徳丸無明のブログ

雑文、マンガ、イラスト、その他

桃屋 桃屋の搾菜(ざあさい)

2024-07-19 23:50:03 | 
今日は付け合わせです。




コリコリの歯ごたえに、香辛料とごま油が効いたしょっぱさ。中華料理の箸休めに、あると嬉しい一品。それがザーサイ。
怒髪天の今後も気になります。アル中は病気で、本人の責任ではありません。
中華料理・・・そう、中華の思い出を話しましょう。がっかり飲食店の話。
某中華チェーン店に行ったときのことです。炒飯と餃子を頼むことにしました。
餃子は普通のやつと、チーズ餃子というのがありました。メニューには写真も説明もありませんでしたが、チーズ餃子って聞いたことなかったし、興味と食欲をそそられたので、注文してみました。
出てきたそれは、普通の餃子の上に、チーズソースをかけたものでした。
僕はがっかりしました。餡の中にチーズを混ぜてあるか、皮にチーズを練り込んでるかだと想像していたからです。
なのに、餃子にチーズソースをかけただけ。なんの工夫もない、安直なかけ合わせです。
しかもそのチーズ餃子、普通の餃子より200円も高かったのです。たかだかチーズソースをかけただけ。チーズソースをチューッと絞りかけただけで、200円も取っていたのです。ぼったくりじゃねーかと思いました、
そのチーズソースにしたところで、餃子に合うやつを自社開発したとかじゃなく、業務用のをテキトーに選んで買ってきただけなのでしょう。おいしいっちゃおいしいけど、定番商品としてアリとか、普通の餃子よりこっちのほうがいいとか、そういうふうに思わせるほどではありませんでした。
この程度でプラス200円なら、普通の餃子のほうがいいとしか思えませんでした。がっかり気分で食べたのです。

それから、某定食チェーン店に行ったときのことです。期間限定で販売されてた、チキンカツカレーを注文しました。
したら、出てきたカツカレー、貧相そのものでした。カツが異様に小さかったのです。メニューの写真と比べて、3分の1ほどの大きさしかありませんでした。
写真が実物と違うというのは、よくあることです。おいしそうに見えるよう、食べ物に不自然な手を加えていたり、写真そのものを加工したりするものです。
しかし、そのカツカレーは、そんなレベルではなかった。もはや詐欺と言っても差しつかえないほど写真と実物が違っていたのです。
しかも、カツにすら見えなかった。カツじゃなくて、フライドチキンにしか見えなかったのです。
ころもが薄くて、カツ特有のデコボコもありませんでした。一般的なカツは、黄色寄りの薄い茶色ですが、それは濃い茶色をしていたのです。
ちゃんとパン粉つけて揚げてんのか?小麦粉しかつけてないんじゃないか?そんな見た目だったのです。
僕は店員さんを呼びました。そして、「このカツはこれで合ってるんですか?」と尋ねました。店員さんはややとまどい、「作り直したほうがいいですか?」とおっしゃいました。
僕は、「いや、写真とだいぶ違うので、これで正解なのかと訊いてるんです。正解ならそれでいいんです」と説明しました。店員さんは厨房に確認しに行き、戻ってきて、「これが正解です」と答えました。
ならしかたないと、そのカツカレーを食べました。味はよかったんですけど、なんか満たされない感がありました。
チェーン店ってのは、本社が販売メニューを決めるものです。各店舗は、決められたメニューを、決められたレシピ通り作る。
だから現場の店員さんたちは、「このチキンカツカレーのカツ、貧弱すぎんか?」と思ったとしても、そのまま作るしかない。そんな決まりごとで成り立っている世界なのです。
だからこちら(客)としても、そういうものとして受け入れるしかない。不平不満を言ったり、騒いだりしてもしかたないのです。イヤなら行くなってことです。
それにしても、あれだけ写真と違うカツを出して、客が離れていくとは考えなかったのでしょうか。目先の利益に目がくらんだのでしょうか。
そのお店には定期的に通っていたのですが、このチキンカツカレー事件を機に、次第に足が遠のきました。そして、新型コロナが流行りだして2年目くらいで潰れていました。
カツカレーでだまされた気分になったとはいえ、長くお世話になっていた店でもあり、なんとも言えないせつない気持ちになりました。
皆さんはがっかり飲食店に当たったことはありますか。お店選びはギャンブルです。外れることだってあります。
外れたとしても、それも人生。心の中の五郎さんに力をもらい、今日も孤独にグルメ道を歩みましょう。

