげて注意すべきこともあります。よみがえっていく「身体」は、特定の霊魂の特定の身体です。つまり、前に申し上げたように、身体と霊魂は区別出来ても別々のものではありません。哲学上の用語をあえて使えば、身体と霊魂が合わせられて、それが一つだけの「実体」を成します。一人の人間は、「霊魂と身体」からなる「実体」です。このようにして、現在われわれの身体を構成している一つ一つの原子とは限らないとしても、天主は相応しい原子をとって、「私の」身体をよみがえらせます。
重要なのはその特定の霊魂のその特定の身体のまま、ということです。「新しい身体」ではなく、個人としての固有の「私の身体」がよみがえるのです。これは非常に注意すべき点です。
我々の身体は我々の霊魂と別のものではないのです。だから、特定の霊魂に結び付いている我々の特定の身体というのは、その霊魂だけの唯一の身体なのです。「私の身体」という時に、やっぱり「私」が入っているから、「自分の霊魂なる私」をもさすのです。
だから「肉身のよみがえり」という信条は、当然、天主にとって何らの不可能なことはありません。
逆に言うと、身体が塵となるからといって、元の原子も散らされるからといって、天主がその特定の身体を復活できないということを信じるのは結局物質主義的な発想です。いえ、違います。人々の身体は、単なる「物質」ではありません。
「霊魂によって生きている肉体」です。
人間は、世の終わりの日に、自分の身体を取り戻します。しかし、どういった状態で取りもどすのでしょうか。それは、完全な状態で、しっかりと四肢をもって取り戻します。この世で達することのできない本物の完全さという状態で。
通常は「完全な年齢で」復活すると言われています。その上、霊魂は自分の特性を身体に完全に及ぼします。ここで言う特性とは、霊魂の状態ですね。
救われた霊魂の場合、素晴らしい特性ですが、永劫の罰を被った霊魂の場合、「地獄に落ちた霊魂」の特性が体にも及んでしまうのです。
永遠の命を取得した霊魂の場合、永遠の命にある状態の霊魂の「栄光の特性」が身体にも及びます。
霊魂の第一の特性は「受苦不能性」impassibilitasです。天国において霊魂は苦しむことはもはやないので、身体も苦しむことはありません。
第二の特性は「輝き」claritasです。ご復活したイエズス・キリストの栄光の御体の輝き、使徒たちが見たその「輝き」はよみがえる身体にも霊魂から及ぶのです。また、使徒たちはタボル山でイエズス・キリストの御変容の際に「栄光体の輝き」を垣間見ました。
そこで、至福直感の天主の輝きの内に生きる霊魂は、自分の身体にもその輝きを伝えます。「受苦不能性」と「輝き」の次の第三の特性は「敏捷(びんしょう)性」agilitasです。
霊魂は「敏捷性」を身体に及ぼします。「In ictu oculi」(まばたきの瞬間)と言われているように、瞬時に身体が移動できる特性です。
最後に「精敏さ」subtilitasという特性をも身体に及ばします。その特性はイエズス・キリストが最後の晩餐の高間の壁を通り抜けてきたように、障害を通り抜けるのです。
他方で、地獄に落ちる劫罰の霊魂たちは、欠点となる「特性」を身体に及ぼします。
地獄にいる永劫罰の霊魂たちが、永遠に苦しむように、身体も終わらぬ苦しみの状態に落ちます。闇と「歯ぎしり」 のある地獄で、身体も闇に包まれ、感覚にとって恐ろしい多くの醜さを受けます。劫罰を受けた霊魂たちは地獄に閉じ込められ、火によって永遠に苦しめられます。従って、永遠の命を得た栄光の身体と違い、敏捷性もなく、囚われの身となり、拘束されます。
最後に劫罰の身体は、罪によって重くなるかのように非常な鈍重さを受け、一番粗い物質以下の鈍重さを持ちます。
以上は「肉身のよみがえり」という信条でした。