徳丸無明のブログ

雑文、マンガ、イラスト、その他

2017年のまとめ

2017-12-31 17:52:57 | お知らせ
皆さん、こんにちは。
年末のご挨拶をさせていただきます。

お陰様をもちまして、今年は一定のペースでブログを更新し続けることができました。来年はどうなることか・・・。更新頻度は落ちても、一応続けていければとは思ってますが(一年前も同じ事書いたような)。

ブログのアクセス数の伸び悩み問題ですが、去年よりだいぶ良くなってはいます。
トラックバックの有効性に気付いてからは、人様のブログにコバンザメ的に寄生させてもらうことでアクセスを稼いでいたのですが、先月でgooブログのトラバ機能が終了したために、その手段が使えなくなってしまいました。まさかサイドバーの最新トラックバック一覧の表示すらなくなるとはね・・・。あれは痛かった。
今年になってからは、ほぼすべての記事をフェイスブックでシェアしていただけるようになりました。こちらでは確認できていないのですが、いつも同じ方がしてくださっているのでしょうか?どなたか存じませんが、いつもありがとうございます。ツイートしてくださっている方もいるんですかね?ありがとうございます。それからはてなブックマークをしてくださった方々にも感謝を。お陰様でアクセスが伸びております。
でも、まだまだ足りない!
皆さん、いいんですよ?もっとシェア&ツイート&はてブしていただいて。遠慮は不要です。気にしないでどんどんやっちゃってくださいね。と言うか、むしろやるべきだ。やろう。やればいいじゃないか。やりたまえ。やりなさい。やるんだよ。やれや。

僕はこれから「RIZIN」と「笑ってはいけない」を並行して観ます。「紅白」は観ません。90も半ばを過ぎた母方の祖母が、「最近の紅白に出てるのは半分以上が知らない人」とよく愚痴っているのですが、僕もだいたい同じ感覚です。メジャーな音楽はほとんど聴かないので、よくわからないのです。ちなみにこの祖母は、何故だか知りませんが嵐のファンでもあります(大野君推しだそうで)。

先の予定を少しお話させていただきますと、現在短編マンガの制作を進めていまして、年明け2月か3月あたりには公開できるのではないかと見込んでおります。あまり期待しないで気長にお待ちください。
それでは、良いお年を。

神話と火と二足歩行

2017-12-26 21:35:42 | 雑文
田中基の『縄文のメドゥーサ』を読んだ。これはおもに縄文土器について書かれた本なのだが、土器に施された紋様はただの装飾ではなく、縄文人の神話が込められているのだという。
中でも特に印象的だったのが「香炉形土器」である。香炉形土器とはランプの一種で、女性の身体を模している。極端にデフォルメされた形状をしており、小さな頭部の下に内部が空洞になった胴体部分がある(マトリョーシカに近い)。胴体には丸い大きな穴が開いており、その周縁に沿うように手足が小さくかたどられている。胴体の開口部は何に当たるのかというと、それは陰部なのである。(小生のこの稚拙な説明では土器の形状が正しく伝わっているかどうかが心許ない。できれば各自「香炉形土器」で画像検索していただきたい)
つまりこの土器に火を灯すと、開脚した女性の陰部の中に火が燃え盛って見えるようなデザインになっているのである。これこそが縄文人の神話の反映であるというのだ。
田中によれば、火が女神の体内から生まれるという神話は世界中に分布しているという。同書に示された具体例は以下の通り。

「北東ニューギニアのビリビリ島=老女の陰部、東南ニューギニアのワガワガ族=両足の間、南西ニューギニアのマリンド・アニム族=男女の性交により発火、ニューギニア東方のドブ島=体から、トロブリアンド諸島=両足の間、北オーストラリアのカカドゥ族=膣、ポリネシアのマルケサス諸島=体の各部分から、ニュージーランド=手の指、北ブラジルのタウリパン族=体内、グィアナのワラウ族=口、タルマ族=膣」

