五十鈴華誕生日イベントでの献花を終え、商店街に戻って蕎麦屋の「大進」に行きました。ここで昼食にしようと思ったからです。
店先の園みどり子です。赤いリボンは良いのですが、頭のシカ角はどうしても奈良のあの馬鹿馬鹿しい坊主キャラを思い出させてしまいます。あの坊主キャラはまさに「校則違反」で「破廉恥」ですな・・・。風紀委員なんだから厳しく取り締まって下さいよ・・・。
パネルの足元には、井澤詩織さんのサインもあります。最近にはガルパンと同じ水島努監督の「
ウイッチクラフトワークス」にて「塔の魔女」のひとり
倉石たんぽぽの声を演じております。私自身は、井澤さんって倉石たんぽぽにどこか似てるなー、と感じております。
店内に入り、ざる蕎麦を注文しました。蕎麦が大好きな私としては、大洗で一日に一回は蕎麦を食べないと落ち着きません。このお店の蕎麦は今回初めていただきましたが、こちらも常陸秋蕎麦のさらりとした味わいにまとめられて美味しかったです。蕎麦の他に定食メニューも色々あるようなので、次の機会には刺身定食またはカツオ刺身定食を食べてみたいです。
店内にはガルパン展示もありました。左上には、井澤さんが店を訪れた際の記念写真も貼ってありました。
井澤さんのサイン色紙です。園みどり子の独特の雰囲気をよく描写しており、右上にはちゃんとカモさんチームのマークも描き入れてあります。このマークを見てると、模型キットの方でもカモさんチームのルノーB1bisを作りたい気になってきますね・・・。
缶バッジの中には、園みどり子の横顔のデザインがありましたが、これは初めて見ました。お店の方の話では、ファンの方が作って寄贈してくれたものだということです。公式バッジのデザインの方は、風紀委員会チームの三人が揃った図でした。
同人サークル「幻視工房」の製作したガルパンカッティングシートです。メタルステッカーもあり、イベントなどで限定的に販売されていたものと聞きました。大洗の各店舗でよく見かけるので、かなりの数がゆきわたっているようです。
「大進」での食事を済ませた後、ふたたび「吉田屋」に行きました。ガルパンファンのほぼ全員が永町のイベント会場でケーキの抽選と試食に参加している頃なので、商店街は閑散としていて、「吉田屋」も今度は空いていて入れました。
土産に「恋に恋するさおりんのスイート梅」と「常陸乃梅シロップ「Pure Sweet」」を買い、武部沙織の缶バッジもいただきました。その際にお店の方が「このバッジはもう無くなりましたので、これが最後ですよ」と言いました。
それで、「武部沙織のデザインは、人気があるそうなので、これを欲しがるファンも多いと聞きます。無くなったら困る人も多いんじゃないですかね」と申し上げたところ、「まあそれはそうですよねえ、追加で作ってもらいたいのはこっちもそうなんだけどね、このバッジは曲がり松だけで作ってるし、あちらも忙しいのでね、いまのところは追加も難しいと思うんですよ、別に新しいのも計画してますしね」との御返事でした。
この会話によって、大洗で配布される缶バッジには商工会だけでなく商店街単位で企画し製作しているものもある、ということを知りました。お話によれば、商店街単位で作ってるところは「曲がり松」と「大貫」の二エリアだそうです。そういえば、前回に大勘荘に泊まった際に若主人が「缶バッジにはここ大貫の商店街でやってるものもあるけど調達が追い付かない」という旨の話をしていました。
ああそうか、それで前に立ち寄った「あいりす」の女店主さんが「大貫商店街の缶バッジはあんまり在庫が無いみたいですぐなくなっちゃう」と話していたのだなあ、と思い出しました。缶バッジを色々貰うのは楽しいですが、本気になって集めようとすると、色々大変なケースにも直面するようです。
店の内外には、武部沙織の写真やイラストやグッズが数多く飾られています。お店の方が大ファンなのだそうです。それで主力商品の一つである「スイート梅」にも武部沙織バージョンを追加して、「恋に恋するさおりんのスイート梅」として売り出しているわけですね。これはまいわい市場でも扱っています。
続いて、大洗町の役場へ行きました。朝に商工会館を訪ねて坂本事務局長さんに教えていただいた通り、教育委員会の担当者を訪ねたのです。事前に役場の観光課へ行ってパンフや資料を貰い、次いで役場の南に隣接する文化センターの図書室事務所に向かいました。
実は、今回の大洗行きに際して、水戸の友人に頼まれた調べ事がありました。大洗磯前神社にかつて存在した神宮寺の仏像が存在しているという噂があるが確かな情報が無いので本当かどうか分からない、何か手がかりはないか、出来たら調べてくれないか、という内容でした。その依頼を電話にて聞いた時、私は「またその話か」と苦笑してしまいました。
