志摩リンの自宅の場所のモデル地は、古関地区の中央を流れる反木川のせせらぎが聞こえる良い場所でした。甲州いろは坂ルートの高度差はあるものの、本栖湖とは近所になります。志摩リンが本栖湖畔の浩庵キャンプ場へよく行っている、という設定は、近所に住んでいることが前提になるわけですが、その場所がここ古関地区であったわけです。
ちなみに古関地区から本栖高校モデルの旧下部中学校までは約4キロぐらいですが、ずっと下り坂なので、登校は楽ですが、下校は大変です。志摩リンが自転車通学であると仮定すれば、毎日の下校時に約4キロの坂道をえんえんと登るわけですから、各務原なでしこの「浜名湖ぐーるぐる」ではありませんが、同じように鍛えられる筈です。それならば、甲州いろは坂ルートを登って本栖湖畔へ行くのも、大して苦にはならないのでしょう。
しかし、今回も車であちこち移動してみて実感出来たことですが、「ゆるキャン△」の舞台における距離感覚というのは、どうも一般的なそれよりもはるかに上だと思います。南部町から本栖湖まで自転車で行くとか、ちょっと送って感覚で南部町から四尾連湖まで行くとか、原付で古関地区から長野県まで行くとか、とにかく移動距離がものすごく長いのです。
しかし、劇中では近くへササッと行くような雰囲気で描かれているので、実際に行くと、相当の距離と所要時間とに驚かされるケースが殆どです。こんな遠くへよく行くなあ、といつも感心してしまいます。
さて、来た道を引き返して、古関地区の中心部の北側の分岐まで戻りました。郵便局や身延町役場の出張所などがあるエリアです。
上図の左端に見える橋が、本栖湖から甲州いろは坂を下りて、古関地区への道に進んで渡った橋です。また、道を北へ進むと、国道300号線本栖みちに合流します。右へ曲がる道は、地図で見ると地区内の路地へと枝分かれしています。
そして、この赤っぽい壁の建物は、いまは少し北に移転している郵便局の旧施設です。劇中で志摩リンがバイトしている書店のモデルです。概観は色々と異なりますが、それらしい雰囲気はあります。
劇中では、武田書店となっています。アニメ画像はこれだけですが、原作コミック第5巻の20ページ3コマ目や23ページ5コマ目や24ページ5コマ目では付近の景色も幾つかのアングルで登場しており、舞台が古関地区であることが分かります。
このエリアに限らず、「ゆるキャン△」の聖地の景色に関しては、アニメよりも原作の方が幾つかのシーンを描いているため、現地への巡礼行動に際しては、原作コミックを携行したほうが、現地での場所特定などが容易になります。アニメでは、限られた尺のなかで相当の場面を削っていますから、原作では分かる場面が劇中では分からなかったりする場合が少なくありません。
古関地区から国道300号線本栖みちに戻りました。上図の三叉路が、原作コミック第5巻86ページ1コマ目に描かれています。志摩リンが母の咲から古関地区の路面が凍結した旨を知らされるシーンです。
本栖みちを下り、常葉バイパスのトンネルの手前で右にそれて旧本栖みちの県道419号線に進み、ダイハツさんの販売所の前を過ぎて少し進み、標識にしたがって左折して坂を上ると、左手に上図の常幸院の駐車場がありました。最近に「ゆるキャン△」巡礼者向けに、駐車場を開放していると聞きましたので、甘えさせていただきました。
駐車場入口の脇に建つ小堂の壁には、最近に貼られた「ゆるキャン△」聖地巡礼の案内表示板がありました。常幸院は、本栖高校のモデル地となった旧下部中学校のすぐ下隣にありますので、住職が巡礼ファンの動きを知ってかなりノリノリになり、地元の方々を巻き込んで積極的に対応して下さったということのようです。
というより、住職自身がファンになっているのではないか、と思います。なにしろ、しっかり「本栖高校」とアニメ劇中の名称で表記されています。こんな本格的な聖地巡礼の案内表示板は、初めて見た気がします。ガルパンの大洗にも、けいおんの豊郷にも、これだけのレベルの案内表示はありません。
駐車場の脇に並ぶ羅漢石像の列の上に、本栖高校つまり旧下部中学校がそびえたちます。五条ヶ丘と呼ばれる丘陵上に学校敷地があります。かつて戦国期には武田氏の狼煙台が置かれていた地と伝わります。
常幸院の山門にあたる「光明門」です。両脇を石造の金剛力士像が固めています。宗派は曹洞宗、山号は金龍山です。本尊は、禅刹には珍しい千手観音菩薩ですが、創建を14世紀後半と伝える他は由緒が詳らかでないようなので、おそらくは流転衰微の歴史を背負って一度は廃絶を経験しているものと推測されます。古記録類が豊富に伝わっていれば、寺史はもっと明確に詳細に公表される筈ですが、その形跡が感じられませんので、古い記録は失われているのかもしれません。
境内地に進みました。正面に本堂、右手に庫裏が建ちます。いずれも近世以降の成立になるようで、境内地そのものも一度大きく造り替えられたような感じで、ありようとしては江戸期の禅寺の形態に整えられています。とても14世紀後半に成立した寺の構えには見えませんでした。
