見るなの扉
そんな題名だっただろうか、かなり怪しい。松谷みよ子さんの民話集で、ウグイスが登場する印象的な綺麗なお話として記憶されている。
ひとつ、次にもうひとつと戸を開けると、娘さん見たさに、男の旅人が「見るなの扉」を開けてしまいました。
私の感覚には、鶯と聞くと、色の鶯色に繋がってしまう。
鳥を示した「ウグイス」でも、綺麗なさえずりは耳に届くのに、図鑑でしか姿を見たことのない、あの鳥にはつながらないでいる。
だから、お話の中でも鶯色したメジロを鶯妄想が結びついていて、きれいなお話に残っているのかもしれない。幸いともいえる。
現に、つい春先の椿に蜜を吸いに来た鶯色の鳥でも、実のところ、彼女はメジロなのよね、と又、自分に告げている。
さて、さきの「見るなの扉」は、日常の私たちの心理にもよく起きているのではないだろうか。
「過去を見ないでください・未来を見ないでください」
と告げられると、初めての時は「ふ~ん」とそれを聞くけれど、何度も繰り返すと「まただね」と反発心が動くのではないだろうか。
それが毎回となると、「あああ」と心境も変わる。年齢不詳の人口知能ならどう反応するだろうか。
禁止や否定の言葉に従順になれないのは、「そうはいっても、神様じゃないし、私はきちんと両目があるし、健全な心身もあるし・・・管理されているはずはないし」しまいには、
「まったくねえ」とでも吐いてしまいたくもなる心境になるかもしれない。同じことが繰り返されると、嫌気がさすのは心理にあるはずだ。私だけだろうか。
民話のオチは、期待していた綺麗な娘さんがウグイスだったけれど、そそられ胸を膨らませ、夢を抱く気持ちになるのは、人間だからではないだろうか。
もし、旅人の男性が戸を開けずにいたら、どんな展開が彼にもたらされただろうか・、とは多様に動ける今日的な展開で、新しい民話ができそうだ。
新しい学期に、新しい社会に飛び込んだなら、きっとリーダーは将来に夢を抱けるような文言を述べるだろうことを期待している。
近しい親子・子弟なら、どれほど禁止をしないで、心を開かせ、添わせられるだろうか。
そうはいうものの、本当のところ、私にとっても悩ましい問題になりそうだ。