ここで思い起こされたのが精神分析学者ガストン・バシュラールの『火の精神分析』である。バシュラールは同書の中で、人類が火を獲得した経緯について、独自の論を展開している。
一般的に、人類が火を熾すことを覚えたのは、風に煽られた木と木が激しくこすり合わさって発火するのを偶然目撃し、それを模倣したことによるとされている。しかし、バシュラールはそうではない、と言う。火熾しは、性交の模倣だというのである。性行為、つまり性器と性器の激しい摩擦によって熱が生じることから、性器以外でも摩擦を行えば熱が得られ、発火に至るのではないかと考えたのだという。
バシュラールの説が正しいかどうかを検証する術はない。しかし、仮に正しいとするならば、火を獲得するに至った経緯は、女神の陰部から火が生じたという神話にも反映されているとみていいだろう(マリンド・アニム族の神話はまさしくズバリである)。

田中は『古事記』の中のイザナミ神話も引き合いに出している。原初の男女神イザナギとイザナミは、性交によって国土を産み、神々を産んだ。海の神、風の神、木の神、山の神など多くの神々を産み落としたイザナミだが、火の神カグツチノカミを産んだ時に陰部が焼けただれ、それが元となって命を落とす。(田中がイザナミ神話を引用したのは、イザナミ死亡後の冥府下降を紹介するためで、それもまた縄文土器の神話理解を深めるための重要なエピソードなのだが、本論とは関係ないのでここでは触れない。興味のある向きは同書を読まれたし)
ここでふと思ったのが、このイザナミのエピソードは、人類の進化の歴史を組み込んでいるのではないか、ということである。
人類の歴史の中で、最も大きな転換点のひとつが「二足歩行」であろう。四足歩行から二足歩行になったことで、両手を自由に使えるようになった。両手の自由化は、道具の高度な使用を可能とした。チンパンジーも木の枝を道具として使用することから明らかなように、四足歩行であっても道具は使えるのだが、二足歩行のほうがより高い精度で道具を使いこなすことができる。少し大袈裟に言えば、二足歩行とは両手を道具の使用に特化する、ということである(道具を高度に使いこなしたい、という願望が先にあって、それが二足歩行への推力となったのかもしれない)。
人類が使いこなせるようになった道具は様々だが、とりわけ大きな助力となったのが「火の獲得」である。火を我が物とすることで人類が何を可能としてきたかについては、いちいち説明するまでもないので省略するが、二足歩行によって得ることができた最大のものが「火の使用」と言っていいのではないだろうか。
しかしながら、二足歩行はメリットばかりをもたらしたわけではない。デメリットもあった。
二足歩行のデメリット、それは骨盤の形が変わり、産道が狭くなったことである。ご存知の通り、人間の赤ん坊は未熟な状態で産まれてくる。例えば馬の子供は産まれてすぐに歩き出し、授乳以外では母親の手を煩わせることはない。しかし人間の赤ん坊は、少なくとも3年ほどつきっきりで面倒をみないと生きていくことができない。
なぜ人間の赤ん坊は未熟な状態で産まれてくるのかといえば、“産道の狭さ”のせいである。四足歩行から二足歩行へと切り替わり、それによって骨盤の形状が変化した。狭くなった産道で何とか出産を果たすために、人類は「赤ん坊を未熟なまま産む」という選択をする他なかった。人間の赤ん坊は、頭蓋骨がジグソーパズルのピースのようにバラバラな状態で産まれてくるが、それも産道の狭さからくるやむを得ない進化(むしろ退化と呼ぶべきか)であり、また、出産時に母体にかかる負担も、二足歩行後は格段に高くなってしまった。
現在は帝王切開という選択もあり、日本の妊産婦死亡率は低水準にあるが、本来出産とは命がけの行為であった。「産後の肥立ちが悪い」という言葉もある通り、死亡に至らない場合でも、何らかの病や後遺症を抱えることだってあったし、もちろん赤ん坊のほうが死亡することも多々あった。
