なるほどthe ワールド 社会への道義性 >社会を文学する
文化圏による違い 他者からの視点・自己~の視点 ◎
随筆を習い始めた当時は、「私は」という主語がとかく多いと削除され、英語による主語や動詞.目的語が不可欠な構造とは、全く違ったエリアだと文学モードで知った。極力主語をさけると、どれほど味わい深い文章になるだろうかと、意識して書いた時もあった。他者を意識して描けば言いたいことも言えなくなったり、師匠だから作品として受け止める配慮はあるだろうと、試みたときもあった。放送の声から「主語がない」と伝えられたのを受け止めている。
言えない問題を言わないのが、人間性ではないんの?
役者の素質・二面性・良いようにとるという放送側の市場主義メディア声は、社会の底辺や末端で、登場した人物が槍沙汰にされていただろうことを、配慮しただろうか。
声に出さない痛みがあるのをご存じないわねえn
母は、おんな偏ではないけれど、その上の世代はまだおんな偏で・・・これ、どういう意味合いでしょうか。 古の人から変わらないわねえ。漢字は男性が創った?
姑は女として敬うけれど、はて、母は、どないする?いつもずっと母でいてほしいってこと?
小説が書けるかも、想像たくましくして。
先週、「新生・申請」ファイルが国営放送のニュースから発せられた。漢字をきちんと記してテロップで流せばいいのに。声放送の不確かな部分を敢えて記録できるのは、文字に頼ります。
鬱で徘徊していた老人に尋ねたそうです。「おかねは?」と。
痴呆老人施設では、買い物をさせていました。
人は、「お金」の大切さをどこかでわかっていそうな、人が信じられなくなった時の様子をも実際に耳にしています、妄想気味な状態で、黒い品を捨てたり、触れられなくなる。けれど、
一瞬の平静をつかれれば、お金のことを気遣える、それほどの価値があるとどこかわかっている代物なのでしょう。
「金のもじゃもうじゃ」にと、メディア声も至上主義の益。個人とどれほど比較ができるでしょう。
車内で、声がありました。「ドラマは見ていないわ。」と、タレント批評も始まって・・・あら、三人して同じデパートの紙バッグを持っていました。ああ、私と同じ番組を見ていたんだわ、
「どんなか、行ってみたいわ」と思ったほどですから。これが、視聴者のまっとうな声ですが、放送局は、ご存じ?
「家族で院内感染を経験している人は?」と訊ねたのは、情報科学技術研究所の講座中でした。「か」 的を射ると、◎