ロッテ BIGスイカバー

2024-07-12 23:41:33 | 
今日は果実棒です。




今年も夏がやってきました。むやみに暑く、暑すぎる夏が。夏はスイカです。アイスなら皮まで食べられます。ウチのばあちゃんは、スイカの皮で漬物を作ってました。
スイカと言えば、塩かけたりするじゃないですか。スイカに塩。塩をかけると、甘みが増すっていいますよね。
皆さんはスイカに塩かけます?僕はかけません。しょっぱくなるからです。
子供のころ、一度だけ薦められて塩をかけてみたことがあります。したら、まずしょっぱい味がして、そのあとスイカの甘みがきました。直後に、しょっぱさと甘さの混じった、不可解な味になりました。その経験から、二度とスイカに塩はかけるまいと誓いました。
僕はまるで理解できないのです。なぜスイカに塩をかける習慣があるのか。
子供のころは、それは錯覚なのではないかと考えていました。スイカに塩をかけると甘みが増すというのは、塩のしょっぱさのあとに甘みに触れるから、その反動というか、ギャップみたいなものによって甘みが増したように感じているだけではないかと。だから、スイカに塩かけてる人は、錯覚にだまされてるだけのアホなのだと思っていたのです。(それにしても、なぜ数ある果物の中で、スイカだけに塩をかけるのでしょうか)
でもまあ、ひょっとしたら本当に甘くなってはいるのかもしれません。塩がスイカに付着するとなんらかの化学反応をもたらし、糖度が増加する、ということが実際に起きているのかもしれない(そのへんの詳細をご存じの方、情報提供お願いします)。
でもですよ、だとしてもですよ。しょっぱくなっちゃうじゃないですか、スイカが。塩がスイカに化学反応をもたらすとしても、もたらしたうえで塩がきれいさっぱり消えてなくなるわけではない。塩は、スイカの上に残るのです。だから、どうしても甘さの前にしょっぱさを感じてしまう。しょっぱさはなくならないのです。
だから僕はイヤなのです。甘い果物を食べるのに、しょっぱさは感じたくない。仮に甘さが増したとしても、しょっぱさによって甘さが相殺されてしまう。そんなことをするくらいなら、甘みの薄いスイカを食べたほうがマシです。ナチュラル指向です。
チョコレートかけたポテトチップスとか、塩豆大福なんかは好きですけどね。スイカに塩はないですね。
ゆで卵にケチャップかけたりもしないし、唐揚げにレモン絞ったりもしません。
今はもう品種改良もだいぶ進んでるでしょうから、スイカもずいぶん甘くなってることでしょう。特別高級な品種じゃなくても、充分な甘さを感じられるようになってきているのではないでしょうか。
だからたぶん、スイカに塩も、過去の風習になりつつあるのだろうと思います。ひょっとしたら、もう一部の年寄りしかやってないのかもしれません。
「スイカに塩」の習慣がなくなってしまうのはさみしい?日本の伝統がひとつ消えてしまう?
いやいや、僕はなくなっていいと思います。だって、アホな習慣ですもの。甘さだけでなく、しょっぱさも感じなくてはならない、バカげた食べ方ですもの。果物という、甘味を食べる場面で、塩気を味わうという、理不尽な食べ方ですもの。
「昔はスイカに塩をかけて食べていました。昔の人は、それでスイカが甘くなると信じ込んでいました。実に愚かな習慣でした」いずれそのように語られるときがくるでしょう。それでいいと思います。そうなるべきです。
僕はスイカに塩はかけません。もちろんスイカバーにもね。

江崎グリコ カフェオーレ オリジナル・たっぷりミルク・コーヒー濃いめ

2024-07-05 23:46:05 | 
今日はカフェの俺です。








僕が子供のころからありますが、昔はオリジナルだけでした。カフェオーレでコーヒーの味を覚えたという人も少なくないでしょう。ひょっとしたら僕もそうかもしれません。万人にやさしい、まろやかな味。
コーヒー・・・、そうですね、喫茶店の話でもしましょうか。オシャレなカフェの話。
スターバックスの飲み物は、サイズの表記がショート・トール・グランデ・ベンティってなってるじゃないですか。前に友近さんが、あの表記をうっとうしいって言ってたんですよね。細かい言い回しは覚えていないんですけど、わざわざ馴染みのない言い方して、カッコつけてるとか、そのようなことを話していました(この思いから、英語を全部日本語に言い直すピザ屋の店員、西尾一男が生まれたのでしょうか)。僕もおおむね同意なんですよね。
もっと言えば、僕はファーストフードとかの、S・M・Lもけっこううっとうしいと思っているのです。日本なんだから、小・中・大でいいだろうと。MとLって、聞き間違えやすいですしね。
オシャレぶりたい若者の心をつかむ代わりに、中高年以上を置いてけぼりにしているのです。そもそもグランデって何語なんですか。