これが二足歩行のデメリットである。もし、二足歩行後にもう少しでも産道が狭くなっていたら、人類は出産不能となり、絶滅していたことだろう。人類の産道は、出産を果たせるギリギリの幅なのではないだろうか。
つまりまとめると、人類が二足歩行によって得た最良のものが「火」であり、最悪のものが「出産に伴う死の危険性」なのである。イザナミが火神を産んで死んだというエピソードは、このメリットとデメリットを凝縮して物語化しているのではないか。イザナギとイザナミは、一番最初の男女ペアの神である(厳密には、最初の五組のペアのうちの一組)。その最初のペアが出産によって命を落とすというのは、二足歩行を始めた原初の人類が、出産時に死の危険を伴うようになった、という経緯の反映なのではないか。
ただ、もう少し角度の違う見方を採ることもできる。火神カグツチを産む前の、国土や海神や風神らを産んでいた時点のイザナミが人類の四足歩行時に当たり、火神の出産が二足歩行への進化時に該当する、という見方だ。
ちなみにイザナミの死後、カグツチはイザナギによって殺害される。この父による子殺しは何を意味するのか。
おそらく、人類が火を使いこなせるようになったということ、人類が火を自家薬籠中のものとしたことの比喩ではないかと思われる。火を熾せるようになったからといって、すぐに使いこなせたわけではないだろう。最初のうちは取り扱いがよくわからず、住居を燃焼させるなどの不手際があったはずである。そのような失敗を重ねたのち、人類は火を我が物とすることができた。カグツチの誕生が「火熾しを始めた時期」に当たり、その殺害が「火を使いこなせるようになった時期」に該当するのではないか。
殺されたカグツチの体からは新たな神々が産まれる。産まれたのは全部で16柱なのだが、大別すると、先に産まれた8柱は「刀剣の製造に関わる神々」で、後の8柱は「山の神々」である。火を使いこなせるようになったということは、鋳造、つまり金属加工も可能になったということであり、刀剣を含む様々な道具の製造が容易になったはずである。「刀剣の製造に関わる神々」の誕生はその事実を指し示している。
では、「山の神々」は?人類が火を使いこなせるようになったことで山の神々が産まれたとは、どういうことだろうか。
ここから先は推測中の推測になってしまうのだが、火の獲得によって、人類が山の中に入り込むのが容易になった、ということを表しているのではないだろうか。現代では、山登りはわりと気軽に行うことができる。登山道が整備され、手摺りや鎖などの補助具、標識のような目印もあるからだ。
しかし、原始時代においてはそうではない。温帯の草木が生い茂る日本の山には、まず人間の通り道がない。人身を脅かす獣が潜んでいるかもしれない。もちろん、山の中にまったく入り込めなかった、というわけではないが、基本的にそれは命がけの行為であった。
鎌や斧のような刃物があってこそ初めて草木を切り開き、人道を整備することができる。「刀剣の製造」には鎌と斧も含めていいだろう。刃物で草木を伐採し、余分なものは火で燃やす。また、松明があれば獣を追い払うこともできる。
つまり、「カグツチの殺害」による「山の神々の誕生」は、火を使いこなすことによって人類が山の中に分け入り易くなった――抽象的に言えば、山を制圧できた――ということを表しているのではないだろうか。

いやー、面白いね。自分で書いててなんだけど、こういう話、すごく面白い。
もちろん小生は日本神話の専門家ではない。ここに記したのは、いわば素人の当て推量である。『古事記』や『日本書紀』などの日本神話に詳しい方のご批判・ご助言を仰ぎたい。


オマケの余談。『縄文のメドゥーサ』には、ドブロクという酒が白濁していることから精液と結びつける発想があったということ、注口土器という、こちらは男性の身体をかたどった、注ぎ口の部分が男根になっている酒器があることも紹介されている。エッチな歌ネタでブレイクしたお笑い芸人の名前が「どぶろっく」なのは、ただの偶然ではないだろう。