「そのテーマは、とっくに諦めたんじゃなかったんかね・・・」
「諦めたけどな、あのときは諦めたけどさ、それは俺の取り組みでのことだ。俺は仏像に興味はあるけど星野みたいに専門家じゃないから方法も探し方もさっぱり分からん。本で調べて大洗町史で追っかけても分からなかったらお手上げじゃないかよ。でも星野なら、別のやり方で何か探し出してくれるかもしれん、と思うのよ。だから、君が大洗に行ってる今が、またとないチャンスだと思うんで、ひとつ頼まれてくれないか」
水戸の友人は、かつて京都造形芸術大学に通っていた時期に、研究テーマとして水戸藩領における神仏習合の様相なるものを勉強していました。それでよく同期生の私に、奈良や京都の神仏混交の遺跡や現存文化財について質問し、私が応じてその社寺を色々案内して回るという日々がありました。
その途上にて、大洗磯前神社の神宮寺の件が出て、その神宮寺が水戸藩の宗教政策によって強制移転させられたこと、及びその廃絶の情報が全く無いこと、神宮寺そのものが大洗磯前神社の創祀後まもなくの九世紀代に発する可能性が高いこと、などを友人は突き止め、その神宮寺の仏像がどこかに現存しているのではないか、という仮説を持つに至りました。その仮説を研究論文の主軸にしようとまで張り切ったのでしたが、結局は仏像の存在を確認出来なかったため、指導教官にテーマ内容の変更をすすめられて、水戸藩領における神仏習合の様相を社寺の変転によって述べてゆく、という形に変更した経緯がありました。
その直後に、奈良新大宮の居酒屋「村さ来」で、私ともう一人の同期生とを相手に「本当に仏像が残ってたらなあ」と愚痴り、「残念だ」を連発して飲みまくっていたのでした。それに同情して、しきりに励ましていたもう一人の同期生というのが、いまの水戸の友人の奥さんなのです。水戸の友人夫婦とはそういう付き合いなので、今回の頼まれ事に関しては、奥さんからもお願いされていました。蕎麦を食べるならば「武山」をお勧めします、というような話題は、ほんのさわりでしかなかったのです。
「なあ、大洗明神の神宮寺を、水戸藩が強制移転させなかったとしたら、今頃は立派に残っていたんだろうなあ・・・」
「いや、それはどうやろうねえ、明治期の神仏分離の時に処分されてしまう可能性が高い」
「そうだな、しかし、その分離の嵐をも乗り越えたとしたら、仏像は残る可能性があるわけだろ?」
「まあ・・、ゼロとは言えないなあ・・・」
「もし残ったとしたらの話だが、もし残ったとしたら、大洗明神は斉衡三年(856)創建なわけだから神宮寺も九世紀代に遡る可能性があるわけだから、その仏像も九世紀代になるわけで、いまの茨城県じゃ最古クラスということになるよな?」
それが、水戸の友人が大洗磯前神社の神宮寺の仏像にこだわった理由なのでした。奈良や京都にはたくさんある八、九世紀代の古代仏像彫刻が、地元の茨城県にも有って欲しい、という切実な希望が、彼にはあったのです。
私の知る限り、茨城県における最古の仏像遺品は、七世紀代の小金銅仏があり、乾漆像では結城郡八千代町佛性寺の九世紀頃の如来形坐像があります。木彫では、桜川市楽法寺の観音菩薩立像が九世紀代に比定されて最古と推定されています。これに比肩し得るのが大洗磯前神社の神宮寺の仏像ではないか、というのが友人のこだわりであるのですが、実在すら確認出来ていませんから、現時点でははかない妄想にしか過ぎないわけです。
でも、せっかく大洗にやって来ているのですから、妄想の類と片づけてしまわずに、私なりに試しに調べてみる価値はあると考えたのです。それで文化センターの図書室事務所に教育委員会の文化財担当係員の方を訪問し、色々と質問して教えていただきました。
その結果、大洗町教育委員会では仏像関連の分布調査すら未実施であること、大洗磯前神社の文化財に関しては県当局の調査成果にほぼ沿った形で建築のみへのリサーチに終始していること、江戸期の水戸藩の宗教政策および明治期の神仏分離に関する認識は大洗町史に述べられる内容にとどまること、などが分かりました。
要するに、現時点では大洗町教育委員会においても地元の美術工芸関連文化財をほとんど把握していない、ということです。なので、大洗磯前神社の神宮寺が移転させられたという「大里」という地名についても手がかりが全くありませんでした。そのような地名は大洗にはありません、という返事でした。
結局、有力な手掛かりは得られずじまいでした。やっぱり仏像は歴史の彼方に消滅してしまったのかなあ、と思いつつ、携帯電話を取り出して水戸の友人に報告しました。経緯を話すと、案の定、ガッカリした様子でした。
「そうか、やっぱり手がかりは無かったか」
「申し訳ないです・・・。私も未熟だから・・・」
「いや星野が謝ることはない、頼んだ俺が悪かったんだ、18日は御馳走を準備しておくから早めに来てくれよ」