カフェであとひとつ思うのがですね、栄枯盛衰についてです。昔は、ドトールコーヒーがオシャレカフェだったわけじゃないですか。いや、僕はドトールができたばかりの空気を知らないので、推測で話してますけど、たぶんそうですよね。1980年に1号店ができたそうで。
で、1996年にスターバックスが日本に入ってきました。そしたらスタバがオシャレカフェとしてチヤホヤされるようになって、ドトールはそのぶん降格というか、ちょっとだけオシャレじゃなくなったんですよね。チープ化したというか。
そんで今、ブルーボトルコーヒーが徐々に勢力を拡大しつつあるじゃないですか。第3の外資系カフェと言ったらいいんでしょうか。いずれスタバもブルーボトルに取って代わられ、今ほどオシャレとは見なされなくなるのでしょうか。
栄枯盛衰ですね、はい。
でもなんか、ブルーボトルって出店数を抑えてるように見えますね。あんまりバカスカ店舗増やしちゃうと安っぽくなるから、高級感を維持するために、あえて店の数を少なめにしている、みたいなね。いや、なんとなくですよ。
店舗数が少なければ知名度もあまり高まらないから、それによってスタバの「オシャレカフェナンバーワン」の称号は揺るがぬまま、という展開もあり得ます。
さてさて、どうなることでしょうか。
それにしても、「オシャレでっしゃろ」とばかりにスタバのカップ持ち歩いてる若者、あれなんなんでしょうね。モデルを気取ってるようで鼻につきます。座って飲めっつーの。
なんかスタバって、味よりもオシャレさで選ばれてる感ありますよね。みんな味よりもオシャレを消費しているというかね。純粋に味だけでスタバ選んでる人ってどれだけいるんでしょうか。
そういや福岡市には、大濠公園っつー有名な公園があるんですけど、10年くらい前に、その公園の中にスタバができたんですよね。僕、それがちょっと引っかかってて。
公園ってのは公有地じゃないですか。市か、県か、国が所有している土地のはずです。その土地の中に、いち営利企業の喫茶店ができるとは?どのようなカラクリが働いているのでしょうか。
まあそれ以前にもロイヤルホストとホットドッグの屋台があったんですけど、その2店はひかえめな場所にあったのに対し、スタバは目立つところにドーンとあるんですよね。だから「ん?」ってなったんです。
ほとんどの人は、「園内にスタバがあるなんて素晴らしい」としか思ってないみたいですけど、僕は気になっているんです。裏事情をご存じの方、情報提供お待ちしています。
ちなみに僕、まだブルーボトルには行ったことありません。一応福岡市にもできてるんですけどね。でも普段足を向けない場所にあるし、わざわざブルーボトルのためだけに行こうとは思わないし、お高くとまった、いけ好かないオシャレヤングであふれ返っているのではないかと思うと、ちょっとカンベンなんですよね。
一度くらいは飲んでみたいですけどね。もうちょっと時間が経って、お店が人々に馴染み、オシャレさん以外も出入りするようになったら行くかもしれません。
水出し(コールドブリュー)コーヒーはあるのでしょうか。僕は水出しが好きでしてね。あの生っぽいかんじがね。
ブルーボトルに行ったことがある人は、コメント欄にレポートを提出してください。

