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宇治巡礼3 東屋観音

2020年07月23日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 京阪宇治線宇治駅を出て、宇治橋東詰より府道7号線を東へ進んですぐの左手に、両脇を道路に囲まれた小高い石垣の区画があります。上図のように、府道7号線に面した石段の奥に石仏が望まれます。

 この石仏が、現在は「東屋観音」と呼ばれています。その呼称の故にか、「源氏物語」の「宇治十帖」の「東屋」の古跡とされていますが、確証はありません。そもそも「東屋」とは作中にて中将の君が浮舟を匂宮に会わせないためにかくまった三条の小家、つまりは浮舟の隠れ家を指します。
 その隠れ家を訪ねた薫が「さしとむる むぐらやしげき 東屋の あまりほどふる 雨そそきかな」と詠んだのが巻名の由来です。つまり「東屋」の舞台は三条なのですが、「宇治十帖」の一帖に含まれているため、江戸期には宇治に古跡が定められてしまったもののようです。

 では「東屋観音」の「東屋」の本来の意味は何かというと、これは中世期の「鄙びた雰囲気の建物」や「素朴な建物」への一般的な形容句のほうではなかったかと推定します。この石仏を祀る堂の建物がいかにも鄙びた素朴な造りであったのでしょう。道端の小さなお堂のことを「あずまや」と呼ぶ事例は全国に散見されますので、ここ宇治の「東屋観音」もその一例であったのでしょう。

 

 石仏は、聖観音菩薩の坐像です。右手に未開敷蓮華(みかいふれんげ)を執る姿勢で、天台宗系の観音像に多く見られる形式です。比叡山横川中堂の本尊がこの形式であり、宇治の中心寺院たる平等院の当初の本堂(現在の観音堂付近)に大日如来像とあわせてまつられた観音像も同様であった可能性が指摘されています。

 この石仏のある場所は、かつて宇治橋の管理を担った放生院橋寺の旧敷地に含まれるため、本来は橋寺が祀って宇治橋東詰の結界の鎮護となしたものであった可能性が考えられます。

 

 現在、宇治市はこの石仏を鎌倉時代後期の遺品として昭和57年に文化財に指定しています。上図のように指定文化財の解説板も設けられていますが、平成以降に飛躍的に進んだ石仏の研究成果に照らせば、その年代は少し遡るとみたほうが良いように思われます。個人的には、12世紀後半から末期、いわゆる藤末鎌初(とうまつけんしょ)の頃ではないかなと推定しています。

 

 境内の脇に立つ、「宇治十帖」の「東屋」の案内です。本来なら三条に立てるべきですが、そんなことよりも、個人的には「東屋」の主人公の浮舟というキャラクターの謎めいた部分をも案内文に書いてほしい、と思います。

 周知のように、浮舟の名は紫式部の原作には登場しません。「東屋」を何度読んでも、「君」「姫君」「御妹」等の表記のみで名前は一切出てきません。
 源氏物語においては、多く登場して印象づけられる人物に巻名を冠して呼ぶ事例が多いので、「宇治十帖」の十巻中の六巻に登場した彼女に「浮舟」の巻名を付けたものとみられますが、その最初の事例が、超の付く源氏物語ファンであった菅原孝標の娘が記した「更級日記」であったのは興味深いです。菅原孝標の娘が「宇治の大将のうき舟の女君」と書いたのが、「浮舟」の呼称の最初の例ですが、要するにこれは現代の小説やアニメファンが名無しの登場人物に勝手に名前を付けて親しんでいるのと同じケースです。

 この菅原孝標の娘が、源氏物語に傾倒するあまり、宇治にも行っている点を思い合せれば、ファンの聖地巡礼というのは今も昔も変わらないな、と気付きます。平安時代から既に宇治は聖地巡礼の地であったわけですから、現在のアニメファンの宇治巡礼も、その長い歴史の一コマにしか過ぎないのでしょう。

 

 東屋観音の地図です。

 


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