「じゃあ、そうしますよ・・・、18日はどうも天気予報じゃアカンような事を言うてるし・・・」
「らしいな、大洗の薬師菩薩の効験も、時には薄れるのかね」
「ちょっと待って、なんやねん、その大洗の薬師菩薩ってのは・・・」
「あれ、星野は知らなかったのか、大洗磯前神社は、創建の頃はもろに仏教色が濃くて薬師菩薩を名乗ってたんだよ」
「何だって・・・ !! 」
その瞬間でした。私の脳裏に、何かが確かな記憶への道を照らし示すようにピカッと光ったのでした。教育委員会の担当係員が「大洗にはそういう地名はございませんねえ」と答えていた「大里」の名が、急に大きく浮かび上がりました。
大里・・・、薬師菩薩・・・・、そうか、そういうことか・・・、と薄れてしまった頼りない記憶を必死でたぐりながら、私は建物の隙間に見え隠れする鹿島灘の海原を凝視しました。
水戸藩が奨励した稲荷信仰の、その思想的中核の一つがインド伝来の鬼女神荼枳尼天であり、それが古来神道との習合によって狐を介して稲荷神と結びついた経緯はよく知られますが、医術神としての側面を持ったためか、薬師信仰との接点もあったようで、薬師稲荷神社や稲荷薬師神、といった信仰形態が派生しています。
そうした傾向を考えますと、水戸藩の一種の宗教弾圧のなかで、なぜ大洗磯前神社の神宮寺が処分されずに移転という形になったかが見えてきます。大洗磯前神社が古代に薬師菩薩と呼ばれたのであれば、その神宮寺の本地仏像は薬師であった可能性が高くなります。稲荷信仰とも密接な関連があったらしい薬師であれば、水戸藩がこれを強制移転させたとしても、廃絶までには追い込まなかった事情が察せられてきます。明治の神仏分離期の動向さえ分かれば、その神宮寺の行く末を突き止められるかもしれないのです。
さらに、「大里」と「薬師菩薩」という二つのキーワードの並びを、私は以前にどこかで読んだか、見聞きした記憶があります。それを、どうしてもはっきりと思い出せなかったので、続きは帰宅してから資料類を調べて進めよう、と決めました。
久しぶりの歴史の謎の追求調査にちょっと疲労を覚えたので、気晴らしに大洗漁港の方へ出かけてみました。漁港エリアはまだ回ったことが無く、地元では有名なグルメスポットも多いと聞いていたからです。
疲労感とともに、ちょっと空腹を感じたので、軽食程度に何か食べてみることにしました。大洗漁港へ通じる街路に面した「大洗海鮮市場」に多くのお客さんが集まっていたので、つられて立ち寄ってみました。
「大洗海鮮市場」には、上画像のように浜焼きサービスもあって、新鮮な魚介類の焼き立てが食べられます。イイダコ焼いてもらって、カニ汁飲んだら美味しそうだなあ、などと考えていたら、店の人に「ここではシラスもあるよ、いきのいいシラスの丼はどうだかね」と勧められました。あっ、シラス丼いいですね、と応じたら、「隣へどうぞ」と言われました。
隣と言われましたが、食事スペースは「大洗海鮮市場」の建物内に「海鮮どんぶり亭」の名で運営されていました。早速入ってみました。
大洗に来たら、一度はシラス丼を食べてみたいと考えていましたから、迷わずシラス丼を注文しました。数分もたたないうちに膳が運ばれてきて、さすがは海鮮市場直営だなと感心しました。
おお、新鮮なシラスが御飯の上に山盛りですよ・・・。半熟卵もトッピングされていて、割って混ぜるとシラスの味がさらに引き立って参りました。酢醤油を少し振りかけて、マグロを乗せて食べました。カニ汁もついていましたが、これを最後の段階で御飯にかけて食べるのが通のシメ方だ、と教えていただきましたので、その通りにしました。ものすごく美味しかったです。
この日の宿は、一泊朝食付きのプランにて予約していましたから、シラス丼を食べたことでいちおう夕食は早めに完了した形でした。あとお茶とおやつも欲しいな、と思って「大洗海鮮市場」の隣のファミリーマートで買い物をしました。
その後、向かいのガソリンスタンドをふと見て、巨大なガルパン看板があるのに気付きました。
近づいてみると、これまでに見たこともない大きさでした。持参した資料にこのガソリンスタンドの情報が無かったので、事務所の方に挨拶して教えていただきました。なんでもオーナーの方がガルパンの大ファンでいらっしゃるそうで、こちらの看板は大洗町内では最大のガルパン看板である、ということでした。
ガソリンスタンドの正式名称は、丸紅エネルギー大洗サービスステーション、といいます。
この看板では、あんこうチームの五人の並びがちょっと変わっていますね。たいていは、西住みほの左右に五十鈴華と武部沙織が居るのですが、この二人が西住みほの右側に並んでいるので、いつもは端にいる冷泉麻子が、西住みほの左に立っています。こういうバージョンもあるわけですね。 (続く)