明星食品 一平ちゃん夜店の焼きそば 豚旨塩だれ味

2024-06-29 00:00:55 | 
今日はナイトヌードルです。




僕は焼きそばはソースより塩味のほうが好きなんですよね。塩、スパイス、ニンニク、マヨネーズ。この組み合わせがたまらない。
一平ちゃんは昔、松村邦洋が下品なCMやってましたね。ところで、通訳の一平ちゃんは今どこで何をしているのでしょうか。
通訳、・・・それすなわち国際的。国際標準の話をしましょう。
今、韓国のミュージシャンが世界を席巻しています。BTSやTWICEやBLACKPINKなど、様々な国でコンサートを開催していますよね。
そんな韓国のミュージシャンの活躍を見て、「それに比べて日本のミュージシャンは遅れを取っている」みたいな言い方する人いるじゃないですか。日本のミュージシャンだってYOASOBIとかBABYMETALとか、けっこう世界に受け入れられてますけど、経済規模で比較するなら韓国のミュージシャンのほうがずっと上回っているみたいなんですよね。
なので、「日本のミュージシャンは国際標準に対応できていない。そこは韓国のほうがうまくやっている」と言っているのです。
でも、僕はちょっとまてよと思うのです。
まず、ぞれぞれの国の事情が違います。韓国は、人口が日本の3分の1と、小規模。また、芸能界の構造上の問題もあるのか、国内のマーケットだけでは経営が成り立たないのです。したがって、最初から国際標準を視野に入れて音楽活動を開始せざるを得ない。
それは国策でもあったそうで、韓国では官民挙げてミュージシャンを世界に売り込んできたのです。いわば、それは生き残り戦略だった。
それに対して、日本は国内の稼ぎだけでも黒字が出せるため、国際標準を念頭に置く必要がないのです。お互いの国の事情が違うのです。
話はそれだけにとどまりません。たしかに、経済という面にだけ着目すれば、最初から国際標準を意識していたほうがいいのでしょう。ですが、それはいいことばかりなのでしょうか。マイナスの要素もあるのではないでしょうか。
僕はあると思います。国際標準(正確には欧米基準ということですが)であるとは、普遍的だということです。普遍的な音楽。それは、自国の独自性を排除した音楽となるはずです。
その国ならではの文化、受け継がれてきた伝統。それら独自性を捨て去って成立するのが普遍的な音楽なのです。
だとしたら、国際標準のミュージシャンは、高い経済力を獲得するのと引き換えに、独自性を犠牲にしてしまっている、ということになるわけです。
それは、本当に素晴らしいことなのでしょうか。日本のミュージシャンも、そのような国際標準を目指すべきなのでしょうか。
僕はそうは思いません。
マーケットの規模は縮小したとしても、独自性を守った音楽活動があっていいと思います。
もちろん、「オレはとにかく稼ぎたい。ハナから国際標準でいくぜ」というミュージシャンがいてもいい。でも、国内のマーケットだけで食べていけるのなら、その規模に見合った活動をしていればそれで充分だと思います。

それに、国際標準じゃないと世界に受け入れられない、というものでもありません。日本の独自性を面白がってくれる外国の方だってたくさんいます。今は松原みきさんの「真夜中のドア stay with me」とか、竹内まりやさんの「プラスティック・ラヴ」とか、シティポップに注目が集まっているそうですね。
自分の立場で考えてみればわかることです。日本の文化にはない、外国の独特の音楽に触れるとき、好奇心やら不思議な感覚やら、なんとも言えない関心が引き起こされたりします。独自性は、魅力でもあるのです。
だから、軽々しく国際標準こそが絶対であるかのような言い方をすべきではないのです。国際標準によって、失われてしまうものもある。それはお金には換算できない価値だし、長い目で見たら、そちらのほうがお金を生み出すことだってある。
普遍的な音楽は、瞬間的には多くの利益を生み出すものの、あっという間に消費され、忘れ去られてしまうかもしれない。それに対し、独自性のある音楽は、細く長く聴き続けられていくかもしれない。韓国の音楽シーンは、当座の高い収益性を得るのと引き換えに、そのような独自性を喪失してしまっているのかもしれないのです。
国内のマーケットだけでも黒字を出せる、日本の芸能環境を喜ぶべきではないでしょうか。否応なしに自国の独自性を捨て、国際標準に合わせる必要がないのですから。
経済学者の佐伯啓思さんと、文芸評論家の三浦雅士さんが、対談本『資本主義はニヒリズムか』(新書館)の中で、「アメリカは60年代までは、映画であれば西部劇の『駅馬車』や『大いなる西部』や『アラモ』といった、アメリカ独自の文化が感じられる作品があった。70年代以降は『ブレードランナー』とか『エイリアン』とか、独自性が感じられない普遍的なものになってしまった。音楽や文学においても同じような変化があった」という話をしています。アメリカのような、世界のリーダーヅラしていばりちらしているような国ですらそうなのです(いや、ひょっとしたら、アメリカのような国だからこそ否応なく普遍化してしまう、ということなのかもしれませんが)。国際標準、つまり世界規模でカルチャーをお金に換えることを意識すると、独自の文化が普遍化してしまう。独自色を失い、無色透明になってしまうのです。
とにかく強調しておきたいのは、収益性が高ければ高いほど素晴らしいとか、国際標準に適しているほうが優れているだとか、欧米様のお眼鏡に適うようにすべきだとか、そういう考えを盲信すべきではないということです。それもひとつの価値ではあります。でも、それ以外の価値もある。
国際標準に合わせることによって失われてしまうものもある。そんな一面も気にかけるべきです。
ダイナマイトもいいけど、大悟マイトもいい。そーゆー価値相対主義でいきましょう。