14世紀代といえば、中世戦国期の半ばにあたります。甲斐の武田氏はまだ勃興の途についたばかりで、当地には在地勢力が林立する状態だったとみられます。現地の北に市ノ瀬という所があって、JR身延線の市ノ瀬駅がありますが、そこに居館を構えていた常葉氏が、ここ五条ヶ丘地域も支配していたと伝わります。おそらく、常幸院の前身は、常葉氏の菩提寺のような性格を帯びていたのではないか、と思います。
私は近畿地方の中世戦国期の歴史に興味を持ち、かつて奈良県民であったので、奈良県の中世戦国期の武士と城館の歴史を探訪し学んでいた時期がありました。その頃に回った城跡や館跡は400ヶ所余りを数えますが、大半は在地領主の館と詰城のセットでした。そして多くの場合、館または城のすぐ近くに寺があり、菩提寺の性格を有して平時はそこで政務を執るケースも少なくありませんでした。
そのケースが、ここ常幸院の立地にもあてはまりそうだな、と思います。五条ヶ丘は、いまは学校敷地になっていますが、地形から考えると城や砦を築くには絶好の場所です。武田氏の狼煙台が置かれていた、という伝承もたぶん本物で、実態としては市ノ瀬の常葉氏の支配圏の南側の砦、ということではなかったかと推察します。そのすぐ下に位置する常幸院は、常葉氏の砦とセットで配置された宗教拠点であった、とみても良いのではないかと考えます。
その仮定に立てば、常幸院の寺号も、常葉氏との関連で捉えるのが良さそうな気がします。創建以来の寺号であれば、常葉氏の多幸を祈念する、というような意味が込められていたかもしれません。
かつて甲府の歴史団体に参加していた頃、下部町役場の教育委員会の担当者に、現地が武田氏家臣の馬場氏の支配圏にあったと聞いたことがあります。長篠合戦で討死した馬場美濃守信房の実家にあたりますが、この馬場信房の本姓が常葉で、もとは常葉次郎であったそうです。
当時聞いた話を要約しますと、もともと常葉氏と馬場氏は隣同士の在地勢力として割合に友好的な関係にありました。当時の馬場伊豆守虎貞は甲斐の武田信虎に仕えていました。武田信虎は暴君であったので、馬場虎貞は憂いて諫言したところ、怒りをかい殺されました。馬場家は後継ぎが無くて断絶になるところ、常葉光季の二男の常葉次郎が馬場家に養子入りしてこれを継ぎ、馬場美濃守信房と名乗った、ということです。
後に、長篠の露と消えた武田氏の勇将にしたがって、織田徳川の圧倒的火力の前に次々と斃れて散った信房配下の将兵たちの何人かは、常葉次郎についてきた市ノ瀬の一党だった筈です。常葉氏の本家も武田氏滅亡と運命を共にしたそうなので、常葉氏もまた、歴史の彼方に消え去ったことになります。常幸院の寺史が詳らかでないのも、そうした在地の歴史の断絶があるからでしょう。
かくして由緒の多くを失った寺は、おそらく江戸期に再出発をとげて今に至るものと思われますが、それだけに、古刹にありがちな歴史の重苦しい風情とは無縁です。なにかホッとするような、明るさと安らぎの空間として綺麗に整えられた境内地の一角には、上図の語らいの場とみられるベンチがしつらえてありました。
その中央の机の上には、「ゆるキャン△」のあの5人の画像と交流ノートがありました。ここの住職は想像以上にノリノリなお方であるようですが、この日は留守であったのか、寺のどこにも人の気配が感じられませんでした。
いずれ5月にまた訪れる予定がありますので、とりあえず退出しました。
旧下部中学校への坂道を登る途中で、常幸院の境内地全景を見ました。この一帯は東に五条ヶ丘の丘陵、西に常葉川があってそれぞれが天然の城壁と濠の役目を果たします。在地勢力が拠点を置いて防御も意識するには相応しい地形です。
寺の西側は傾斜地になっていますが、かつては切岸が設けられていた名残ではないかと思います。一帯をくまなく発掘調査すれば、中世戦国期特有の土塁や溝などの遺構が検出される可能性は高いでしょう。常幸院の現状から元の地形を復元推定すると、前身寺院はもう少し南寄り、いまの駐車場入り口の小堂あたりに位置し、北側に切岸、南側に門を置いて門前の道は五条ヶ丘の砦への連絡路にもなっていたものと思われます。
いまの旧下部中学校への登り道は、かなり屈曲してから尾根斜面を斜めに上がるのですが、これは中世戦国期の城館への大手道によく似た形式です。かつての五条ヶ丘の砦への道を大体踏襲して、学校建設時に拡充された結果であろうと思われます。
さらに、いまの下部町の街区自体が、もとは中世戦国期の集落から出発しているような雰囲気があります。県道419号線は間違いなく昔の往還を伝えており、常葉川を天然の外濠に見立てれば、城下集落のメインルートであった可能性が高いです。だから南側で道がクランクして辻になっているのであろうし、北側の尾根筋には木戸を設けるに適した場所があります。
いずれにせよ、歴史的に見てもなかなか楽しい地域だなと思います。五条ヶ丘エリアは、特に道や地形や寺の状態が、かつての在地勢力の城下集落の面影をしのばせます。「ゆるキャン△」聖地巡礼に、歴史散策をプラスすれば、より楽しめそうですね。 (続く)