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ゆるキャン△の聖地を行く15 その6  廃線跡と機関車

2021年04月01日 | ゆるキャン△

 車輌2輌と国鉄コンテナの置かれている場所から西に行って広場の西端に行くと、宅地との境目に上図のホーム跡らしき石列の遺構がありました。

 

 標識のレプリカがありましたが、昔の表記法で右から読む駅名になっていました。どうやら戦前にここに線路および駅があったもののようです。いまの天竜二俣駅は、軍部の後押しで建設された国鉄二俣線の駅として昭和15年に開業していますが、それ以来ずっと位置を変えていないということですから、ここにあった線路および「二俣口」なる駅は、国鉄二俣線とは別の鉄道のものであっただろう、と思い至りました。

 

 隣の案内説明を読んで、国鉄二俣線が出来る前に存在した光明電気鉄道なる鉄道の遺跡であることを知りました。昭和5年に開業したものの、諸事情により昭和11年に運行停止となり、廃止路盤の一部が国鉄二俣線に引き継がれた、ということです。昭和5年に電車を走らせたとは凄いな、と感心しつつも、たった5年で消えてしまったことに儚さを感じました。

 

 光明電気鉄道の「二俣口」駅のホームの遺構です。いま車道になっている範囲がかつての路盤であったようです。

 

 かつての線路はここから北へ曲がって阿蔵トンネルをくぐっていたそうです。阿蔵トンネル本体はいまも残っているそうですが、内部が崩落しているらしくて立ち入りは出来ないそうです。その阿蔵トンネルへ行ってみようかと思いましたが、タブレットでグーグルマップを開いて調べたところ、民家の敷地内にあたっていることが分かり、行くのは止めにしました。

 

 次に、駅の北側に国道152号線をはさんで位置する「機関車公園」へ回りました。駅舎からも見える位置にあり、蒸気機関車が静態展示されています。

 

 蒸気機関車はC58形の389号機でした。昭和21年に汽車製造大阪にて製造され、北海道の札幌局に配属されて道内各線を走った後、昭和31年に高山本線に転じ、昭和44年からここ二俣線に配属され、昭和46年に廃車となってここに落ち着いた機関車です。

 私が国鉄二俣線に乗ったのは小学校1年生から4年生ぐらいの頃、親戚の叔父夫婦が三ヶ日に住んでいた時期ですので、その頃にはもうこのC58形389号機はここに展示保管されていたことになります。

 

 廃車後すでに50年近くが経過しているため、かなり傷んでいるようで、ヘッドライトなどに修復の跡があちこちに見られます。前面の煙室ハンドルが欠けてしまっているのが残念です。塗装も何度か塗り直しているようで、昔の写真を見るとあちこち色が異なります。

 

 車輪部分の塗装状況は特にしっかりと見ました。最近にガルパンジオラマに取り組んでいて、オリジナルの戦車工場をフェニックスモデルの鉄道工場のキットで製作中です。工場内に線路が付きますので、機関車のキットも必要だろうと思って海外メーカーの品を購入しましたが、車体各部の塗装をどのように進めるべきかで迷い、色々調べている途中です。
 なので、このような機関車の実物の細部などが見られる機会は非常に有り難いものです。

 

 ありゃ、機関士席の窓枠も失われていますね・・・。レプリカを作って復原したり出来ないものでしょうか。

 

 石炭車のバックランプなども失われているようですが、金具の状態を見るとランプ本体は取り外し式であったのかもしれません。

 

 覆屋の下に置かれて右側にはホームを模した壇があり、階段で登って壇上から運転室内に入れるようになっています。

 

 運転室内に入ってみました。あちこち傷んで荒れていて保存状態はかんばしくありませんでした。各所の部品が欠けたり、外れかけていたりしていて、鉄道マニアの方ならば見るにしのびない状態でした。

 ですが、室内の天井部分が緑色というか、明るいブルーグリーンのような色に塗られているのには驚きました。第二次大戦中の日本軍飛行機の機内の色、たとえば若竹色のような色に近いのでした。もとからの色であるかどうかは疑問でしたが、模型的にはこういうカラーもアリかも、と思いました。いま製作中のガルパンジオラマのなかの機関車の運転室内をこういうカラーでまとめるのも面白そうだな、と考えました。

 

 なので、上図の複雑な操作機器類も、色々と参考になりました。潜水艦の艦内をも思わせる、複雑な複数のパイプとメーターとハンドルの並びがカッコいいです。あちこち触ったりして、機関士の気分をしばし楽しみました。ハンドルの多くが赤く塗られているので、模型のほうでもハンドルは赤く塗ってみようか、などと思いました。

 

 機関士席の反対側の機関助士席に座って前方の窓から外を見ました。かつては遠州平野の景色が季節折々の変化をともなって見えていたことでしょう。  (続く)

 


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2 コメント

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二俣口駅跡について (ESPER)
2021-04-02 09:17:27
こんにちは。
いつも楽しみに拝見しております。
天竜二俣駅周辺は、何度か訪れたことがあります。
文献等によると、昭和5年12月10日に延伸開業した際「阿蔵駅」の名称だったようですが、後に「二俣口駅」と改称(理由不明)されたとの事。
ロマンを感じますが、最初から無理な敷設だったかもしれませんね。
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Re. 二俣口駅跡について (ホシノ)
2021-04-02 11:17:14
現地の字名が阿蔵で、廃線跡のある広場が「阿蔵広場」ですから「阿蔵駅」のほうがしっくりきたみたいですね。でも大字および地域称が「二俣」ですから、そっちに合わせたんだろう、と天竜観光協会の方も話していました。
二俣線は軍部によって東海道線の代替または予備線として計画され建設されていますが、光明電気鉄道の時にも軍部の関与があったらしくて、駅名の変更もそのあたりに理由が潜んでするかもしれない、との話でした。
当時は、資源輸送というのがやっぱり軍事目的にも関わるから、軍部が鉄道事業に無関心な訳が無いですね。
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