菓道 いか太郎

2024-06-21 23:59:23 | 
今日はいか家の太郎くんです。




イカ粉とカットスルメと魚肉すり身を混ぜ、薄くのばして焼き上げ、さいの目にカットしたもの。写真のような焼きイカと思ったら大間違いさ。
そろそろ夏。蚊の季節。蚊の話でもしましょうかね。
世の中には、いろんな蚊がいます。たとえば、マヌケな蚊。
血を吸いすぎて、飛べなくなってる蚊がいたりしますよね。畳の上を何かが動いていて、よく見てみたら蚊だった、ということがありました。
そいつは僕の血を吸っていたんですけど、血の吸いすぎで体が重くなり、飛べなくなっていたんです。それでやむを得ず、歩いて帰ろうとしていたのです。
ノロノロとした歩みだったので、しっかり潰してやりました。

あと、臆病な蚊もいますよね。慎重すぎるというかね。
そのタイプの蚊は、刺したかと思ったら、些細なことに反応してすぐ逃げるのです。そのようにして、何度も刺しては逃げてをくり返すのです。なかなか血を吸う段階までいかない。
なのでそのタイプの蚊に狙われると、何箇所も噛まれてしまう。刺され痕がたくさんできてしまうのです。
血をやるから一箇所だけにしといてくれって言いたくなりますね。

あとあと、吸血の仇を取ってもらったこともあります。
自宅の窓の桟(さん)のところに、蚊が止まっていたことがあったんですね。蚊は、お腹がふくれていました。気づかないうちに血を吸われていたのです。
蚊は僕の血を吸って、帰ろうとしたけど、窓ガラスにぶつかって、外に出られずにいたのです。よくありますよね。
叩こうとして近寄ったら、クモが蚊に飛びかかりました。僕より先に、クモが蚊に狙いを定めていたのです。
蚊より少し体が大きいクモ。足を蚊に絡みつかせ、噛みつきました。蚊はもがいていましたが、徐々に大人しくなっていきました。
「クモ、ナイス!」と思いました。クモに仇を取ってもらったのです。
クモは捕獲した獲物の体液を吸うそうですが、僕の血も一緒に吸ったのでしょうか。だとしたら、血の味の感想を聞いてみたいものです。

あ、ところで、蚊に刺されたら特にかゆい場所ってあるじゃないですか。
指とかすごくかゆいですよね。かゆみを感じる神経が特別多いってことなのか。
でも僕ね、アキレス腱が一番じゃないかって思うんですよ。かゆみを感じやすい場所っていうのもありますし、表を歩くときだと、刺された箇所が、靴と微妙にこすれるんですよね。そのこすれ具合によって、なんとも言えない、感情を逆なでされるようなかゆさが引き起こされるのです。
いやー、思い出しただけでゾッとしますよ。
あります?アキレス腱刺されたこと。

また、蚊がどうなったかわからなかったこともありました。
蚊が飛んでるのに気づいたから、両手で叩いた。そしたら、手には血だけが付いていたのです。
蚊は潰れておらず、下に倒れていたわけでもなかった。蚊の姿はどこにもなく、鮮血だけが付着していたのです。
血が付いていたということは、血を吸った蚊を叩いたということです。じゃないと血が付くはずがない。
なのに、蚊の姿はどこにもなかったのです。蚊は、血だけを残してどこかへ行ってしまったのです。
どう叩いたら、どういうふうに当たったらそうなるのでしょうか。いまだにわからないままです。

それと、知らないうちに殺していた蚊っていうのもいますね。
朝目が覚めて、寝間着のTシャツの背中を見たら、蚊が貼りついていたことがあったのです。布団のシーツには血が付いていました。
これはつまり、寝ているときに蚊がやってきて、背中を刺した。たぶん横向きに寝ていたのでしょう。そしてちょうどそのタイミングで寝返りをうって、蚊を潰したのです。
睡眠中の自分を褒めたくなりました。
テレビを観ているときに指がかゆくなり、ほぼ無意識で指を掻いてたら、蚊を潰していたこともありました。
蚊ってのは、人間に気づかれないように麻酔みたいなやつを注入してから血を吸うそうなんですね。だから、刺されてしばらくしてからかゆくなる。
しかし、中には麻酔の注入を忘れるうっかりものの蚊がいるのですね。そうなると刺されてすぐにかゆくなるから、血を吸ってる途中でバレたり、かゆい所を掻いた指に潰されちゃったりするのです。
マヌケめ!

それから、蚊と同棲していたこともあります。12月に、家の中で蚊を見つけたのです。白黒のヒトスジシマカではなく、茶色のアカイエカ(もしくはチカイエカ)でした。
とっさに叩こうかと思いましたが、そいつは壁に止まっているだけで、刺してくる気配がありません。
そうか、こいつは冬を越えようとしているだけなのだ。今は血を吸うつもりなどさらさらないのだ。僕と同じように、寒さに凍えているのだ。寒さをしのぐために僕の家の中に入ってきたのだ。そう気づきました。越冬つばめならぬ、越冬蚊です。
言わば、今は休戦状態なわけです。それなのに攻撃を加えるなど、武士道に反する行為です。僕はそいつを殺さず、住まわせておくことにしました。同棲生活の始まりです。
そいつは、日ごと時間ごとに、家の中のいろんな場所に止まっていました。四六時中意識していたわけではないのですが、ふとした瞬間に目につきました。
そのたび、「よぉ、調子はどうだい」などと、心の中で話しかけていました。
そしたら、夏を迎えるはるか前に、そいつはいなくなってしまいました。まだ血を吸う季節ではないのに。彼女に何があったというのでしょう。
もしやクモに捕食されてしまったのでしょうか。それとも、寿命が尽きてしまったのでしょうか。
真相はわからぬままです。さらば、ひと冬の友達よ。

それからまた、偶然に生体実験みたいなシチュエーションになったこともあります。
ある日、自宅にいたとき、蚊が飛んでいるのに気づいたので、叩きました。蚊は、手のはじっこに挟まりました。
よく見てみると、お腹のところだけ潰れており、跳び出した血が、手に付着していました。僕は蚊をゴミ箱に捨てました。
しばらくして、ふとゴミ箱を見ると、蚊が丸めたティッシュの上に立ち上がっていました。死んだと思ったら、生きていたのです。
「あー、死ななかったのか」と少し驚き、でもほっときゃそのうち力尽きるだろうと、そのままにしときました。
さらにまた少しして、ゴミ箱を見ると、蚊がいなくなっていました。飛び去っていたのです。
腹が破けるという重傷を負っていながら、よくも動けるものだと、不覚にも感心してしまいました。
そこからまた少しして、ふと腕を見ると、なんと先程の蚊が止まっていたのです。重傷を負ってなお、果敢に血を吸おうとしていたのです。見上げたファイトスピリッツです。
しかし、ちょっと待てよと思いました。
この蚊は、腹が破けている。そんな状態で血を吸ったらどうなるか。
吸った血は、破れ目からダラダラと漏れていくのではないか。血が漏れるということは、蚊は、いくら吸っても満杯になったと感じないのではないか。
ということは、吸ったはしから血は漏れ出し、お腹からは血が流れ続け、吸っても吸っても終わりがこない、ということになりはしないだろうか。
だからこの蚊は、半永久的に血を吸い続けるということになりはしないだろうか。
なんか、ちっぽけなようで凄まじい状況だな、と思いました。僕がこのまま蚊を潰さなければ、ひたすら血を吸い続けることになるのです。
しかし僕は、すぐに叩いて潰してしまいました。そしてそのあとで後悔しました。なぜそっとしとかなかったのだろうと。
こんな特異な状況、めったに起こるものではありません。だからひとつ、体を張った実験として、そのまま吸わせておくべきだったのではないか。少なくとも、お腹から血は漏れ出すのかどうかだけでも見届けるべきだったのではないか。そう思いました。
ですがもう手遅れです。蚊は潰してしまいました。
人生とは取り返しのつかないことの連続です。それを蚊から教わりました。
皆さんの中に、お腹が破けた蚊に血を吸われたことのある人はいますか。もしいたら、お話聞かせてください。